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アーシャラフトの花嫁  作者:
あなたへの呼び声
45/69

 エリーゼらの姿が街路に消える。ミセラは大仰に息をついて、ひとつ伸びをした。

「それじゃあ、私も修道院に戻るわ。銀の騎士様には一方的に嫌われているみたいだし、あまり顔を合わせたくないもの」

 エリーゼは去り際に、牽制するようにミセラを睨みつけていった。五日前の出会いのことを少なからず根に持っているらしい。自身の責務を放棄した彼女のことをよく思わない部分もあるのだろう。なじったところで、彼女であれば胸を張って言い返して見せるのだろうが。

 ミセラはそのまま一歩を踏み出してから、何を感じてかふり返る。顔をしかめているラクスに、「帰らないわよ」と釘を刺した。彼は肩をすくめる。

「どうせそんなことだろうと思った。どの道、きみが返ってきたところでナヴィアに居場所はない。修道女としてなら話は別だけど」

「まっぴらごめんよ」

「だろうね」

 眉を寄せながらラクスが笑う。そこからは呆れと安心が読み取れた。ミセラは彼とソニアとを見比べて、ふっきれたような顔で言う。

「さっきはあなたたちを追っていたの。突然広場から走り出したから驚いたわ。……走れたのね」

「当然だろう。歩くときと要領は同じだ」

「そういうことを言っているんじゃないわ、ねえ?」

 彼女が首をかしげて見せたのはソニアだ。その意図するところに気付いて、照れ混じりに下を向く。

 可能か不可能かを問われれば、言った通り、確かにラクスは走ることができるのだろう。しかし彼がそうしているところなどソニアは見たことがなかった。無論、必要に迫られていなかったためだ。

 だが、今回は。口もとをもごもごとさせたソニアを見やって、ミセラはくすりと笑う。

「ラクス。私、アーシャラフトにいたころ……いいえ、今の今まで、あなたのことをただの卑屈な弱虫だと思っていたの。親や周りの言いつけどおりに生きることしかできない、つまらない人間だって」

「酷い言われようだな」

「今見直したって言いたいのよ、最後までちゃんと聞いたらどうなの」

 澄んだ風が吹いた。冷えた空気が耳を凍えさせて、小さな痛みを走らせる。太陽が高く昇っても気温はほとんど上がらないのだ。薄手の服をまとったミセラは小刻みに体を震わせた。

「南へ行こうかしら。こんなに寒いのに、ここじゃ雪も見られないもの」

 路銀を貯めてからだけど、と彼女は腕をさすって、今度こそふたりに背を向ける。ラクスがその背に声をかけた。

「ミセラ」

「なにかしら」

「先日、教会に一報があった。……コルネリア夫人が、亡くなったそうだ」

 息を飲む気配が伝わった。ややあって、ミセラが顔だけをラクスに向ける。

「……そう、あの人、死んだの」

「ファルツ公爵が、後日、宮殿へお越しになる。なにかお伝えすべきことがあれば」

「ないわ、なにもない。勝手に家を出た娘よ、今さら何を言おうっていうの。私が裏切ったのはお母さまだけじゃないのよ」

 ファルツ家の一人娘。ゆくゆくはアーシャとのあいだに子を為し、その子がアーシャ、さらにはファルツの名を継ぐことになっていた。そうして一層の繁栄を血筋に約束する――はずだった。ミセラが失踪したことで、事実上ファルツの後継ぎはいなくなったのだ。名前だけはソニアが負ったとはいえ、残された公爵はもう子を為せないほど高齢だ。ミセラが気を変えない限りファルツの血はそこで途絶えることになるだろう。

「それでも、だ。きみがまだ公爵を父だと思っているのなら、僕は友人としてきみの言葉を伝えたいと思う。やがてここを発つなら、アーシャラフトに未練を残したくはないだろう?」

 しばらくの無言があって、ミセラは「お節介ね」と呟いた。しかし立ち去ろうとはせず、すっかり冴えきった空を眺めながら白い息を吐きだす。黒い髪と鮮やかな衣が答えを急かすように揺れるので、彼女は煩わしそうに髪をかきわけた。

「伝えてちょうだい」

 たどたどしく言葉を選ぶ。時には黙り、時には下を向きながら。

 無言でそれに耳を傾けたラクスが、わかった、とうなずいたとき、彼女はどこか安らかな顔をしていた。




 ミセラの足音が遠ざかる。

 それまで確かに地を踏みしめていたソニアの足が急に震えだし、かくりと折れた。あ、と思う間もなく腰が落ちる。慌てて立ち上がろうとするが力が入らない。下半身だけが体の一部ではなくなってしまったかのような感覚に呆然とする。

 どうしたと訝しげな声がかかった。身を案じるような響きがあって、ソニアの動揺をいっそう加速させる。

「す、みません。足に力が入らなくて」

 声には意図しない震えが混じった。どうか気付かれないようにと願ったが、アーシャの耳の前にはその願いも意味を為さない。ラクスは苦い顔をしてソニアのもとにかがみこんだ。

「花嫁がいなくなったと伝えられて、捜していたんだ。そうしたら、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。きみの声だ。それがなければ、見つけだすことはできなかった」

「あのときは必死で……こちらにいらっしゃるだなんて思いませんでした」

「ああ……」

 ラクスは思い当たったように曖昧な返事をして、「……エリーゼに叱られたんだ」と苦笑する。

「エリーゼに?」

 諫言ならばまだしも、叱られるというのは妙な話だ。そもそも彼がエリーゼに叱られるようなことをするとは思えない。首をひねったソニアの隣にラクスは腰を下ろす。真白の衣が地に汚れることを厭う様子もなかった。

「見事に言い負かされた。エリーゼはあれで、気が強いから」

「わかります」

 思わず笑いがこみ上げる。エリーゼは剣だ。その鋭さと冷たさ、獰猛さを鞘に包んだ剣。普段のたおやかさだけが彼女ではない。

 ラクスは顔を伏せ、間をおいて、口をひらいた。

「きみを遠くへやることも、僕ひとりが耐えれば済むことだと思っていたんだ。きみが利用されないのならそれでいいと思った。……でも、エリーゼには叱られた。きみを遠ざけようと躍起になっていたことは、みな、僕の自己満足に過ぎないと。そうしたら」

 言葉を切って、笑う。不思議だなと彼は言った。

「無性にきみに会いたくなった。会って、話がしたいと思った。何をというわけじゃない。ほんの些細なことでいいから、きみと話がしたくなったんだ」

 伝えなければ届かないから、ひとは名前を呼ぶのだろう。笑っていたいと願うのだろう。触れて、手を取り、決してひとつにはならない互いの心を感じようとするのだろう。

 ソニアは放りだしていた膝を抱えこんで、わたしもですと呟く。その声からは震えが消えていた。

「クェリアに来て、ミセラさんと会いました。欲しいもののために何もかも投げ出して、胸を張っていられる彼女のことが、羨ましくてたまりませんでした。……そうしたら、なんだかあなたに会いたくなってしまって。一緒に笑っていられるなら、どんなに素敵なことだろうって」

 ラクスは目を丸くして、それから徐々に口もとをゆるめる。最後には破顔して言った。

「僕たちは、ずいぶん遠回りをしたのかもしれないな」

「……ええ、そうですね」

 街の喧騒は遠く、人々の声は届かない。しかしラクスはクェリアの町並みに顔を向け、穏やかな表情を浮かべていた。さあっと吹き抜けた風に耳を澄まして世界の音を聞いている。大地の音、波の音、風の音、鳥の歌と人の声。ソニアがどれだけ心を傾けても、感じることはできない世界だ。

 ふと顔を上げると、体を休めた大地を見下ろして、かもめが空を渡っていった。澄み切った空に白の軌跡を描き、舞うように翼をはためかせる。ラクスには見えない世界が、ソニアの眼前に広がっていた。

 天と地を繋いだのは、誰であったか。

 女神の物語に思いを馳せる。世界を引きちぎらんとした天地を縫いとめた女神はアーシャラフトの地に眠り、かくして平和が訪れた。ならば彼女の意志を継ぐ花嫁は、アーシャと世界との架け橋になりえるだろうか。

「ラクス」

 呼んで、彼の手に触れた。花嫁にと請われた記憶が駆け抜けて、胸に温もりが灯る。

「あなたの傍にいたいです。あなたの声を聞いて、寄りそっていたい。――許してもらえますか?」

 笑顔を崩して、乞うように、あるいは願うように。踏み出した一歩は不安にまみれて脆い。

 唐突にラクスの手が動いた。重ねられたソニアの手、その指と指をからませ、やわらかく握る。互いに冷えきった手にかすかな熱が生まれた。思わず彼をあおげば、その瞳には呆けたソニアの顔が映り込んでいた。

「きみは僕の花嫁でいてくれるんじゃないのか?」

「は……はい、もちろん」

「それなら当然だ、訊くまでも……」そこで口をつぐんで、ラクスは「違うな」と首を振る。

 空いたままのもう一方の手がソニアの髪に、指を伝わせて頬に触れた。するりと流れた指先に驚きを覚える暇もない。その親指が確かめるように、唇を撫ぜる。

(……確かめる、って)

 なにを。

 ふいに、ラクスが腰を浮かせる。冬空色の目に射すくめられた。行き場を失った腕が投げ出され、白皙が近づいて、刹那。

「……!」

 ぴくり、とソニアの指が跳ねる。――触れた。

 眩んだ意識を取り留めたころ、金糸が額を撫でるのを他人事のように感じる。音も、てのひらの感覚も、とうにどこか遠くへと消え失せていた。眼前の少年がおもむろに瞳をひらいて、ああやっぱりとほほ笑む。

「美人じゃないだなんて嘘だった。……とても、優しい顔をしている」

 頭がうまく回らない。彼はなにを言っている、なにを見て、なにをしたのか。理解することができないまま、せめて彼の名だけは呼ぼうとするも、呆けて開いたままの口からはかすれた声のひとつも出てこなかった。しかし彼の瞳は――彼が愛する者、彼を愛する者だけを映してきた瞳は、汚れなど見当たらないほどに静かで、澄みきって、ソニアに目をそらすことを許さない。

 額が触れあう。まるでそこだけに火がついたかのような熱さに、なにも考えられなくなる。

「傍にいて欲しい。隣にいて、僕の言葉を聞いてほしい。きみの言葉を聞いていたい。きっときみの望むことが、僕が望むすべてだ」

 囁くように、けれどはっきりと伝える。ソニアは衝動的に彼の両手を握っていた。口にできなくなった想いを伝えようと強く。自身が意識しないままにくしゃりと歪んだ彼女の顔を視界にとらえて、愛おしそうにラクスは目を細める。それからゆっくりと身を離していった。

 天高く鳴り渡った馬蹄の音が合図だった。動かなかったはずの足が主に痺れを伝え、拡がる世界が色彩を取り戻す。

「……アーシャ、ソニア様!」

 灰の髪をなびかせながら、エリーゼが馬の手綱を繰り、ふたりを呼んだ。その後ろを同様にしてレオンハルトが追走する。

 彼女たちの馬が健脚をゆるめるのを待って、ラクスは立ち上がった。慌ててそれに倣うソニアの足はすでに怯えを忘れ去っている。急に襲ってきた恥ずかしさを隠すようにぎこちない笑みを浮かべた。冬の海風が彼女の火照った頬を撫でていく。

 例年よりも寒さを増したアーシャラフトの冬は、その盛りを迎えようとしていた。

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