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アーシャラフトの花嫁  作者:
奇跡の名前
63/69

 貴方にお任せ致しますとマティアスは言った。

 老獪な総大司教は、その双眸に剣呑な光を宿し、鎧に包まれた年若きアーシャを見つめていた。曇るその蒼玉に懸想が覗いていたことも、その奥に希望を映しだしていたことも、ラクスの瞳に見出すことはできなかった。ただひとつラクスに託されたのは、与えられた言葉の意図を測ること。

「私に打ちうる手は全て打ちました。それでもなお、お選びになるのは女神なのでしょう」

 ほうぼうから集められた、アーシャラフトの神殿騎士は二千。青円を宿して戦う意志を持った民がほぼ同数だ。対するメリアンツは、国内で練兵された兵のみで三つの陣を組み、アーシャラフトに槍の穂先を向ける。一陣の人数が五千、計一万と五千。

 三倍を超える戦力差をしてなお、マティアスは女神の意思に勝敗を委ねるのだ。信仰心によるものか、彼の思惑に起因するものか、その真意に考えが及ばない以上、ラクスには青円を背負い馬にまたがるほかに道はない。

 真冬の風は、青銅の鎧を氷のように冷やしていく。まとった外套は寒さを防ぐためには作られていない。外気にさらされた耳に指をあてがうも、指先とどちらが熱を持っているのかも分からなかった。

「レオン」

 共に馬に乗る青年に呼びかける。押し殺した声で返答がされ、彼もまた気を張っているのだと気付く。

「……ときおり、考える。何故女神は、僕を守護者に選ばれたのか」

 いくつにも分かれた血脈のうち、支流のひとりが女神の寵愛を受けた理由。レオンの無言は続きを促すものとして受け取り、ラクスは目蓋を閉じる。ぶるる、と、胸の前で黒毛の馬が鳴いた。

「この座を望む者が、他にあっただろうと。僕でなくてもよかっただろうと、そればかりを。……でも」

 茫洋と広がる平原を埋めつくさんと軍勢は集う。向かい合う者のどちらも唇を噛みしめていた。例え多勢に無勢であろうとも、ぶつかりあうのは手ずから武器を握る者たちに違いはない。両軍の兵たちは騒ぎだすこともなく、互いの将が振り上げる合図に耳を凝らしていた。

「聖アーシャが戦ったのは、天の耳を持っていたからでも、盲目だったからでも、ないんだな」

 滅びゆく国に。愛する人に未来を。

 がむしゃらに手を伸ばした先に、剣があった。目を閉じればそこに、祈りがあった。彼にはそれだけで十分だった。

 レオンが馬の腹を蹴る。ゆるやかに歩みだした彼が、道を空けた人びとの間を過ぎる。感嘆の声を、吐息を、祈りを、ラクスは聞いた。

 相対する軍勢、その中央に開けた平原に、一対の馬が歩み出る。

「……貴方に兵を動かす気概があったとは驚きだな、アーシャ。崇め奉られるだけの飾りかと思っていたが」

 挑発であり、本音でもあったのだろう。皇帝は面白がるようにアーシャラフトの軍勢を眺める。

「そちらが軍を引き、我らに花嫁を返して下さると言うのなら、アーシャラフトに戦う意図はない」

 対するラクスは表情筋のひとつも動かさず、淡々と伝える。

 皇帝が嘲笑する。見えずとも分かった。のどの奥の接触が立てた微かな音、衣擦れの音まで、これ以上ないほどに鋭敏に研ぎ澄まされた耳が察知するからだ。

「それが偽りの花嫁だったとしても? ……ああアーシャ、聞いているぞ。刺客に狙われた花嫁を、貴方はかばったそうだな。それは身分を持たぬ娘への同情か、それとも」

「貴方が偽りの花嫁とのたまう女性は、間違いなく私の花嫁だ」

 遮るようにして言う。鼻白んだ皇帝が肩をすくめた。

「なるほど、女神女神とやかましい連中は、頭の中までお花畑になるらしい。アーシャラフトも哀れなものだ。何の後ろ盾も持たない娘を祀り上げるしかないとはな」

 低くなった皇帝の声に混じり、ラクスの耳には雑音が届く。馬蹄が大地を蹴る音、そして荒い息づかいから、広大な平原を疾駆する馬の姿を思い浮かべることは容易だった。いななきが天に響いて初めて、軍の前に立つ兵たちがざわめく。苛立たしげにそちらへ顔を向けた皇帝が目を剥いた。

 ラクスの目にその姿は映らない。けれど音は何よりも雄弁に、闖入者の正体を主に伝える。

 栗毛の馬の手綱を引き、風に灰の髪をたなびかせた女騎士。

 そしてもうひとり、アーシャラフトの花嫁の存在を。




     *




 前脚を高く上げて立ち止まった馬の首をするりと撫で、ソニアは顔を上げた。

 列をなして並ぶ人々の顔、顔、顔、そのすべてが自分を見つめている。合図ひとつでぶつかり合い、有象無象の亡骸と血染めの平原だけをあとに残すであろう者たちが。数千、数万の人員を集めてなお、冬枯れの平原は殺風景だ。

 ソニアは高鳴った胸の鼓動を抑えつけるように、大きく息をついた。白い吐息は形になり、消える。

「……これはこれは。清廉たる花嫁殿が、このむさ苦しい戦場に何用かな」

 にいと笑んだ皇帝の横に、二騎の騎兵が並んだ。帯剣したエリーゼとレオンハルトを警戒してのことだろうが、皇帝からは自ら剣を取るだけの気迫が見え隠れしている。誰かが斬りかかろうものなら、その直後に背後の二軍が前進を始めるであろうことは明らかだった。

「軍を引いてください、陛下。両軍が対峙することに何の意味がありますか」

「軍を引く? 面白い冗談を言う。どうやら花嫁殿はアーシャラフトの立場をまだ理解しておられないと見えるな。命令も警告もこちらから発されるもの、貴女がたの発するものは懇願のみだ」

 それに、と言葉を継いで。

「意味ならばある。この場に女神の存在は否定され、神の徒は剣と槍の徒に踏みにじられるというだけで」

 皇帝の口元にはっきりと浮かんだそれは愉悦だった。彼の悪意が憎悪や鬱屈に裏打ちされたものであったなら、まだ幾分御しやすいものであったろう。だが彼はあくまでも自らの野望と本能のままに、相手を馬上から引きずり降ろすことを快楽としている。

 ソニアは無意識のうちに胸の銀薔薇に触れた。彼女に残されたよすがは、静かに輝きを放っている。

「……あなたが残してきたヴィーネゲルンにも、メリアンツへの反乱が起こっています」

「それが?」何でもないことのように皇帝は問い返す。「主人の帰りを待てない愚かな犬ども。あいにく奴らが暴れたところで、我が城壁が削れることすら起こり得ない」

 彼の言葉は真理なのだろう。燃え上がった反逆の火は大きなものではあったが、メリアンツに残された兵たちが慌てふためくのも限られた時間のみだ。精鋭が戦場に集められようとも、それは本国の警備が手薄になることを意味するわけではない。

 なにか策は無いか、とソニアは懸命に頭を巡らせる。どんなものでも、皇帝を踏みとどまらせるに足る策を探す。しかしその頭が答えをはじき出すことはかなわなかった。思考を遮るようにため息をついた皇帝が、目に呆れと哀れみを宿してソニアを見つめる。

「命乞いならもっとうまくやることだ。もっとも、“次”は訪れないがな」

 つまらないものを見た、と言うように鼻で笑って、皇帝は唐突に剣を抜き払う。

 大振りの刃が鞘から姿を現すと、ふたりの騎士ははっとして手綱を繰った。一歩の後退の後、背を向けて距離を取るかという逡巡に、皇帝の声が忍びこむ。

「なるほど確かに、両軍が衝突することに意味はない。その通りだ。……アーシャ、花嫁、今ここで貴方がたが首を差し出して下さると言うのなら、もはや戦をする必要もないのだからな」

 ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。いけないと直感した瞬間に、ラクスの名を叫んだ。その直後、脳を揺さぶられるような衝撃と共に馬がその方向を変える。エリーゼがぐんと引いた手綱が、ソニアの目の前に軌跡を描いた。

(違う)

 狙われたのも、逃げるべきなのも、彼のほうだ。

 方向の転換に追いつかない目で、必死にラクスの姿を探す。反転する視界に、逼迫した兵たちの姿を見た。刃の閃きと空を切る風音。ああまただ、また繰り返してしまう、恐れが胸を叩いて、叫びだしたいほどの空虚が襲いかかる。もがいた手は空を切った。

 この世界から光が消えるぐらいなら、見えるものみな、塗りつぶされてしまったほうがいい。

(い、や、だ――)

 ふり返った先。

 やっと映した視界の果てに、ひるがえる閃光を見た。

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