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アーシャラフトの花嫁  作者:
祈りを忘れたこどもたち
56/69

「そろそろ、ですね」

 空が夕明かりに染まるころ、エリーゼがぽつりと切り出した。

 子供たちはとうとう体力を使い果たしたのか、修道院の床の上で満足そうに倒れ込んでいた。土ぼこりにまみれていたそこが、今や横たわっても平気なほどに磨かれているのは彼らの功績によるものだ。そのためソニアも注意することはせず、為すがままにさせていた。かたくなにふたりの存在を警戒していたロルフでさえ、ぐったりと体を柱に預けて目を閉じている。

 エリーゼは彼らの様子を眺め、最後にソニアに顔を向けて、目を細める。

「ソニア様。そろそろ時間ですので、私は家に戻ります。表だってお力添えのできないこと、貴女をおひとりにしてしまうこと……本当に、申しわけございません」

 腰を深くまで折られ、ぎょっとした。大きく首を振って否定する。

「わたしは何度も、エリーゼに助けてもらいました。十分に、十分すぎるぐらいに」眉にしわを寄せたエリーゼが顔を上げるのを待ち、笑いかける。「だから謝らないでください。あなたに、ありがとうって言わせてください。頭を下げられてしまったら、なにも言えなくなってしまいます」

 限界まで見開かれたエリーゼの目にちらりと諦念がよぎった。しかしそれも一瞬ののちにまばたきの奥に消えていく。きり、と奥歯を噛みしめた彼女が、自らの胸に手を当てた。伸ばされた背筋に灰の髪がこぼれ落ちる。

「貴女のお傍にいられたことを、誇りに思います。どうかソニア様に、女神の祝福がありますように」

「……エリーゼ、あなたにも。女神がいつも微笑みかけてくださいますように」

 惜しむように、けれど一息に言いきってみせる。

「今まで、ありがとうございました」

 ソニア様。そう動いた唇は言葉にならない。深くまで頭を下げてからエリーゼは背を向けた。栗毛の馬の背に乗って足早に去っていく。夕焼けが彼女の灰の髪に炎の色を落としているのを、ソニアは彼女が街角に消えるそのときまで見つめ続けていた。

 息をついてしまうと、胸にすきま風が染みる心地がする。やがて寂しさが襲ってくるだろう。いつまでも感傷に浸っていてはいけない、と自らに言い聞かせてふり向いた。今は疲れ果てた子供たちに食事を出してやらなければならないのだ。ソニアは荷物のうちから硬貨の入った革袋を引きだすと、懐に抱え込んだ。

 生活費と教会の運営費は、定期的にアーシャラフトから帝国を伝って送られる手はずになっていた。その仕組みが整うまでに十分なだけの金額は持参している。贅沢をしなければ、彼らを養ってやることも不可能ではないだろう。

(まずは食材。それから、生活品も買いそろえなくちゃ)

 今から揃えるとなると大荷物になりそうだ。両手で足りるだろうかとソニアが考えあぐねていると、修道院の入口から足音がした。

 小走りで入ってきたのは、ロルフと年頃が同じであろう少女だ。ソニアに気がつくとぴたりと動きを止める。そのまま後ろに倒れ込んだ子供たちを一瞥し、ソニアをきつく睨みつけた。

「あんた、誰。その子たちになにをしたの」

「なに……って」

 ソニアの返答を待たない。少女は口角をつり上げ、嘲りの表情を浮かべる。

「あいつら、今度は、女を送ってきたの。兵士じゃダメだったから? メリアンツはまだ、あたしたちがほいほい言うことを聞くって思ってるんだ」

 少女の声に震えが混じる。そこに含まれたものは激情だった。

「あたしたちは絶対に出て行かない! なにもかも奪っていったんだから、あんたたちの捨てた場所ぐらいくれたっていいでしょう!? あたしたちにはこれしかない、これだけしかないんだから……!」

「ま、待って、勘違いだわ」

「何が勘違いだっていうの!」

 少女は歯をむき出しにして一蹴する。一方的に責め立てながら、彼女は追い詰められていた。

 互いに互いを見つめたままで沈黙が流れる。閉塞した状況を打破したのは、まぶたをこすりながら目を覚ましたロルフだった。虚ろな瞳で少女を見やると首をかしげる。

「ん、ヘレナ。帰ってきたのか」

「ちょっとロルフ、なにがあったの!」

「なにって、ああ、掃除。ここもだいぶ綺麗になっただろ」

「はあ?」

 ヘレナと呼ばれた少女は眉根を寄せ、そこでやっと修道院を見わたす。隅々までとはいかないものの、手を入れるまでとの違いは歴然だろう。それから子供たちの周囲に散乱するほうきや雑巾に目を留めて怪訝そうにする。

 ロルフはひとつ伸びをすると、立ちあがった。

「この人はアーシャラフトから来たんだ。ここの修道院で暮らすことになったって」

「じゃ、じゃあ、結局あたしたちは追い出されるんじゃない。なにをのんきなこと……」

 少年の顔が確認するようにソニアに向けられる。大きく首を振ってみせると、だってよ、と言って彼は肩をすくめた。

「変な人だよ。でも、俺たちを住まわせてくれるって言うから」

 伺うような視線を感じて、ソニアはふたたびヘレナを見やる。信じるに値するか否かを値踏みするように黙りこんでいるが、ともかくも気を落ち着かせたようだとソニアはほっとする。ならば口を挟めるのは今しかない。

「……あなたはヘレナ、でいいのね?」

「なに」

 依然とげとげしいままの口調に圧されないように、衣の裾をそっと握る。

「あなたとロルフが、この子たちの中では年長になるのかしら。もっと年上の子は?」

「いない。でも、この子たちに手を出そうっていうなら、そのときは、」

「そうね、そのときはなにをされても文句は言えないわ」

 尖った心をいなすようにうなずいてみせる。あてが外れたのかヘレナは唇を噛んでいた。

 守らなければならないという責任が彼女を縛りつけているのなら、研ぎすまされたその刃は迷うことなくソニアを貫くだろう。純然たる怒りと復讐の名のもとに、ためらうことなく。もちろんそんなことをさせるつもりも、その原因を生み出す気もソニアにはなかった。

「手伝ってくれないかな。これからお買い物に行こうと思うの。わたしひとりじゃ、きっと手が足りないから」

 はあ? と、馬鹿にした視線が返る。頭がおかしいと思われているに違いない。わざとらしく咳払いをして、ソニアは言葉を継いだ。

「一緒に暮らそうとするなら、食事を作らなくちゃいけないでしょう。見たところ食材はないみたいだし」

「ふうん、餌付けってこと」

 そんな反応が返ってくるのも予想の上だ。好きにとらえていいからとだけ答えて、ソニアは硬貨の詰まった革袋を揺らす。じゃらりと音がしたのを少女も耳にしただろう。

「ヘレナ、わたしの全財産はここにあるの。どうしても信じられなければ、町中でこれを奪って逃げたらいいわ。わたしにはもう護衛もいないことだし。……もちろん簡単に奪われるわけにはいかないし、どちらにせよ護身用の短剣は持っていくけれどね」

 嘘はない。もしものためにと修道衣の内側に数枚の銀貨が縫いつけてあるほかの財産は、確かにその革袋の中身だけである。詰まっているのは数枚の金貨と銀貨、それから扱いやすい銅貨が数十枚だ。

 アーシャラフトで鋳造されていた硬貨には主に天使の図が描かれていたが、メリアンツのものには稲穂や天秤といった労働者の象徴が刻みこまれている。ソニアが手にしているのは後者であり、教会によって蓄えられていたものであった。アーシャラフトとメリアンツでは硬貨一枚の価値が異なるとはいえ、それでも金貨や銀貨が一家庭において重みのあるものであることに変わりはない。迷う様子を見せたヘレナに言葉を連ねる。

「訊きたいことがあれば途中で答えるわ。ねえヘレナ、こうしていても、日が暮れるだけじゃないかと思うの」

 どう、と尋ねる。逡巡があって、ヘレナは固い表情でうなずいた。

(……まずはひとつ)

 ソニアは内心で息をつく。意識して笑顔を作った。二、三言でロルフに子供たちのお守りを言いつけ、ヘレナを伴って修道院をあとにした。

 歩幅を彼女に合わせて石畳を踏みしめていると、ぽつりぽつりとしか存在していなかった人通りも、市に近づくにつれて増えていく。監視の目が張られたヴィーネゲルンであってもその活気を抑えることまではできないようで、客引きの声は遠くにまで届いていた。

 メリアンツの市は、王家の管理のもとに許可を得た商人たちが出入りすることによって開かれる。国内の者が大勢を占めるなか、数えるほどではあるが異国風の服をまとった商人も混じっているようだった。そのあいだをくぐり抜けながら、ソニアは安価な食材を選んで購入していく。修道衣はもの珍しいのか奇異の目が注がれることもしばしばだ。ソニアが露店の前に足を止めると、商人はおやという顔をする。

「嬢ちゃん、神官さんかい?」

「ええ、今はメリアンツに住んでいます」

 差し障りのない範囲で受け答えをして、野菜の対価に銅貨を支払う。どうもと笑った商人がそれを革袋に収めた。

「その服、アーシャラフトのもんだろう。珍しいこともあるもんだ。おじさん、ちょいとばかりいきさつを聞きたいもんだがね」

「大したことじゃありませんよ」一笑に付して、ソニアはさりげなくヘレナの手を握る。小さな動揺が伝わってきたが、ふり払われることはなかった。「珍しい話なら、きっと商人さんのほうがよくご存知でしょう」

「はは、その通りだ。敵わないねえ」

 引き止めて悪かったよ、とひとつ果実をおまけしてくれる。礼を言って露店を離れた。

 あまり身分を明かすものではない。アーシャラフトの修道衣はただでさえ人目を引くのだから、情報が伝わるのも早いことだろう。互いに独自の提携を組む商人のうちではなおのことだ。呑まれるのではなく扱うように、とエリーゼからも口を酸っぱくして言われている。

 ぶんぶんと繋いだままの手を振られたので、市から距離を置いたところでヘレナを離してやる。それがきっかけであったかのように、彼女は勢いよく息を吸い込んだ。

「勝手にふらふらしたりしないわよ! 子供扱いしないで!」

「ご、ごめんなさい、そうじゃないの」

 失敗したなとほぞを噛んで、ソニアは頭を巡らせる。彼女が年下であることには変わりないが、子供と呼ぶほど幼くはない。その加減が難しかった。アーシャラフトのビアンカはあまりにも素直だったのだと今になって思い至る。

「ほんの少し、嫌な予感がしただけ。今回はなんともなかったけど」

「……嫌な予感って?」

 声をひそめたヘレナに、なにを答えようかと迷う。アーシャラフトとメリアンツの関係を理解するにはまだ早いだろう。とはいえ言葉を濁せば逆鱗に触れてしまう。

 ううんと頭を抱えたソニアに、予期せぬ方向から口が出された。

「――その、嫌な予感ってのはさ」

 ふたりそろって体を震わせる。雑踏に混じった声が、しかし的確に彼女たちの会話に答えを返したからだ。いったい誰がとふり向いても姿は見えない。

 声だけが、響く。

「突然見知らぬ男が現れて、こんなふうに声をかけてきたり……なんてことじゃないか?」

 やっとのことで視線が一点で固定される。市のなかにやっと形となった姿に息を呑んだ。

 光を宿した金の髪。濁りを含んだ青の瞳。すらりと伸びた手足と、口もとに浮かぶ皮肉げな笑み。

「なあ、花嫁さん」

 彼は、ふたたび会いまみえることなどないはずの青年。

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