表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーシャラフトの花嫁  作者:
犠牲と呼ぶのなら
47/69

 調理場は夕食の準備で忙しい。

 自分とそう歳の変わらない少女たちが入れ替わり立ち替わり食材を切り、火を通し、立派な料理に仕立て上げていくのを、ソニアは夢を見るような気持ちで眺めていた。感心してばかりいると、隣からイルマの檄が飛ぶ。無駄などなさそうに見えてそうではないのだ。その見極めが、まだ難しい。

 忸怩たる思いで食い入るように見つめていると、少女のなかのひとりがちらとソニアを見て口元をゆるめる。思わず笑みを返してしまってから、イルマが苦い顔をしているのに気付いてはっとする。

「すみません、イルマさん」

「はあ、もうなにも申しません。ご自分でお気づきになればよろしい」

「どうしてもイルマさんのようにはいかなくて。自分で料理や洗濯をするのは慣れたと思っているんですけど、ひとに指示をするとなると」

 個人の行動はどうとでもなるが、集団を動かすには指導者がいる。

 本来動かされる側であったソニアが指導者の側に立っているためか、力不足を感じることが多かった。ごく稀に粗相を見つけたとしても、口にするのには勇気がいる。他人が聞いている前ではなおのことだ。休憩に入る前に声をかけて注意する程度が精いっぱいなのだった。

「そうそう上手くこなされては私の立場がありません。経験あるのみですよ。ほんの数年もすれば大声が出るようになります。……そもそも、指示は私が出しますと以前申し上げたはずですが?」

「ひととおりの仕事は覚えておくべきだと思ったんです。皆さんの苦労を知らなければ、紙の上でどれだけ議論をしても意味がないと思って」

 ナヴィア宮殿に留まると決めて初めて、ソニアにも花嫁としての仕事が与えられた。主となるのが修道女たちの活動における収支報告とその管理だ。

 試しにつけてみた帳簿には目の回るような数字が踊っていて、イルマに話を聞くだけでも不明な金銭の出入りが多々あった。その上いざ紙面にまとめれば、大司教らを中心とした会議にはむやみやたらに節制を押しつけられる。問題は山積みだ。

 思わず漏れたため息をイルマに聞かれたらしい。彼女はいたわるように目を細めていた。

「私どもにお気遣いをして下さるのもありがたいことですが、まずは花嫁様の事情を優先なさってください。貴女様が体を壊されては、私どももアーシャに申し訳が立ちません」

 ソニアはぽかんと口をあけて、「肝に銘じておきます」と苦笑する。

 自分ひとりの体ではないのだからと諭されたような気がした。彼女の言う通り、今や花嫁とはソニアひとりを指すものではない。アーシャの妻であるのはもちろんのこと、修道女の総括であり、おそらくはアーシャラフトの象徴の断片でもあるのだ。

 イルマの言う数年が過ぎるころには、他の役割を担うこともあるのだろうかと考えていたとき、調理場の扉が規則正しく叩かれた。かちゃりとそれを開いたのはエリーゼだ。少女たちが騒然として、一斉にソニアをふり返る。

「失礼いたします。花嫁様をお連れしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ。……花嫁様、お呼びですよ」

 イルマが答えて、ソニアにひとつうなずいてみせる。ありがとうございます、失礼しますと頭を下げて、好奇の目を避けながら調理場を出た。

 エリーゼの手で扉が閉められる。ふうと息をついたが、壁の陰に隠れたラクスとレオンハルトの姿にぎょっとした。

「ど、どうなさったんですか」

 問うと、やや顔をしかめられる。

「……彼女たちに見つかると、好き放題にあることないこと言われることになる。もう調理場には顔を出さない」

 重い声で言うだけの前科がある。ソニアが調理場に通うようになってから数日ほど経ったころのことだ。

 彼女を呼ぶためにラクスが調理場に姿を見せた途端、修道女たちが歓喜とも怯えともつかない叫び声をあげたのだった。その後に続くのはもはや小声にもなっていないささめきで、彼には嫌でもそれが耳に入っていたらしい。げっそりとした顔で調理場をあとにするのはまだ記憶に新しかった。

 壁に体を預けたまま、ラクスは顔をしかめる。

「僕がいてもいなくても同じようだけど」

「今回は私のせいでしょうね」

 エリーゼもまた困惑を浮かべている。それも当然、石壁の向こうではソニアにも聞こえるほどの声で修道女たちが言葉を交わしているのだった。女騎士、アーシャ、そして花嫁。断片的に届く単語だけをとっても、夢物語が語られているであろうことは想像に難くない。

 沈黙して、行くか、とラクスは呟いた。体を起こして前に立つ。

 礼拝の時間だ。衣にふりかかったままの煤を払って、ソニアも彼に続く。日課となったそれを、仕事を与えてからというもの忘れがちになっていた。既定の時間までにラクスのもとを訪れなければ迎えが来る。大抵が神殿騎士、それもアーシャ付きとされているエリーゼやレオンハルトで、麗人とされるふたりの姿は少女たちには真新しいらしかった。

 自分の日課をよくよく理解していればいいのだが、やはりまだ慣れない。そしてラクスに苦い顔をさせてしまうのだった。

 無言で廊下を抜けていくが、ふいにラクスが足を止めた。しばらくして届いた足音にソニアがふり返る。小柄な修道女がひとり、あとを追ってきていたのだ。彼女は腰を低くしながらぼそぼそと言う。

「あ、あの、アーシャ、失礼いたします」

「何か?」

「以前調理場にいらしたときに、あの、お忘れ物をし……なさったので。お届けしようかと思ったのですけれど、機会がなくて。その、これを」

 震える両手で、大事そうに一枚の紙切れを差し出す。数行綴られた文章の筆跡はクラウディアのものだ。前回ラクスが調理場を訪れたとき、確かに彼は文の束を手にしていた。そのうちの一枚なのだろう。

 恭しく捧げ持たれたそれに、ラクスは手を伸ばさない。「失礼」と文を抜き取ったエリーゼが彼の左手に握らせるのを、少女は上目遣いで見送ってはっとした。

「す……すみません! わたし、」

「ん? ……ああ、いや」文を手折り、ふ、と目元を和ませる。「探していた。ありがとう」

 それはまるで、雲のすき間から太陽が顔をのぞかせたかのよう。

 瞬間的に耳の先まで真っ赤になった少女が、首を振りながらしどろもどろに謙遜を述べる。それから深くまで腰を折って、「しっ、失礼します!」と叫んで走り去っていった。その背はあっという間に小さくなり、曲がり角に消える。

 不思議そうに眉をひそめていたラクスだが、すぐに元通りに歩み始める。くつくつと笑ったのはエリーゼだ。

「我があるじはもう少し、乙女心の機微というものを理解なさるべきかと」

「なにが言いたい」

「いいえ、なにも?」笑みを抑えこんで、エリーゼはやや首を傾ける。「ただ、そうですね、アーシャは以前より柔らかくなられた、と娘たちが噂しているのを聞くようになりました。近寄りがたさが薄くなったと」

 それが彼女らの挙動の理由だ。納得がいってソニアは人知れずため息をつく。ここ最近というもの、彼が道を行くのに同行すれば、必ずと言っていいほど修道女と対面している。

「なんだか複雑、ですね」

 ぼそりと呟けば、ラクスがまばたきとともにソニアのほうをうかがう。まったく理解していない顔だ。唇を尖らせてみても、当然彼には通用しないのである。こらえきれないとばかりにエリーゼが口を出した。

「アーシャ、分かってさしあげてはいかがです。やきもちですよ」

「エ……エリーゼ!」

「……きみが?」

 ちらとソニアに顔を向ける。見えていなくてよかったと思うのはこんなときだった。いたたまれなさで顔が真っ赤になっているに違いない。しかしラクスは怪訝そうに、「誰にかまでは知らないが、嫉妬は褒められたことじゃない。落ち付け」とのたまう。

「だ……っ」

 誰のせいだと、と言いかけたのをなんとか呑みこんだ。はなから通じてはいないのだ。見ればエリーゼは完全に腹を抱えていた。声を殺しているのはわずかに残った配慮だろうが、逆効果だ。無性に悔しくなって、もういいですとそっぽを向いた。

 もともとラクスは整った顔立ちをしているのだから、笑いさえすれば人が寄ってくるのは当然のことなのだ。それはもちろんソニアが望んでいたことでもある。――ある、が、胸のうちに残ったもやが消えないのは仕方のないことだろう。

 途切れたかと思われた会話が、ラクスの「そもそも」という言葉で継がれる。

「きみは僕の花嫁だろう。僕の唯一はきみだ、それでも誰かにやきもちを焼く必要があるのか」

 けろりと言われる。一瞬息が止まった。

「……足りないなら、少し、考えておく」

「い、いいえ! 十分です、十分ですから!」

 そうか、とラクスはさほど執着もせずに引き下がる。

「不安なら言ってくれ。言ってもらわないと分からないし、……なにより、人の心が分からないと言われるのも癪だ」

「あら、私の言ったことを気にしていらしたんですね?」

「うるさい」

 それきりラクスは口を閉ざしてしまう。少しばかり硬くなった足音がその思いを代弁しているかのようだった。ソニアは内心ほっとする。

 好きだ、という気持ちを、言葉にするまでもないと思っていたから口にしなかった。けれどクェリアの一件以来、ふとした瞬間にラクスはそれを伝えようとする。彼にたがをかけていたのは必要か、そうでないかの一点のみで、ためらいなどというものはもとから存在しないらしかった。

 あるいは、気を使っているのかもしれない。目を離せば簡単に自らを追い詰めようとする花嫁に。

(……とっても、申し訳ない、けど)

 嬉しい、と思ってしまうのは、やはり彼を愛しているからなのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ