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アーシャラフトの花嫁  作者:
幕間
46/69

光差す小窓

 落日が海原を染め上げ、赤紫の雲を闇へ帰そうとしていた。聖堂の薔薇窓は陽光を取り入れて色とりどりの雨を降らせる。そのなかで祭壇の最奥に建てつけられた小窓だけが、空と海とをひたすら静かに映し出していた。

 その小窓が待つのは海に沈む太陽だ。一年にほんの数日のあいだ、それも夜の訪れを待つほんの数時間だけ、装飾の気すらない小窓は落日を映して女神の再臨を謳う。クェリアの海際にわざわざ修道院が造られたのはそういうわけで、その期間のうちには敬虔な信者である町民を集めて大規模な祝祭が行われることになっていた。しかし祝祭の期間以外には、その小窓はなんの変哲もない、むしろ無用ですらある代物だった。

 青年は薔薇窓の光を避け、まるで親の仇でも見るようにその小窓を見つめている。取り外してしまえばいいと思ったことは幾度もあり、時には修道院の主である母親にそれを提案したこともあった。返事はいつも決まっている。ゆえに小窓は未だに聖堂に残っているのだ。

 脇に抱えていた本が滑り落ちる、ごとりという音で青年は我に返る。厚みのある革張りの表紙のそれをふたたび拾いあげ、土埃を払った。

 青年は名を、ライナルトという。

 灰色に濁りを含んだ瞳と、対照的に輝かんばかりの金の髪を携えた青年。アーシャの血を受け継いではいたが、自らに位が与えられないことをよく知っていた。そのことへの反動からか、彼は物心がついて以来、ほとんど引きこもるようにしてクェリアの修道院で読書に明け暮れる日々を送っていた。

 彼が花屋の娘と婚儀を上げたのはちょうど二年前のことである。雪の降らないアーシャラフトの、寒さが厳しいだけの冬だ。

 静まり返った礼拝堂に人の気配が増える。開け放したままの扉から姿を現した娘が、あら、と声を上げた。

「ここにいたのね」

「……クラウディア。きみか」

 人影はひとつと半分。産まれて数日も経たない息子を抱えて、ライナルトの妻はにっこりとほほ笑んだ。

「探していたのよ。お部屋を見てもすっからかんだし、書斎を捜しても修道女の娘さんしかいないのだもの。この子を連れて、ずいぶんと歩きまわってしまったわ」

 ねえ、と赤子に語りかける。

 まだ彼に名前はなかった。時期が来れば思いつくだろう、と当のライナルトが半ば他人事のように思っていたからだ。空色の瞳を彼女から受け継いだ赤子は、小さな手で母親の指をやわく握って、ぱちぱちとまばたきをくり返している。

「また本を読んでいたの? ……あら、その本。見たことがあるような気がするわ」

「ここの書斎の本なんて読んだものばかりだ。そのせいじゃないか?」

「それにしても、どうして私の記憶にあるのかしら」

 言いながら彼女が本を覗き込もうとするので、腕のなかの赤子がぐらぐらと揺れている。たまらずそれを制して、ライナルトは本を捧げ持って見せた。しばらくその表紙を睨みつけていたクラウディアが、ああと叫んで弾かれたように顔を上げた。

「思い出した。私が初めて貴方を外へ連れ出したときのものよ。ほら、私が海に溺れたときの」

「ああ……」

 他の本より痛みの度が酷いのもうなずける。すでに二度、三度と床に放りだされているためだ。

「そういえば、どうして私は助かったの?」

「ん?」

「目を覚ましたらベッドの上にいたから、よく憶えていないのよ。たまたま通りがかった人に助けられたのかしら」

「そうなんじゃないか」

 口先で言ってそっぽを向く。いくらか拗ねが混じったことは否定できそうになかった。

 手が届いたのは、ほんの偶然だったのだ。制止の声も聞こうとしなかった彼女が雨のなかに飛び出していってから、少し遅れてライナルトはそれを追いかけた。高く叩きつける波打ち際を駆け抜けるクラウディアが海にさらわれそうになったとき、気付けば必死で手を伸ばしていた。あの一歩が遅れていれば、彼女は平気な顔で息子を抱いてなどいないだろう。かといってライナルトが当時のいきさつを口に出すことはできないまま、今に至っている。

 クラウディアは不思議そうに首をかしげていたが、赤子がふいに泣き声を上げたので気がそらされたらしい。

「母乳はさっきあげたはずなのに、どうしてかしら」

「眠いんじゃないか」

「十分寝かせたつもりよ? ほら、なにも怖くないわよ、ね」

 ぐずる赤子には弱い。ライナルトは子供の扱いに慣れていないためなおさらのことだ。刺激しないようにと口を閉じて見守っていると、息子は唐突に泣くのをやめて、礼拝堂の扉のほうへと顔を向けた。涙の痕が残る目で、一心にその向こうを見据えている。

「……誰もいないぞ」

「なにか見えたのかしらねえ」

「やめてくれ、神前だぞ」

 しかし彼は依然として扉を見つめ続ける。ライナルトとクラウディアがとうとう原因の詮索を諦めたころ、かつかつと高い足音を響かせながら修道女が現れた。

「ライナルトさま、こんなところに! 修道院長さまがお呼びですよ」

 そのときになって、赤子は大泣きを再開する。修道女はその泣き声に身を震わせたが、言葉を失ったのはライナルトのほうだった。

 ――彼はまるで、彼方の足音が聞こえていたかのようではないか。

「あの?」

「……あ、ああ、わかった。すまない、すぐ行く」

 お願いいたしますねと腰を折って、修道女は踵を返した。

 息子をあやしながら、大忙しねえとクラウディアは笑った。そしてライナルトが顔面蒼白になっているのに気がつくと、「どうしたの?」と尋ねる。

「いま、この子は……」

「この子がどうかしたの?」

 妻はきょとんと目を丸くしている。泣いては止むをくり返しただけのことと考えているのか、息子の体を揺らしているのみだ。

 焦燥がじんわりと胸の奥に広がって、ライナルトは唇を噛む。思いすごしならそれだけでいいのだ。偶然アーシャの継承を思い、感傷に浸っていたために敏感になってしまっていただけならば。

 小窓が太陽の沈まぬ海原を映す。

 取り外してしまいたいと思ったのは、決して届かない報せを待つ自分に、似ていたからかもしれない。




「ライナー殿おおおっ!」

 騒々しい声に名を呼ばれて、ライナルトは苛立ちと共に書物から顔を上げた。赤い表紙の本の文面にはびっしりと慣れない異言語が刻まれている。ここまでかとページを記憶して、本を閉じた。それとほぼ同時に、盛大な音を立てて部屋の扉がひらかれた。

 ぜえはあと息をつく男は黒い目に黒い髪を持ち、さらに長いひげをたくわえている。身にまとっているのは金刺繍の入った目立つ色の衣だ。彼の着ているものなどはまだ地味な方で、皇族ともなるとその服はさらに派手かつ豪奢を極めていく。顔立ちも服装も、アーシャラフトの人々とは趣を異にするものだった。

「どうなされました」

「第八皇子が病に倒れられたのです! ああ、ライナー殿、今度こそ厄災の襲来なのでしょうか」

「少し落ち着いてはいかがです。まずは症状をお聞かせください」

 男がどもりながら口にする症状を耳にしながら、それを頭の中の書物と照らし合わせていく。最後に大きく息をついて、首を振った。

「日にやられたのでしょう。水をお与えなさい、あとは涼しい場所で安静に。よくあることです、病と呼ぶようなものでもありませんよ」

「は、はあ……」

「まずは今言った処置を。あとで私が参りますゆえ」

「はっ、ライナー殿、お願いいたしましたぞ!」

 そしてやはり騒々しく扉を閉めて出ていった男を見送る。一冊読み終えてからでもよさそうだと判断して、ライナルトは先の本に目を落とした。

 息子が生まれて十年と幾年。故郷をあとにしてからもほぼ同じ年月が流れていた。海を渡って辿りついたのは東の大陸をほぼ手中に収める強大な国家であったが、アーシャラフトに比べて大幅に医学の発展が遅れた国でもあった。その国で書物からの知識を分け与えているうちに、ライナルトは皇族の御殿にまで招かれるようになっていた。

 幼かった息子――ラクスは、おそらくアーシャを継いだのだろう。彼の助けとなるため単身国を出たものの、これといった成果を出せないままだ。文を送り現状を伝えている相手も、もはやひとりを残すのみとなっていた。

 突如扉が突き破られるように開く。不機嫌を隠そうともせずに見やれば、先ほどの男がそれを気にする風もなく顔をのぞかせていた。

「ライナー殿、さっぱり忘れておりました。文らしきものが届いておりましたぞ」

「……ああ、ありがとうございます」

 ぞんざいな返事とともに受け取って、瞠目した。届け先はこの地のものであるとはいえ、ライナルトの名は慣れ親しんだアーシャラフトの文字で記されていたからだ。

「見たこともない字だったもので、貴公のものかと」

「ええ、私宛てでしょう。御礼申し上げます」

「いえいえ……と、それでは皇子のこと、どうかお忘れなきように!」

 男の背が消えてから、ライナルトは文の封を切る。文面に目を走らせて息を詰めた。筆跡は違えようもなく文通をくり返す相手のもので、ならばその文に嘘のないこともまた明らかだった。二度読み返して、心臓が一層高く脈打つのを感じる。

 胸に去来したのは、不安。そして疑うべくもない高揚であった。

「……ラクス」

 言葉を交わしたこともない息子の名を呼ぶ。光の意を与えられた彼を。

 盲目と天の耳を授かった彼がアーシャを継ぐのは当然のことだった。そうしてライナルトの抱えることになった複雑な思いは、光に包まれてなお親を求める息子の姿を見た途端に瓦解した。光満ちる場所でさえも彼にとっては暗闇であり、手の届かぬ限り愛する者の存在しない場所だったからだ。

 ライナルトは手紙を文机に残し、その隣に本を置いた。いそいそと身だしなみを整える。皇位継承権のない皇子たちや末端の皇族と顔を合わせることが増えたとはいえ、やはり相応の格好をしなければ舐められる。知識を与えるにも、得るにも、信用が第一だ。

 手を取ってやるのは彼の母親でいい。そしてやがて来る、彼を愛する人々でいい。だから彼の抱く輝きが曇ることのないよう、自分は窓を磨いていよう。

 太陽の訪れを待つ窓を。

 光が光であれるよう。

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