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アーシャラフトの花嫁  作者:
どぶねずみの少女
5/69

 冬が近づこうとしている。

 見かけよりはずっと厚く風を通しにくいつくりの修道服を着ながら思う。それでもなお忍び寄ってくる冷気が手先をさらおうとするので、ソニアは服の袖の中に両手を丸めこんでいた。まだ息は白くならないから、と自分をふるい立たせて、寒さを意識から追いやることに専念する。

 ――あなたの身は教会で預かることになりました。エリーゼは羊皮紙を手にして、そう伝えた。

 迫るアーシャとの婚儀を見据え、教会の生活に身を慣らしていくという名目でコルネリアはソニアを残していったのだ。婚儀の期日は当人のいない間に取りきめられていたらしい。あの少年ならばあるいは知っていたのだろうかと思うものの、今朝に決別して以来は顔を合わせてもいなかった。

 手配された部屋はひとりが住むには少しばかり広い。小さい部屋でいいと訴えたけれど、エリーゼはここに関しては頑として譲ろうとしなかった。いくら説得しても、彼女はことのほか融通が利かないのだと思い知らされるのみで、仕方なしにソニアは部屋に入ったのだった。

(ひま、だな)

 するべきことを言いつけられない以上は外を眺めているしか時間をつぶす方法がなかった。はるか遠方にそびえる山々に雪はなく、近くへ視線を移動させていくとアーシャラフトの町にたどり着く。赤い屋根と白塗りの壁で揃えられた均一な町の街路には、町人に混じって多くの神官が行き来していた。

 あの中に混じっていくことはできるのかな、と思う。

 アーシャの花嫁という身は、外に出ることも許されないまでに縛られているのだろうかと。

 実行に移そうかと計画を立てはじめたところで考えは霧散して、また遠くから山を眺めなおす。何度目になったろうか、思い返すことも面倒になってきたころに、部屋の扉が叩かれた。

「いらっしゃいますか」

 他のひとにくらべれば、まだ聞き慣れたやわらかい声。エリーゼのそれにほっと息をついた。

 彼女は先ほどからアーシャの自室とこの部屋を往復しているようで、この訪問は三度目にあたる。一度目はミセラの身の振り方を伝え、二度目はなにか不自由はないかと気を遣って去っていった。ソニアは窓枠から手を離す。

「います、入ってください」

 扉のそばに寄って返すと、エリーゼの顔が現れた。怒りや決意を宿さぬ限りは彼女の表情は穏やかなもので、声の端々まで相手へのいたわりに満ちている。姉妹や友だちのいないソニアには新鮮だった。

「食事のお時間です。あなたを呼んでくるように、と」

「アーシャが?」

「昼と夜の食事は、ナヴィア宮殿に暮らす全員が集っておこなわれますから」

 アーシャからすべての神官、そして居候の身であるソニアも揃えて、ということだろう。

 大規模なものなのだろうと想像するけれどいまいち実感がわかない。案内を頼むと、エリーゼは軽く一礼したあとに廊下を進み始めた。




 果たしてその広間は、盛大というにはほど遠いながらも、いくらかの活気を見せていた。抑えられた会話の声も百人を超える人数が集まれば塊になる。ときおり笑い声があがって、神官でも冗談を言うのだといまさらながらに思った。

 大きく開け放たれた広間には二列の長いテーブルがあり、奥にはそれらをつなげる形でひとつが置かれている。二列のテーブルを囲んだ神官たちが、いまだ手のつけられていない食事を前に談笑している。

 しかしそれもソニアが姿を見せるまでだった。

 エリーゼに付き添われて一歩足を踏み出した瞬間、それまでの喧騒が凪いだように静まった。ほうぼうから受ける視線に耐えようとするものの、小刻みに身が震えるのを止めることはできない。

 ――はあ。

 最奥に座った少年がついたため息の音さえ、届くような気がした。

「ここに」

 彼に短い言葉で指示を出される。慌てて早足で広間を抜けた。エリーゼから離れ、やっとの思いでその横まで歩み寄ると、もう彼はソニアに見向きもしない。その隣にひとつ席が用意されているのに気付く。少年は広間の中心あたりに顔を向けたままで微動だにせず、しゃんと整った姿勢は、早く座れと無言でうながしているようでもあった。

 椅子に座ろうとしたところで、どこからか失笑が漏れた。聞かなかったふりをして腰を下ろすと、給仕の女性たちがおもむろに料理の載った皿を並べ始める。うすくスライスした玉ねぎの入った素朴なスープとふたつのロールパン、葉の野菜を数種類混ぜ込んだサラダに、トマトで煮込んだ白身魚。庶民が口にするものよりいくらか豪勢なそれらは、まだ湯気をたてていた。

 ソニアが席に着き、少年がふらりとパンに手を伸ばすのをきっかけに、ようやく食事が始まった。食器のこすれる音が響くにつれてソニアへの視線もいくらか和らいでいく。ときおりこちらをうかがう目とかち合ったけれど、それを無視するだけの余裕はあった。

 隣でパンをちぎった少年は、ただ黙々と食事に向かうばかりだ。今となっては会場よりも彼のほうが気にかかり、ソニアは自分の料理に手をつけようとするものの、すぐに引きもどした。

「あの、アーシャ」

 答えはない。それどころか呼吸の流れを乱すことすらしなかった。

「アーシャ」

 もう一度呼びかけても結果は同じで、ソニアは無言で顔を戻す。天の耳を持つという彼であっても、その耳を傾ける気がなければ単語は音の羅列にしかならない。少年の中では存在しないものとされているのだろう。

 隣に座るのは本物のミセラであるはずだった。少年と彼女のあいだにどれほどの面識があったのかを推し量ることはできないけれど、ふたりを繋いでいたなにかが彼をかたくなにしているのだ。ミセラの名を汚すなと言葉を叩きつけた彼の、今にも泣きだしそうに歪んでいた顔を憶えている。

 どうしてこんなことに。自問自答していた少女は、そこで消え去った。現状を嘆くより先に、言うべきことがあると気付いてしまったからだ。

(それでも……声が届かなくちゃ、意味がない)

 目の前のパンをちぎって、口に運ぶ。道中でエリーゼに教えられた最低限の礼儀のうちのひとつだった。曰く、パンに直接噛みついてはいけないということ。スープもまた、用意されたスプーンですくい取るようにと言いつけられていた。彼女の言葉に従って丸型のスプーンを手にスープをすくうと、一息に飲みこんだ。

 途端、大きく咳き込む。ざわつきと共にまた周囲の視線を浴びるけれど、それを気にしていられないほどに喉の奥が痛みを訴えていた。焼けつくようなそれには経験がない。気が動転して荒くなった呼吸の中で、確かに声を聞いた。

 ――はしたない。

 含み笑いの混じった言葉。背後から言い放ったのは、給仕を担当していた女性に他ならない。顔までは憶えていない相手に何ごとか言おうとするも、ひりひりと痛むのどがそれを許さなかった。

 すぐ隣に誰かの気配が立つ。むせながら振り向けば、流れるように横に歩み寄った女性が、ソニアに果実の汁がそそがれたグラスを差し出していた。礼も言えずにそれを受け取ろうとしたとき、その手がぐらりと動く。ソニアの手をすり抜けたグラスが紫の果汁を吐き出した。

 顔面に浴びせられた液体がしたたり落ち、修道服を黒々と染めあげていく。

(な、に……)

 顔を伝う果汁が甘い匂いを漂わす。外気に触れたしずくが体温を奪っていって、ソニアは体を震わせた。

 ――申しわけございません。

 感情もこめずに謝ったその女性の声はまぎれもない。ソニアのうしろで嘲笑した誰かと同じものだ。息も絶え絶えに顔を仰げば、彼女の口元が弧を描いているのを目にすることになる。どうして、と口に出す前にまた咳き込んだ。そんなソニアに、今度は別の方向から、無造作にグラスが差しだされる。

「飲め」

 小声で促される。おそるおそるそれを受け取って、のどを冷やすためにゆっくりと飲みこんだ。三回にわけて飲み干すと波が引くように痛みが消えていく。ほうと息をついたころ、両手で包んでいたグラスを上に取りあげられる。傷のないその手はアーシャのものだ。

 彼は席を立つと、ざわめく広間に向かって言い放った。

「彼女の気分が優れないようなので。失礼する」

 そのまま、ついてこい、とつぶやかれる。命ぜられるままに立ちあがった。

 広間を抜けていく彼の足取りは、目を悪くしているとはにわかには信じがたいほど確かなものだ。前をゆく少年を追ううちに広間はどんどんと遠ざかる。やがてその歩調はゆるやかなものになり、散歩でもしているかのように歩幅も狭くなった。

 宮殿の中心を貫く長い回廊の半ばほどまでを歩いたところで、ふいに彼がふり返る。

 ソニアを見すえた瞳は冬の空を切り取った色をしていた。その青が自分の顔をぼんやりと映しているのに無意識に見入ってしまう。風をはらんだ金糸が、瞳の空に陽光を落とした。

「思い知っただろう、あれがきみへの評価だ」

 彼はひとつまばたきをしてソニアを真っ向からにらみつける。方向は違えても、身を焼くようなぎらつく炎を瞳に宿して。その視線を受けたソニアに浮かぶのは、しかし畏怖ではなかった。

 彼は知っているだろうか。この教会でソニアを笑う人間は、誰もそんなふうに前から挑んでこなかったということを。彼女たちはうしろから、上から、同じ目線に立つこともなく嘲った。こうして自分を見てくれる相手をどうして恐れる必要があるだろう?

「きみにはミセラの代わりは務まらない。すぐに出ていけ」

 なにも言わないソニアに対して、少年は声の端に苛立ちをにじませる。

(……わかっていない、このひとは)

 首を振った。その動作も見えてはいないのだろう相手の目をしかと見据える。

「いや、です」

 違うと伝えたかった。自分がなりたいものは、名と身分を捨てていった彼女の代わりではない。新たな命を得て、はじめて他人にかぶりをふった。

 少年がぴくりと眉を跳ねあげる。さらなる拒絶が吐き出される前にと息を吸った。

「ミセラという名前が、他人に与えられた居場所だとしても。わたしはここで生きていきたいです」

「……僕はきみを、ミセラだとは認めない」

「それでもいい」

 少年は虚を突かれたように目を見ひらいた。

 構わない、と繰り返す。この居場所がもともとミセラのものだとしても、今ここに生きているのはソニアのこころだ。どこにいったかも知らない誰かが、いつか帰ってくるための場所にするつもりなどない。預けられた椅子を温めるだけの人間になるつもりも。――手に入れたからには、放さない。

「わたしはソニアとしてここにいます。ミセラさんになれないことは、最初からわかっているつもりです」

 与えられたものの、すべてがいとおしいとは思えない。

 けれど、与えられたもののすべてが憎いとは思わない。

「だから、……ラクス」

 息をのむ気配がした。それだけでも彼を救えたような気がした。それはきっと些細なことなのに彼の立場が許さなかったものだった。アーシャという名の人形は、名前を持つことを認められなかったから。

 ラクスの瞳が揺れて、その中のソニアの影がゆらめく。葡萄色に染まった修道服が、自分には似合いだと思った。借り物の美しい服にはめまいがする。たとえ染みが取れなくとも、この服をずっと手元に置こうと決めた。

「わたしは、わたしの心で、あなたを好きになりたい」

 彼の唇が震え、なにかを言うように動いた。読み取ることはできずにソニアが首をひねると、ラクスはうつむいた。

「僕はきみを愛することはない」

「それでもわたしは、あなたを好きになります」

 自分の言葉が、風に乗って流れていくさまを思い浮かべた。好きという言葉が融けて、やがて彼の体に流れこんでゆくのを。いつかそれが形になって、自分の気持ちに変わることを。

 ラクスはきつく両手を握りしめて、顔を隠すようにソニアに背を向けた。彼の背にソニアを遠ざけるための棘はなく、少しだけ丸まったそれは年相応の少年のものに変わりない。歩きだそうとする気配のない彼をソニアが怪訝に思ったころ、だった。

「蔑まれたくないなら教養を身につけろ。書庫の本は勝手に読めばいい。……嫌になったなら逃げ出してくれても、僕は一向に構わない」

「そんなこと、」

「どうだか」

 拗ねたようにつぶやいて、彼は歩き去っていく。その背に逃げたりしないと叫んだ。

 足音が聞こえなくなったとたんに心臓が早鐘を打ち始める。やっと言葉を交わしたのだという言いようのない達成感が満ちてきて、ソニアは高なる胸をおさえつけて壁に背を預けた。

 熱を持った体に冷えた石壁が心地いい。そうして指の先に触れた、銀薔薇のモチーフをつまみあげる。

(ミセラ)

 あなたの捨てていったこの場所を、わたしは誰にも渡さない。他ならぬあなた自身にも。

 ――生きていこうと決めた。

 与えられた居場所で。それでもソニアとして、生きていこうと。

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