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アーシャラフトの花嫁  作者:
犠牲と呼ぶのなら
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 広大な平地を分断する国々にとって、国境とはあくまでも名義上のもので、不確かな部分の多い言葉である。

 山があればそれを境として土地を二分することもできよう。だが、アーシャラフトやメリアンツ、かつて存在した平原の小国らは、ちょうどいい位置の大木や川を印とする始末で、それらが干ばつや大雨で失われてしまえば国境の見当をつけることは難しいのだった。その代わりに国とは人が住み、作るものである、というのが暗黙の了解であり、侵略では土地を侵すこと以上に人を侵す行為が重い意味を持っていた。

 果てのないように思える平原に少数の代表と護衛を引き連れた一群が留まっているのはそういうわけだった。現れない相手国の代表を、あやふやな国境を目前に、緊張した面持ちでひたすらに待っているのである。

 一群の旗は白地に装飾をこらした青円。アーシャラフトと教会の国章だ。指定された時間通りに到着しても、メリアンツの代表の姿は影も形もなかったのだった。

 ラクスはレオンハルトとともに栗毛の馬に騎乗し、総大司教たるマティアスの一歩うしろに佇んでいる。会話をすることも無く、彼の耳は馬の足音を聞いていた。大群と呼ぶには程遠く、しかし確固たる蹄の音を響かせる者たちの存在を。

 その音が間近くなって初めて、ラクスは硬い表情で顔を上げる。

「程なくメリアンツ方が姿を現すでしょう。奇襲は無いと踏んでよさそうです。あちらには急ぐ様子もありませんが」

 日はすでに中天を通過していた。腰を曲げていた騎士たちが、メリアンツの馬の影を目にしてようやく背筋を伸ばす。マティアスはふむと息をついて目を細めた。

「遅刻、ですか。なるほど、我らも甘く見られたものですな」

 時間をおいて姿を現したメリアンツの旗には金色の剣と盾、そして麦が描かれている。先頭に立って馬を操っているのは、即位式で剣を振り上げた新皇帝、アーダルベルト・ビュットナーその人だ。格式高い鎧に身を包み、濃緑の瞳に静かな野心をちらつかせて手綱を握る。ふたりの将軍が彼の両脇を固めていた。

 ざっ、と土煙が上がり、メリアンツの一行が馬を止める。皇帝が暗い金の髪を揺らして顔を上げた。

「平和を願う隣国の同志らよ、この場への同席を感謝する。長らくお待たせしたようで申しわけない。しかしこれも協定に抜かりの無いよう直前まで会議を重ねたためであるゆえ、どうかご容赦なされよ」

「その協定で貴方がたの仰るとおりに平和が訪れるのであれば、無遠慮も水に流すといたしましょう。平和を願うは女神のご意思、そして無論我らの願いでもあります」

 傍目には穏和な笑みを浮かべてマティアスが前に出る。皇帝は鷹揚にうなずいて、傍らの将軍に目配せをした。彼が掲げた羊皮紙の束を、神殿騎士のひとりが受け取ってマティアスに手渡す。ずらりと並んだ盟約に目を通しつつ、マティアスはかすかに眉間にしわを寄せた。

 ラクスがそれを読むことが叶うのはアーシャラフトへの帰還を果たしてからになるだろう。マティアスに与えられた猶予を待ちながら、ラクスはメリアンツの代表の呼吸に耳を傾けていた。

 百には至らない数はアーシャラフト側と同じだ。しかし彼らの誰もが質のいい鎧をまとい、剣を下げ、息を乱すことなく鐙を踏んでいる。交渉が決裂しこの地での両勢力の衝突となった時点で、こちらに勝ち目はない。

「皇帝よ」

 マティアスが重々しく口をひらいたのは、その判断をラクスが下したときだった。

「いくつかお伺いしたいことがございます」

「ふむ、仰られよ」

「単刀直入にお尋ねいたします。この協定においてのそちらの利、そして協定が守られる保証が、真にあるのか否かということを」

 もっともだというようにうなずいて、皇帝は続きを促す。マティアスがひとつ息をついた。

「なるほど不可侵協定を結べば、互いの侵攻はなくなり、この地に平穏は訪れましょう。ですが依然として、軍勢、領土、共にそちらが圧倒的な優位を保っておられる。我らと不可侵協定を結ぶ必要もありますまい」

「決めごとがなければ、我が帝国は他を侵すことを厭わない。それでは足りぬと?」

「それを言い分とするならば我らのほうでありましょう。自戒の念のみで協定を結ぶと言われて納得などできましょうや」

「……なるほど、仰る通りだ」

 皇帝は一度目をよそへやって考えるそぶりを見せた。それも意図しての行為であったのか、すぐにマティアスを視界の中心に据えて言葉を紡ぐ。

「我らが他国の民を内包してきた国であることは周知の事実だ。先代はともかく、先々代、その前の皇帝らが広げてきた領土のうちには、未だメリアンツのあり方に疑問を抱く者も少なくはない。私は彼らを危惧している」

 ラクスは内心でうなずいた。

 即位式が行われた日の夜にレオンハルトが口にしたのと同じ内容だ。先代の皇帝がその治世を尽くして紛争を収めてきた帝国に強硬派の皇帝が即位すれば、内乱が再燃してもおかしくはない。まして今代の皇帝は年若い青年である。これを契機とする輩もいないとは言い切れないだろう。

「彼らを同化させるのは絶対的な王の器か。それとも血に裏打ちされた恐怖か。否、乱れた国を治めるのはひとつの道徳の他にない。そのために我らは貴方がたを……利用、しようと考えた。そういうことだ」

 言葉を選んだことがありありと見て取れた。その末にたどり着いた“利用”の一句に、マティアスとラクスは揃って唇を引き結ぶ。

 十数代の歴史があるとはいえ、あくまで皇帝はひとりの人間だ。彼の唱えた指針ひとつでは、武力によって従えられた被征服民の献身までは促せない。代わりに彼は、大陸じゅう、さらにはその外からの支持を集めるアーシャラフトの信仰を用いようというのだ。人の言葉ではなく、女神の教えによって国を治めようと。そのためには侵攻という形は取れなかった。

 彼らの目論見のために、メリアンツが軍を動かすことが許されるのはアーシャラフト側が協定を破ったときのみだ。その点においてアーシャラフトの平穏は保障されていた。

「利用……利用、ですか。アーシャラフトに住まう神も、貴方にとっては駒の一つに過ぎぬと」

「言葉通りに受け取っていただいて構わない。しかしこの協定が、あくまでも貴方がたの立場を慮った上でのものであることを、よくお考えいただきたい」

 マティアスの笑みに酷薄さが塗りたくられる。ラクスは彼の吐息に暗く鬱屈したものを感じていた。

 老齢の彼が、感情をあらわにする方法を知っている。

 呼吸と、声。そして指先。どれも天の耳を携えたラクスであるからこそ聞きとれる些細な変化だ。表情にも声量にも彼は決して変化を見せないため、周囲の目には穏和な老人や、争いを避けるための手段を心得た賢人のように受け取られる。しかし彼の内側には総大司教として教会とアーシャラフトを守るにふさわしいしたたかさがあることを、ラクスはよく理解している。

「……ならば皇帝よ、今一度ご確認申し上げる」

 だからどんな言葉が吐き出されようと、座して聞き入れるだけの覚悟はあった。

 ――しかし。

「アーシャの花嫁を、メリアンツに移住させること。……これはまことでしょうか」

「……っ!?」

 勢いよくラクスが顔を上げるのを、皇帝は確かに横目で見やる。そして首肯した。

「協定の内容はその文書に示したことに誤りはない。先ほど申し上げた通り、我らはアーシャラフトの教えを必要としている。だが、神官を数人招いたところで、アーシャラフトを軽視する者が現れるばかりであるのは至極当然のこと。そこで皇帝と貴方の同意を示すために花嫁殿にお越しいただきたい」

「馬鹿な!」

 ラクスは耐えきれずに腰を浮かす。鐙が揺れ、馬がよろけた。アーシャ、と、押し殺した声でレオンが制するのも聞き入れずに叫ぶ。

「それでは彼女は、」

「アーシャ!」

 マティアスの牽制。神殿騎士たちが動揺をあらわにし、皇帝が笑みを浮かべる。

「――まるで……まるで人質じゃないか!」

 協定の象徴として、そして何よりアーシャラフトが抗わぬため。彼女が傷つかずにいられる保証のない地へ、教会の意向を楯におもむかせようというのか。

 食ってかからんとしたラクスの体を抑えつけ、レオンが進みかけた馬の手綱を引く。ラクスはそのいななきを他人事のように聞いていた。くつくつと、皇帝が口のなかで笑声を上げるのを、しかと耳にしたからだ。

「人質? これはまた、アーシャは人聞きの悪い仰りようをなさる。メリアンツへの布教、不可侵の協定。そちらには好ましい条件のはずだ。感謝されるとて、暴言を吐かれるいわれはない」

 道化のように演技じみた声で言う。同席する誰もが彼の口上を言葉のままに捉えていないことなど承知の上だろう。騎士たちのあいだに緊張が走り、マティアスは眼光を鋭くする。

 そもそも、と言葉を継いで、皇帝は鎌を振り下ろした。

「教会の決定は総大司教殿によって為されるのだろう。アーシャよ、貴方が口を出されることではない」

 怒りが喉元までせり上がる。レオンが馬を操っていなければ、もしくはラクスが馬に乗っていなければ、彼は一人でも皇帝のもとへと駆けていっただろう。かっとなった頭を次に落ち着かせていったのは、アーシャとしての最後の矜持だった。

(……くそ、)

 その体と身分が邪魔をする。無力感だけを残していく。

(なにが、……なにが、アーシャだ……!)

 光の見えない身で、剣すら握れない身で、なにを守ろうというのか。愛する人ひとり守れない男を、誰が女神の守護者などとのたまったのか。握った拳は小さく、男を殴り飛ばす力も無いというのに。

「総大司教殿、質問は以上か」

「……ええ」

「それでは、我らはこれで失礼する。協定の施行は三日後だ。互いの為、懸命な判断を期待する」

 皇帝が踵を返す。数十の騎兵のなかにはちらとラクスをうかがう者もあったが、打ちひしがれた彼がそれに気付くことはなかった。

 メリアンツの一行を見送ったマティアスは巧みに手綱をさばき、馬を反転させる。

「参りましょう。決定を下すのはアーシャラフトに戻ってからです。……アーシャ、気をしっかりお持ちになられよ」

 ひとり、またひとりと来た道を引き返す。戦に敗れたかのような面持ちの一行がアーシャラフトに帰還したのは、くたびれた夕陽が白壁を照らすころだった。

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