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アーシャラフトの花嫁  作者:
雪色の花
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 気ままに歩くエリーゼに目的地はないようだった。いくらか時間をおいたあとに同じ道を通りかかっては、また別の通路を歩いていく。

 一週間を過ごしたといっても、ソニアが覚えているのは食事の行われる広間と書庫、そして自分の部屋を繋ぐ廊下だけだ。それも違う道を通ろうとすれば途端に迷ってしまうことが分かっていたので、使っていたのは毎回決まった通路だった。エリーゼはそうした事情を理解しているのか、目印となるような彫像や絵画を指しては、どこにつながる廊下なのかを簡単に説明する。

 その途中、ふと違和感を覚えた。

 ソニアは初めて自分から足を止める。どうかなさいましたか、とふり向いたエリーゼが、納得したようにああと声をあげた。

 ひとつの扉の前に二対の天使像が置かれ、その扉には女神の彫刻がなされている。そんな扉自体はそう珍しくはない。しかし、扉が取り付けられているのは宮殿の西端だ。ならばこれは外に通じているのみで、装飾がされる必要はないはずだった。

「そこは大聖堂に通じています」

 エリーゼが像の横に歩み寄る。天使像は宮殿側に手を伸ばし、扉の奥へ誘うように笑っていた。

「直接、ですか?」

「大聖堂に通じる渡り廊下につながっている、のほうが正確ですね。ご覧になりますか」

「あ、い、いいえ!」

 ぶんぶんと大きく首を振った。大聖堂に通じているというのであれば、渡り廊下を通れるのも限られた聖職者だけだ。アーシャに仕える神殿騎士ならばまだしも、ソニアが容易に踏み入れていい場所ではないだろう。エリーゼはその反応にくすりと笑う。

「正式に花嫁となれば、あなたも大聖堂に通うことになりますよ。日に二度、礼拝堂で女神に祈りをささげるのがアーシャの日課ですから。そこに付き添っていただかなくては」

「花嫁……」

「ええ、もう遠くありません」

 アーシャの婚儀は、冬の寒さが厳しくなる前に取り行われる手はずとなっていた。会場はアーシャラフトの大聖堂で、そのときのみ大聖堂には聖職者以外の立ち入りが許されるという。ノーディスを敬う周辺の貴族や騎士たちが集い、新たなアーシャの誕生を見届けるのだと。

 ミセラの名のもとに生きている以上はその婚儀も受け入れるべきものだ。けれど、ラクスのほうが婚儀を快く思っているはずがない。初日の食事を終えてからというもの、彼とのあいだにまともな会話はなかった。食事の席でも、隣に座っていながら無言で皿に向き合うばかりだ。

(わたしも、人のことはいえないけど)

 好きになると言った、その言葉に嘘はない。ここで生きると決めたのだから。

 けれど、恋の意味を自分は知らない。いとおしい、そばにいたいという気持ちも、わからないままで生きてきた。町をゆく恋人たちが手を握り合い、笑顔を交わして通り過ぎていくのも、戸惑いに似た思いで見つめるばかりだった。

(好きって、……なんだったんだろう)

 ふいに木製の扉が揺れて、ソニアの思考は中断される。エリーゼが半歩下がって眉を寄せると同時、かすかに軋んだ音を立てて目の前の扉がひらいた。

「おや」

 怪訝そうな顔をしたのは現れた人物も同じで、エリーゼとソニアを見比べて目をしばたかせた。息を飲んだエリーゼが地面に片膝をつく。

 彼もまたソニアと同じデザインの修道服をまとってはいるが、そのところどころに金糸の刺繍が施されていた。頭上には司教帽が存在を主張し、彼の身分を強く示す。しわの寄った目はラクスと同じ空の色。年齢を感じさせる髪はきつく編みこんで帽子のうしろから垂らされていた。

「アーシャの騎士殿と、そちらは」

 舐めるような視線が向けられる。思わずそらした視界の端で、エリーゼが小さくうなずくのが見えた。声が震えないようにと両手を握りしめる。

「ミセラ・ファルツと申します」

「ファルツ家の……貴女のことでしたか。私はマティアス、総大司教を務めています」

 ゆるりと頭を下げられ、慌ててより深く腰を折った。顔をあげたところでマティアスの瞳が眇められる。

「一時、亡くなったと伺いましたが」

「それは、」

 ソニアが言葉につまると、エリーゼが顔を伏せたままで助け船を出した。

「おそれながら、ミセラ様は記憶が曖昧のご様子。ファルツ家から追って書状が出されるかと存じます」

「ふむ、そうですか。……私はてっきり、アーシャとの婚儀からお逃げになったのかと」

 痛いところを刺され、顔が引きつりそうになるのをこらえた。冗談めかした声色ではあっても、言い放った本人の表情はぴくりとも動かない。

(逃げた、のは、わたしじゃないから。だいじょうぶ)

 自分に言い聞かせる。それからマティアスを振り仰いで、笑ってみせた。

 口の端をつり上げただけの笑顔が、相手にはどのように映るだろうか。懸念しながら、ソニアはそれでも表情を崩さないよう強く意識する。

「アーシャの花嫁にと選ばれたのですから。この幸いを、どうして厭うことがありましょうか」

 マティアスの瞳が一度ぎらりと光って、やがて夜の海のような静けさを取り戻していった。そうですかとひと声返して鷹揚にうなずく。

 出てきたばかりの扉を後ろ手に閉めて、彼は首だけで礼をした。

「では、所用がありますので失礼します。ミセラ様に女神の祝福がありますよう」

「マティアス様にも」

 そう返してから、修道服をなびかせ歩き去っていく彼の背中を見送った。心臓がうるさく音を立てている。ひそかに胸に左手を添えて、その手さえも震えていることに気がついた。長く息を吸ってはゆっくりと吐きだし、体じゅうの緊張を和らげるのに専念する。

 完全にマティアスが見えなくなるのを確認してからエリーゼが立ちあがった。自分より高くに戻ってきた彼女の顔を見あげる。

「今ので、だいじょうぶでしょうか」

「ええ、少々驚きました。ご立派でしたよ」

「よかった」

 ほっと息をつく。

 自分をミセラだと認識している人々が大半なのだから、常々ああして振る舞わなければならない。訝しがる相手にはその不審を取り除かなければ。行動は自分のものでも、名はミセラのものだ。借り物の居場所も自分のものに変えていく必要がある。

 それは一度作り上げた家を組み直す作業に似ていた。同じ材木を使っていても二度と元に戻せないのだから、別のかたちを目指さねばならない。

(できあがったものの方がいいとは限らない。……けど、作っていくしかないんだ)

 胸にあてがった手で銀薔薇を握りしめる。銀の細工はその芯に冬の冷気を閉じ込めていて、熱く脈打つ手にひやりと感触を返した。



     *



 凍りついたように凝り固まった体を、一度大きく伸ばした。小気味のいい音がして、どれだけ机に向かっていたのかと口のなかで苦笑する。

「レオン、外は」

 扉の横で待機しているであろう青年に呼びかけた。かすかに衣擦れの音がして、それから呼吸音が続いた。

「暗い。月が昇りきるところだ」

 素っ気のない物言いが彼らしい。歳は二十五を超えたところだろうが、地を撫ぜるような声は年老いた男のそれに近い。神官に比べ年若い人間の多い神殿騎士たちのなかでも彼を護衛に選んだのは、若者に必ずついてまわる慌ただしさが彼にはなかったからだ。それと同様に、口のきき方というものをどこかに忘れ去ってきたようだけれど。

 ラクスは机に手をついて立ち上がる。慣れきったこの自室と宮殿、大神殿のなかであれば、先導がなくてもひとりで歩ける。風の流れと足音の響き方さえ耳に入れば十分だ。

「少し歩きたい。だいぶ肩が凝っているみたいだから」

 無言で壁から離れたレオンが、そばの扉をいっぱいに開け放って抜けだした。彼の足音を追って部屋を出ると、扉が再度閉じられる。慣れがあるからひとりでも外に出られると何度も言ったけれど、頑固者であるらしい彼が一連の流れを止めることはなかった。

「どこまで行く」

 端的な問いに、そうだな、と考えを巡らせた。

「庭の横を通って、西回りで一周してこようか。あとは任せる」

 一声、肯定の意を返したレオンが歩きだす。音に耳を傾けて五歩ぶんの距離をとって続くと、彼が歩調を緩めるのがわかった。背の高い彼の歩みに追いつくには自然とラクスは早足にならざるを得ないため、いつしかレオンのほうが配慮するようになっていたのだった。

 どこからか夜風の入りこむ廊下に、レオンとラクスの足音だけが響いていく。ノーディスの教えのためにアーシャラフトの民は夜遅くまで起きていることがない。はっきりと目を覚ましているのはアーシャである自分ぐらいのものだろう――そう頭のすみで思った矢先、耳が火花のはぜる音をとらえた。

「今の音は……」

 自分に続いて足を止めたレオンに問いかける。音のした方向に首を向けていると、彼がそれに従って窓の外を眺めた。公共の中庭をはさんで反対側、そこにあるのは確か。

「書庫に明かりがある。誰かがいるのかもしれない」

「誰か、って。もう夜だ、神官が起きているわけが」

 言ってからはたとする。今や神官でない人間も宮殿にはいるのだ。まさかとは思うけれど、もし自分の言葉を真に受けていたならば。

 眉間にしわが寄った。それを見かねたらしいレオンから「どうする」と声がかけられる。いくらか悩んで、深くため息を漏らした。

「書庫に向かう」

 どうやら自分は、過去の失言の尻ぬぐいをさせられているらしい。

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