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アーシャラフトの花嫁  作者:
祈りを忘れたこどもたち
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 扉を叩く音がする。続いて訴えの声、騎士の怒声。右手にペンを握っていたラクスは、吐息とともに後ろへ首をひねった。

「何組目だ」

「今日に入ってから三十と六つ」

「先週より伸びが早いな」

 アーシャに説明を求める神官たちの訴えだ。先週の始まりにメリアンツからの宣戦布告があってからというもの、ひっきりなしにラクスの扉を叩く者たちが現れるようになった。無論総大司教であるマティアスのもとには、軽く倍以上の神官が押しかけているのだろう。しかし誰もが部屋の前に張られた神殿騎士に言いすくめられ、追い返されて、何の成果もないまま踵を返すことになる。

 帝国からの宣戦布告と共に伝えられたのは、アーシャラフトの教会が偽の花嫁を寄こしたという非難だった。マティアスが口外しを禁ずる間もなく、教会にはたちまち噂は広がった。その結果がたび重なる神官の訪問だ。ラクスは進まない書類の始末を諦め、とうとうペンを置いた。

(マティアス殿も、戸惑われていることだろう)

 たとえマティアスが花嫁の正体に勘付いていたとしても、全容までは掴めるはずもない。教会のうちでそれを知るのはラクスと本人、そして護衛を固めていたレオンとエリーゼのみだ。マティアスが知らぬ存ぜぬという立場を取らないのは、ひとえに混乱を避けるためだろう。

「……侵攻は来週、と言ったか」

 問うと、レオンの口から肯定が返る。

 アーシャラフトの行いは帝国への侮辱に値する。例え本物の花嫁が渡されようとも、兵を引くことはしない。それが布告の概要であった。メリアンツでは今頃、着々と練兵が進められていることだろう。一方のアーシャラフトでは、混乱が混乱を呼ぶ事態に陥っている。

(裏で画策を積み重ねておきながら、ひとたび戦となれば真正面から戦いを挑む、か)

 もはや衝突は避けられない。そうすれば当然、今のアーシャラフトに勝ち目はない。

 帝国からの書簡が届けられて以来、ラクスは自らに問い続けていた。ならば自分はどうすべきか。聖アーシャの末裔たる自分は、その立場をどう扱うべきか。出るはずもない答えを待っているのでは遅すぎる。

 文机に手をつく。ラクスが立ちあがるのを見越していたかのように、夕食を告げる鐘が鳴った。

「レオン。広間に騎士を全員、集めて欲しい」

「全員?」

 訝しむ声には答えない。全員だ、とだけくり返して、自ら扉に手をかける。

 自分が今、向き合うべくは。




 広間へ最後に姿を現したのは、険しい表情をしたマティアスだった。神官、騎士、修道女たちの視線を受けながらもそれを黙殺し、ゆったりとした足取りで自らの席に腰を下ろす。しん、と静まり返った広間には、声にならない困惑だけが広がっていた。食事に手をつける者はなく、皆が黙ってラクスを見つめる。

 騎士たちが集められた。それはすなわちアーシャの意志だ。本来の居場所を奪われた修道女たちであったが、事態の異様さを察してか、誰もが扉という扉から中を覗きこんでいた。

 広間の中心に顔を固定した少年は、全員が揃ったのを察して腰を上げる。

「メリアンツより、宣戦布告が為された。時は翌週、彼らの軍がアーシャラフトに攻め入るだろう」

 心なしか声が硬くなる。慣れたはずの言葉遣いに普段より気を使っている自分に気付いた。

「伴って伝えられた事実に嘘はない。噂に尾ひれがついていない限りは、知っての通りかと思う。……花嫁は、先日までここに座っていた女性は、ミセラ・ファルツとは別人だ」

「……ならばアーシャよ! 貴方は我々を、騙しておられたのか!」

 若い神官が立ちあがり、声を張り上げる。おい口を慎め、とたしなめる声が響いたが、彼は言葉を撤回することはしなかった。ラクスは声の方向に顔を向ける。

「その通りだ。これを知るのは私のみ。全て私の独断で行った」

 わらの束に火をつけたように、勢いよく動揺が広がっていく。アーシャの独断、ならば総大司教猊下も、女神に仇なす行為だ、とざわつきは収まるところを知らない。マティアスもまた収集をつけることをさておいて、苦い顔でラクスを見つめていた。

 しかしラクスは、黙して騒ぎに耳を澄ます。恐れる者、惑う者、怒りをあらわにする者、そして彼らを落ち着かせようとする者。アーシャを糾弾する者の声は大きいが、静観を貫く者もまた少なくはない。

(……どうする)

 場を治めるために。混乱を治めるために、どんな言葉を用いればいい。考えるうちに耳に届いたのは、張り裂けんばかりの声だ。

「偽りの花嫁だ! 我らが仰いでいたのは……どこの馬の骨とも知れぬ娘でしかなかった!」

 確認の形を取る、その言葉は悪意に満ちる。アーシャに反対する者の存在を思いだし、ラクスの眉間にしわが寄った。

 考え、そして、息を吸う。言葉にしようとした、そのときだった。

 たあん! と、先走ったように高らかに、床を踏んだ靴音。どよめきの中にも、それは確かにラクスの耳に入った。

「――あなたたちが、花嫁さまの何を知っているって言うんですか!」

 ついぞ議論に入ることのなかった、高い少女の声だった。若い、というより、むしろ幼さを残したままの声色。一斉に向けられた視線にひるむ様子もなく、彼女は腹の底から大声を絞り出す。

「わたしたちはずっと見てきました、花嫁さまが懸命に勉強をしていらっしゃるのも、わたしたちの指揮を取ろうと毎日調理場にいらっしゃるのも! あ、あなたたちは何も知らないくせに、あの方の姿を近くで見たこともないくせに、お話したこともないくせに! どうして花嫁さまを、偽物だなんて言えるんですか!!」

 威圧するかのように、がたんと音が響く。机の振動が神官の怒りを伝えた。

「今話しているのは、そのような問題ではないのだ! 小娘は引っ込んでいろ!」

「……恐れながら、大司教猊下」

 代わりにと広間に出てきたのは、先ほどの少女に比べ、幾分か落ち着きを宿した声の持ち主だった。彼女は突き刺さる敵意を意に介するふうもなく、凛と言葉を紡ぐ。

「彼女が申し上げましたのは、私ども修道女の総意です。ここに住まう神官の方々の食事を作り、衣服を洗い、居場所を清める、ナヴィア宮殿の全修道女が、花嫁様を認めています。……私どもはアーシャに続き、ここにいらっしゃるどなたよりも花嫁様に近くある身。意見を頭から否定されるいわれはありません」

 アーシャ、神官に続く第三の勢力に、その神官は言葉を呑みこんだ。修道女の言葉に偽りはないのだろう、固唾を呑んで見守る女性たちの誰もが、彼女の意見に口を挟むことはしなかった。

 膠着したかに思われた論議だが、時間を置いて、別の神官が声を上げる。彼にことを大きくする意図はないのか、それまでの誰よりも落ち着き払った声が広間に響いた。

「花嫁様を認めるか否かをこの人数で主張しあったところで、人の信仰のありようを問うも同じ。栓なきことではありませんか。……ここは女神ノーディスを崇める教会です。我々が従うのは女神、そして教会の意志たる総大司教猊下。その事実に、誰も異論はありますまい」

 ぐっと息を詰めた者と、大きくうなずく者があった。彼自身が言いきった通り、その意見に反対の声は上がらない。

(と、なれば)

 全ての視線がマティアスに向かう。ふむ、と息をついた彼は、自らのなかに考えをまとめるかのように一度二度とうなずいた。

「アーシャよ、ひとつ確認したいことがございます」

「……お答えします」

「ファルツ家の方は、このことをどうお考えになっておられるのでしょうか。……先日、ファルツ公爵がこの宮殿にお越しになったと話に伺っていますが?」

 その通りですと首肯して、ラクスは言葉を選ぶ。

 間違うな、と自分に言い聞かせた。上げ足を取られるような答えを返してはならない。けれど嘘を残しては元も子もないのだから。

「花嫁の座に就いていた女性に、ファルツ家の息女としての全権限を譲渡すると。これがファルツ公爵の言葉です」

「その言葉に誤りは?」

「ありません。国に眠る女神と、この血に誓って」

 胸に手を当てて答える。そこに嘘偽りは存在しなかった。

 公爵に権利の移譲を促したのは他でもないミセラ本人だ。別れ際に父親に伝えるようにと預かった言葉は、令嬢としての地位を正式にソニアへ受け渡すことを承諾するものであったのだ。

 伝言を聞いた公爵がためらわなかったのは、夫人の罪滅ぼしを果たすためだけではない。一人の父親としての自負が、そこにはあったのだろう。

 マティアスは大きく目を見開いて、それからゆるりと柔和な老人の笑みを見せた。

「ならば彼女を受け入れぬ理由もありますまい。ナヴィアにおられた女性も、花嫁となった女性も、そしてファルツの力を得た女性も同じひとりの女性なのですから。……教会の意思は、彼女を花嫁として認めましょう」

 鷹揚にうなずいて、マティアスは広間に目を走らせる。

「我々が立ち向かうべくは、同胞ではない。違いますかな? アーシャよ」

「……ええ。仰るとおりです」

 ふたたび広間の中心に向き直りながら、ラクスは内心で舌を巻いていた。

 口を出さないでいるうちに議論は終着へと向かっていた。ソニアの正体を隠し続けた自分が、ひとりで神官たちの怒りを鎮める他にないと考えていたにもかかわらず、だ。彼らをまとめあげたマティアスの手腕はもちろん、神官たちに真正面から張り合った修道女の反論が、収束に貢献したのだろう。

 そして彼女たちを動かしたのは、ひたむきに居場所を探し続けた花嫁の姿勢だ。

(どうしてきみは、ここにいない?)

 その居場所を、帰る場所を認める者がいるのに。彼女がここにいた証を、目に焼き付けていた者がいるのに。肝心の花嫁は遠く、声も届かぬ場所にいる。

「神殿騎士は、女神の身許に仕える者。しかしその女神の移し身、アーシャラフトの花嫁が、ここにはいない」

 集った神殿騎士たちに届くよう、一字一句に気を抜かぬよう。広間に反響する自分の声は、昂ぶる胸を静めていく。

「私たちは守らねばならない。女神を、教会を、アーシャラフトの民を」

 視界は要らない。誰もが言葉を待っている、それが伝われば十二分。

「そして取り戻す。――我らが花嫁を」

 奇跡が舞い降りるのは、望んだ者の傍らだ。

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