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アーシャラフトの花嫁  作者:
アーシャラフトの花嫁
67/69

 格子の取り付けられた窓から、甘い花の香りが漂ってくる。

 風に乗って書庫に流れてくるのは女神をたたえる歌もまた同じこと。少女の転生を尊ぶ聖歌は、澄みわたるソプラノに導かれて天を目指していた。

「……それで?」

 書物のページをぺろりとめくった青年が、白紙のそこにペンを走らせる。

 生活にはがさつなところのある彼だが、その字は意外にも整っている。以前目にしたことのある文章も簡潔なものであったのだから不思議なものだ。ソニアは自分の抱えた本に目を落としながら、ええと、と片手間に記憶を掘り返した。

「頬を殴ったの。あんまりな言いようだったから、頭にきて」

「殴ったって、公爵家の令嬢さまをか? 度胸あるよなあ」

「もちろん、すぐやり返されたけどね」

 あれは痛かった。今になってそこがじんと痛むような気がして、ソニアは殴られたほうの頬をさする。自分がそれだけ痛かったということは、彼女も同じぶんの衝撃を受けたのだろう。一発ずつ殴ったんだからあいこ、と言ってはいたけれど。

 さらさらと耳に心地の良い筆記の音が続く。ページの半分ほどを埋めたところでカミルは顔を上げた。

「さて、と、今日はこれで終わりにするか。いや、やっぱり波乱万丈だよ、あんた」

 そうかな。笑うとくり返しうなずかれた。

 彼が綴るのは、よく言えば緻密な年代記、その実は誰のものとも言えない日記だった。ふらりとソニアらの思い出を尋ねては白紙の本に記述しているのだという。他に誰に訊いているのと尋ねたとき、数人の神官や修道女、神殿騎士を指折り数えたあとに、彼はラクスやマティアスの名前をも出した。外出の許可を取った上で町に出てもいるというのだから驚きだ。

 仕事なのかと問えば、そうではないという。あくまでもその作業は彼の趣味であるらしかった。

 ぱたんと厚い表紙を閉じて、カミルは机の端に放られていた紙の束を引き寄せる。不愉快さを隠しもしない顔で上から下まで眺めた後、最後の数行に至って大きなため息をついた。その束の表題に目をやって、ソニアは笑う。

「もしかして、それが例の?」

「そう、例の書類」

 綴られた字はカミル本人のものだ。彼が教会の書庫管理を任されるようになってから、定期報告としてマティアスに提出するようになった書類である。文章の列は曲がることなく体裁を整えられており、字の粒の大きさもきちんと揃っている。三日かけた、という彼の説も信じざるを得ないほどの気の入れようだった。

 カミルらの行う教会の仕事は、普通、専門の大司教を経てマティアスが統括するものだ。だが彼の場合はその間にラクスの検査が入る仕組みになっていた。未熟な人間をナヴィア宮殿に推薦した者として自分が責任を負う、という建前ではあるが、要するに。

「単に俺をいびりたいだけだろあいつ……!」

 カミルが頭を抱えて叫ぶ。その言い分ももっともなのだった。

 本人いわく“裏表五枚に及ぶ数年来の大作”に目を通したラクスが最初に放った言葉は「やり直し」だった。はあ? と口を開けたカミルに紙の束を返し、そっけない表情を揺るがしもせず、肩をすくめて。

「最後の一文。ひとり名前の綴りが間違ってる。やり直してくるんだな」

 それからのカミルの荒れようは壮絶なものだったという。自分がどれだけその書類に手をかけ、心を砕き、時間を裂いたのかをまくしたて、最後はレオンハルトに引きずられるようにして部屋を追い出されたらしい。その一部始終をラクスから聞いていたソニアは苦笑するほかなかった。

(内容は良かったって、言えないんだなあ)

 もちろん、それをわざわざソニアにこぼすこともしなかったけれど。

 わざわざ綴りの間違いに言及したのは、それ以外に欠点が見つからなかったからなのだろう。カミルの書類に再三再四の書き直しを命ぜられるのもこれが初めてではない。何度もそれをくり返すうち彼に火が付いたのだろう、一度でラクスという関門を突破しようと負けず嫌いを発揮しているようだった。あいつ、いつか、ぎゃふんと、と書庫にこもって呟いているのを目にしたこともある。

「この数年で前より字がきれいになったぞ、どうしてくれる」

 ぶつくさ言いながら、真新しい紙に同じ文章を書き写していく。中身は同じなのだから、今度の完成は一日もかからないことだろう。

「字がきれいなのは羨ましいと思うけど?」

 筆記音が止まる。不思議に思って本から目を離すと、カミルがにいと笑っている。ああこの目だ、とソニアは表情を曇らせた。

「何日もかけて、懇切丁寧に、綺麗な字で! 長い長い恋文でも送ってやろうか?」

「……あのねえ」

「はは、冗談。あいつに破り捨てられるのがオチだっての」

 ひらひらと手を振られるので本当に冗談だったのだろう。心臓に悪い、とソニアは手元の本のページをめくった。そして思わず眉を寄せる。書物の中では図説つきで解説されてはいるし、確かにその理屈はわかるのだけれど、いざ自分でするとなると難しいところがあるのだ。

 ソニアの本に目を止めたカミルが、ふうんと声を漏らした。

「今、どこにいるんだ?」

 唐突な問いの意味をつかみかねたが、遅れて理解する。自然と優しい笑みが漏れた。

「ヴィーネゲルンの修道院。預けておくと子供たちが喜ぶの」

「そりゃあ、な。……ああそうか、訪問は今日だっけ」

「ええ、そろそろ行こうと思っていたところ」

 本を閉じ書架に戻す。帰ってきたらまた続きを読もうと題を確認した。赤子の世話の仕方について記された書物は、宮殿には少ないのだ。ナヴィアの修道女に子供を持つ者もいない。頼れるのはクェリアに住むクラウディアぐらいなのだが、行きたいと言うとラクスは渋い顔をするのだった。幼いころの自分の話をされるのは彼とて嫌なのだろう。

(……そうだ)

 ふと立ち止まって、クェリアに留まる母のことを思う。

 先日クラウディアから送られてきた手紙によると、母マーシアは領主のもとで女給として働いているという。うまくはからってくれたのは他ならぬクラウディアだろう。文面では伝えてあるが、あとで直接礼を言おうと決めていた。

 クラウディアに会って、そして、母のもとへ。

 赤子だったころの自分の話を聞けるだろうかと頬がゆるむ。またクェリアに行く理由ができてしまったが、こればかりはラクスに許しをもらわなければならない。

「それじゃあこれで。がんばってね、カミル」

「はいはい」

 ソニアが考え事をしているあいだに、自分の書類に没頭していたようだった。顔を紙面に近付けて文字を書くのは癖だろう。同じ格好で書類に向かう人物がもうひとりいることを、おそらく彼は知らない。

 知らなくてもいいことだ、と思う。その背中を見つめているのは、自分だけでいい。

 書庫から足を出すと、エリーゼがむすっとした顔で立っていた。元の主、そして今の主に並々ならぬ親愛を抱いている彼女によると、カミルの存在は目の上のたんこぶであるらしい。どうにかなりませんかとラクスに掛け合っているのを耳にしたこともある。

「……ソニア様、やはり私も中に」

「エリーゼは、本は好きですか?」

 けろりとした顔で問うと、エリーゼは少し間をおいて、「嫌いではありませんが」と答える。やはり彼女は根っからの武人なのだと思いながら、ソニアはうなずいた。

「わたしは本が好きです。書庫はそんな人たちが集まって本を読む場所で、……そうしたら、偶然そこの管理の方とお話をしてしまっても、仕方のないことじゃありませんか」

 言外に、どんな過ちも起こりようがないということを伝える。開いたままの扉の奥で、ぶっは、と彼が吹きだすのが分かった。それが耳に入ったエリーゼは険しい顔をしたが、結局呆れるようにため息をついた。

「我が主は、口が上手くなられましたね?」

「ふふ、三年も大司教様たちに混じって仕事をするとそうなるんです」

 ソニアが婚儀を終え、アーシャの花嫁となってから三年。アーシャラフトでの生活は目まぐるしくもあったが、慣れは少しずつ、確かに積もっていた。

 イルマが総括をソニアに譲り、一介の修道女に戻ったのが一年前だ。そのころにはしどろもどろだった指示判断も、今では落ち着いてこなせるようになっている。現場に向き合うおかげでそれに伴う金銭の動きも目に見えるようになってきた。その上で修道女たちが軽視されていれば、ソニアはためらいなく声を上げる。肝が太くなったのはイルマのおかげだ。

 エリーゼを伴って宮殿を出ると、うららかな光が出迎えた。宮殿の前に付けられた馬は二頭、護衛として騎士が十人弱。見慣れた顔が多いことにほっとした。ラクスが気をまわしたのか、ソニアの外出に付き添う神殿騎士には女性や盛りを過ぎた男性があてがわれている。

 ようやくひとりで乗れるようになった馬にまたがると、ソニアは隣にあるエリーゼを見上げた。

「今日は確か、ラクスも……」

「ええ、メリアンツにいらっしゃいます。あちらでお会いになりますか?」

「……ええと」

 邪魔や負担にならないかと考える。エリーゼが面会を持ち出すぐらいなのだから、ラクスの任もそう重いものではないのだろうけれど。迷った末に「着いてから考えます」とだけ答えていた。

 それが肯定であることをエリーゼもよく理解しているのだろう、了解いたしました、とほほ笑んだ。

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