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アーシャラフトの花嫁  作者:
祈りを忘れたこどもたち
58/69

 子供たちが寝静まったのを確認してから、ソニアは浅いため息を漏らした。

 理由は多々あれど、目下頭を悩ませているのはあの飄々とした青年のことだった。突然に現れ、忽然と消えていった彼が残していったのは、困惑と数多の疑問ばかり。何ひとつとして解決がされていないどころか、不審は新たな謎を引きこんでしまった。あれでは会話の応答になっていたかも疑わしい。

 ソニアは荷物に紛れこませた、一冊の書物を探り出す。

 紙面のあちこちにはしみが残され、表紙は色あせている。お世辞にも新しく作られたようには見えなかった。恐らくは白紙の書物を入手し、日記として用いていたのだろう。ただし、なにも書かれていないとはいえ書物の形を取った紙の束は高価だ。一般人に手が届くはずもない。

 そこにカミル自身の運び込んだ伝令を合わせて鑑みれば、浮かび上がるのは当然、彼とメリアンツの皇帝との繋がりだ。しかし想像はそれ以上には及ばない。ふたたびついたため息は、思わず深いものになった。

(気を引き締めなきゃ……)

 形はどうあれ、これから赴く場所は敵地と言って過言はないのだから。

 奮起して修道院の扉を開けば、月明かりに照らされた金色が街路を渡ってくるのが目に入る。ソニアが迎えるように歩み寄ると、彼は付いてくるようにと無言のままで促した。

 石畳に光を落とすのは、月の光ではなく家々の明かりだ。アーシャラフトであれば、この時間になれば住居に明かりが灯っていることはない。不一致をひとつ、ふたつと見つけだしては、去った場所を思い浮かべて嘆息する。弱い心のせいだといさめても、目も耳も鼻も、全てが白い国を憶えているからしようもない。

 ほどなくして辿りついたのは、赤々と燃える松明に照らされた宮殿だった。

 即位式といった国を挙げての儀式もこの宮殿に内包された広間で執り行われているというのだから、並はずれた巨大さも当然のことなのだろうけれど、とソニアは顔を上げながら思う。その口が無意識に開いてしまっていたのか、傍らで押し殺された笑声が漏れた。むっとしてにらみつける。悪びれる様子もなくカミルは言った。

「そんなに呆然とするほどのもんか? アーシャラフトの大聖堂だって作るのに手間がかかっただろうさ。量か質かの問題だよ。俺はあっちを見たときのほうが驚いたぞ」

「それは、そうだけど」

「結局は慣れだろ」

 話を切り上げた彼の背を追って宮殿に入れば、左右に規則正しく並んだ松明が出迎える。昼間ならば視界に映えただろう豪奢な装飾が、壁に足元にと施されている。ぴりぴりとした空気のせいか、締めつけられるような居心地の悪さを感じて、ソニアは知らず知らずのうちに呼吸を浅くした。

 ひときわ大きな扉の前を過ぎ、さらに奥へと歩を進める。やがて通路からは装飾が引き、目の回るような彩りは朱金へと統一されていく。最奥の扉の前に至ったところでカミルは足を止め、ちらとソニアを見やってから、その扉を叩いた。

 独特な叩き方は合図のためなのだろう。ややあって、内側から「入れ」と声が聞こえた。

 背筋に緊張が走る。ソニアは堪えるように息を止めて、意識しながら深く吐き出した。唇をかみしめて前を向くと、カミルがそれを待っていたかのようにゆっくりと扉を開く。

 途端に焚き染められた香がぷんと香った。ソニアはかすかに眉を寄せる。出迎えたのは笑声だ。

「香は気に食わないか、花嫁殿」

 天蓋のついた豪奢な寝台と、そこに腰かけた男がひとり。暗い金色の長髪はゆるく編み込まれ、肩の後ろに垂れさがっている。酷薄げな表情をたたえる顔は日に焼けており、がっしりとした体つきは否が応にも剣を握る姿を想像させる。

 ソニアは口のなかに溜まった唾を呑み下して、寝室に足を踏み入れた。数歩進んだところで立ち止まると、彼女の背後でカミルが扉を閉めた。

「お初にお目にかかる。とはいっても、そちらは私の名をご存知のこととは思うが」

「……ええ。よく、存じあげております。陛下」

 ――メリアンツ帝国皇帝、アーダルベルト・ビュットナー。野心に満ちた若き王。硬くなった声を悟られただろうかとも思ったが、皇帝はふんと満足そうに笑みを浮かべるばかりだった。獰猛な狼を相手に、小娘が何を言おうが届くまい。

 恐れてもいい、退くな。震えても逸らすな。自らに言い聞かせて、ソニアは拳を握りしめる。

「お招きの理由を、伺ってもよろしいでしょうか?」

「簡単なことだ。秘め事を語るには、日の光は眩すぎるからな」

 無遠慮な視線になぶられ、ソニアは思わず身を固くする。彼女の表情の変化に目を留めた皇帝が、一拍後、声を上げて笑った。

「なに、女神の化身たる貴女を寝台に連れ込もうとまでは思わん。我が名に誓って他意はない、申し上げた通りだ」

「仰る意味が、分かりかねます」

「本題に入る前にまずはあなたの名前を伺いたいものだな。花嫁殿」

 口の端が引きつるのを、ソニアは今度こそはっきりと感じた。

 相手の困惑など知ったことではないとばかりに言葉を叩きつけるくせに、自分への問いかけは煙に巻くか跳ねのける。同じ手口を先日経験したばかりだ。まさか話を聞かないのがメリアンツの国民性であるなどということはあるまい。反応に棘が立ちそうになるのを、やっとのことで抑えつける。

「てっきり陛下は、わたしの名前をご存知のこととばかり。申し訳ございませんでした」

「いや、もちろん伺っているとも。とはいえ対面するのはこれが初めてのことだろう? 私が先に名乗るべきだと仰るならば、そうさせて頂くが」

「……いえ」ゆるく首を振った。「わたしはミセラ・ファルツ。五十三代アーシャ、ラクスの花嫁です」

 胸に片手を添え、滔々と告げる。偽物の名前を吐き出すことにはもう慣れていた。花嫁としてアーシャラフトに残ると決めたときから半身のように背負い続けた名だ。ミセラとの決別を経た今、もはや後ろめたさは感じない。

 伏せていた顔をつと上げる。すると、大きく見ひらかれた目が少女を映していた。ソニアがそれに疑念を抱く間もなく、わざとらしい嘆息が寝室に響く。

「これは異なことだ。私の知る貴女の名は、そんなにも大層なものではなかったように思うのだが?」

 耳を疑った。ざわりと、身のすくむ感覚を覚える。

 その意図を探るように彼を見つめるも、うすら笑いを浮かべた顔面はぴくりとも動かない。沈黙が包みこんだ寝室で、根くらべのように時間ばかりが過ぎていく。無言を貫くソニアに、皇帝はやれやれと首を振った。

「名を当ててみせようか、娘」

 歌うような言いように、ソニアはうすく唇を噛んだ。

「おまえの名はソニア。家名のない娘。どう取り入ったかまでは知らないが、ファルツの令嬢の名を騙り、まんまと花嫁に昇りつめるだけの賢しさはあると見える」

「…………それ、は」

 否定をするには遅すぎた。弁明の言葉は頭に浮かばず、しかし肯定するだけの気力があるわけでもなく、ソニアは視線を下げる。答えのないことは予想の上か、それまでの礼を取り払った皇帝が鼻を鳴らした。

「認めようが認めまいが事実はひとつだ。お前という偽りの花嫁がよこされた時点で、アーシャラフトの未来は決まっている」

「っ、なにを……!」

 弾かれたように顔を上げた。不遜な態度もそのままに、皇帝は足を組み、肩をすくめる。

「なにを? 決まっている、侵攻だ。協定は破棄されて当然だろう? 破ったのはそちらのほうなのだから。無論、こうなることは締結以前から見えていたことだが」

 必要とされるのは事実。ならば、花嫁をアーシャラフトから引きはがすことに、もはや人質の意味はない。メリアンツが求めたものは、偽の花嫁を差し出したアーシャラフトこそが協約を破ったのだという名目だ。

 それまで花嫁として振る舞っていた人物がミセラ・ファルツではないと知れれば、アーシャラフト本国にも少なからず混乱が生じるだろう。内側から瓦解してしまえば、大国の侵攻に為す術などない。

 襲いかかる目まいに、首を振って耐える。意識を落とすことは許されなかった。

「わたしの名は、どこで」

「ファルツの公爵夫人はよく働いてくれた。保身に走るあまりに詰めが甘いのは難点だったが。少し探ればすぐにぼろが出たぞ。私には優秀な僕がいるものでな」

 くいと顎で指した先には、扉の前に立ちつくしたカミルの姿があった。ひとたび挟まれた瞬きがなければ彫像ではないかと勘違いするほどに、その顔面からは色がそぎ落とされている。説明を求めるソニアの視線に耐えかねたのか、やがて彼は逃れるように顔をそらした。

 その様子を眺めていた皇帝がせせら笑う。

「どうやら、花嫁殿はそれの生まれを知らんと見えるな」

 生まれ、とつぶやいたソニアに、うなずきが返った。

「カミル。盲目も天の耳も持たなかった哀れな男――先代アーシャの息子」

 紡がれた言葉に目を瞠る。カミルの眉にしわが寄ったのを、ソニアは確かに見とめた。

「それはアーシャになるはずだった男だ、……あの子供さえいなければな」

 ――先代のアーシャには健常な息子がいて――

 重なるように思い出されたラクスの言葉が追い打ちをかける。

 彼は初めから知っていたのだ。ナヴィア宮殿に留まるカミルが、アーシャになるべくして生まれた人間であったことを。ならばその名を知っていても不思議はない。彼に目を光らせながら、しかし表だって牽制をすることもないまま、一定の距離を保ってきたのだろう。

「それの母親は、息子がアーシャにはなれぬと知るや命を絶った。メリアンツで拠り所を失くしていたところを私が拾ってやったのだ。才覚を発揮するのは早かったぞ、なにぶんアーシャたれよと育てられた身なのだからな」

「……カミル」

 呼びかけるも、返事は戻らない。彼は皇帝の前に吐露することを恐れるかのように無表情を貫いていた。ソニアもふたたび口を閉ざす。皇帝はかぶりを振った。

「興がそがれた。カミル、その花嫁殿をお送りして差し上げろ」

「……御意のままに」

 感情を排した声で答えて、カミルが扉を開く。

 無言の圧力に押されるようにして寝室を出れば、背中に扉を閉められる。ぱたりと小さな音が耳に入ってやっと、挨拶を忘れていたことに思い当たった。ため息をつくのもはばかられて下を向く。そんなソニアの横を、カミルが通り抜けていった。

 すれ違いざまに肩を叩かれる。行くぞという声を聞いた気がした、が、顔を上げても目にはその背しか映らなかった。

 拒絶ではなく、許容でもなく。

 ゆっくりと遠ざかりかけた背中を、憂慮を振りきるようにして追いかける。ソニアの足音が響き、そうしてやっと彼は歩調を速めた。

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