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アーシャラフトの花嫁  作者:
あなたへの呼び声
42/69

 底冷えするような海風が頬を叩いている。

 白煉瓦の敷き詰められた道はアーシャラフトと同じようで、耳に伝える音が微かに異なる。湿気の混じる潮風が絶えず吹き抜けていくためか、クェリアの道はいくらか風化しており、さらにくぐもった響きを伴って木靴を履いた足を押しかえすのだ。

 生臭い香りが鼻についた。魚と海藻と、海に沈んだ亡骸の放つ香りだ。久方ぶりにそれを深く吸い込んだラクスは、ふと胸に浮かんだ安堵に苦笑した。アーシャラフトで暮らした時間のほうが長くなったとはいえ、彼の故郷はやはりここクェリアのほかにないのだった。

 馬から体を下ろしたエリーゼの足音は軽い。ソニアを送り届ける際には格調高い鎧を身に着けていた彼女だが、今は軽装でラクスの供をしていた。前を進む彼女の兄も同様で、さらには彼女たちの他に護衛はない。

 エリーゼはラクスの傍らを歩み、彼を一瞥するやいなや深くため息をつく。ラクス自身、普段より使い古したふうのある修道衣を身にまとっていた。その上から薄い生地の外套を羽織っているためか、町中の雑踏に紛れてしまえば彼がアーシャだと気付く者はいないようだった。

「ソニア様といい、あなたといい、どうしてこうも護衛の数を減らしたがるのでしょうね」

「忍びで来たんだ、当然だろう」

「もう数人ぐらい増やしたところで司教や大司教の巡礼で通ります。総大司教猊下も呆れておいでだったでしょう」

「マティアス殿には無理を通していただいた。もちろん、あとで再三お礼をするつもりだ。……今さら後悔しても仕方ないだろう」

 ことを公にしないままでこの町にたどり着いたのが一晩前のことで、ソニアを迎える期日が今日だった。

 アーシャがその送迎に同行することはマティアスにとっても想定外だったようで、予定日をずらし身分を隠すという条件のもとで、ラクスはなんとか彼から了承を得たのだった。ご愛情が深くていらっしゃる、よいことです、と笑ったマティアスに返す言葉のないまま足早に退出したことを思い出して、ラクスは思わず苦い顔になる。

「アーシャ、クラウディア様とは?」

「もうずいぶん会っていないな。次代アーシャに選ばれて、そのあと一度帰ったくらいか」

「時間にも余裕はありますし、しばらくはクェリアに滞在なさってはいかがでしょうか。積もる話も……」

 エリーゼの提案に首を振った。そうですか、とあっさりと身を引いて、彼女は口をつぐむ。

 手紙を介した連絡が途絶えたことはない。婚儀のこともすでに伝えており、新たに話のタネとするような出来事はないのだ。母親に対する気恥ずかしさがあることも否定できなかった。

「帰りが遅れるとマティアス殿に気苦労をかけることになるだろう。予定通りご挨拶をしたら帰るぞ……ん」

 どうかなさいましたかと問うエリーゼに怪訝な表情だけを返した。

 眼前にそびえた修道院の、その扉の向こうから慌ただしい足音が響いている。ひとりのものではないなと耳を傾ければ、数人の女性たちが必死で何ごとか叫んでいるのが聞きとれた。

「騒がしい。なにかあったのか」

 呟いたのとほぼ同時に修道院の扉があけ放たれる。息せき切って外へ飛び出した彼女――クラウディアは自らが受ける三つの視線に気づき、はっとしてラクスのもとへと歩み寄った。彼の肩に手を置いて強く揺さぶる。

「ラクス、貴方、ラクスね? ああどうしましょう、ラクス、申し訳ないのだけれど、貴方を歓迎している余裕がないの。あの子がいないのよ!」

 大きく頭が揺れる。間近で伝わる彼女の大声もあってか、情報の筋をうまく繋げられない。揃って混乱に陥りそうになり、ラクスはクラウディアの手に触れた。

「……母上、落ち着いて、なにが起きているのか教えてください」

「落ち着いてなんかいられるものですか!」

 一喝。残響の残った耳を抑え、ラクスは顔をしかめた。ゆるゆると手が離れていくのを待ってから、努めて声を低くし、確認を取るようにゆっくりと問う。

「花嫁が、いなくなったということですか。いつから?」

「今日の朝からよ。朝食のために声をかけたけれど返事がなくて、部屋をのぞいたら、どこにも姿が無かったの。昨日は確かに修道院にいたのに」

「心当たりは」

「それがなにもないのよ。少し前にも、目を離したすきにいなくなってしまったことがあって。だからよく見張っていたのだけれど、今日になって……!」

 クラウディアが頭を抱えた。今にも自らを責めんとする剣幕の彼女を落ち着かせようと、エリーゼがその肩を叩く。

 母親を任せ、ラクスは眉を寄せた。ソニアを追い詰めたものに考えが至らない。クェリアに行くよう諭したことに際してはいくらか反発があったものの、その後はむしろ心待ちにしているそぶりを見せたほどだ。それを除けば、彼女が気に病むようなことはなにもないはずだった。――はずだったのだ。

 そこに至って、呼吸を止める。

(彼女の、不安を、無いことにしていたのは)

 醒めた思考に理解が下る。瞬間、背筋を冷たいものが走った。無意識に短く息を吐き出す、そこにはかすれた声が混じっていた。ふつふつと湧いた後悔に引きずり込まれそうになって、ラクスは危ういところで思考を引き戻す。

「母上はここに。修道院で待っていてください」

「でも、ラクス」

「必ず連れ帰ります。……彼女は僕の花嫁だ」

 鋭く、エリーゼとレオンの名を呼ばう。それぞれに短い返事を返した神殿騎士たちを引き連れ、ラクスは修道院に背を向けた。人気のない通りを選び、危うさのない足取りで感覚に染みついている街路を歩む。しばらくして彼が行き着いたのは、クェリアの中央に位置する広場だった。

 瞳を閉じ、広がった暗闇に意識を這わせる。町の喧騒、波音、行き交う鳥の声、すべてを追いやって、ただひとつ探し求める声を、息遣いを、足音を追う。

 天に与えられた耳は、苦痛でしかなかった。得たものに対して失ったもの、降りかかってきたものはあまりにも多すぎた。ぬかるみに足を取られるように自由を奪われ、檻のなかに閉じ込められるように祭り上げられ、名前さえも失くしてしまった。

 呼んだのは彼女だ。

 それがソニアの言う居場所であったのだと気付いたのは、光を与えられてからだった。

(……呼んでくれ)

 一度でいい。彼女の声が届いたならば、伸ばした手が触れたのならば、歩いていこう。果てのない暗闇をかき分けて、声を殺して泣く彼女を迎えにいこう。手を繋ぎ、二度と離さぬように。そうして初めて、自分は自分になれるのだろう。

(ソニア)

 懇願するように、彼女を思う。



     *



 ノックもないまま開かれた扉は、軋んだ音と共に外の光をその家に取りこんだ。

 手入れの行き届かない古びた家。そこはもはや雨風を防げるのかも怪しい粗末な小屋であった。外壁にはまだらに蔦が這い、手をかけた木の扉は今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに朽ちている。それは内側も同じことで、床には雑然と物が投げ捨てられ、壁際には染みともカビともつかない汚れが広がっている。鼻に潜りこんだ腐乱臭に、ソニアは思わず息を詰めた。

 散らかった部屋の隅で、膝を抱えて座っていた母が顔を上げる。光のない目がソニアの姿を捉えて、まぶしそうに細められた。

「いらっしゃい、ソニア」

 おじゃまします、と踏み入れた足は砂利を踏んだ。もしやと思って見回すも、ベッドらしきものはどこにもない。必要最低限にも満たない彼女の生活は今に始まったことではないが、悪化の一途を辿っていることは明らかだった。

 言葉を失くしているうちに、母がなにごとか口にしたのを聞き逃す。はっとして顔を上げると、疲れた顔で笑う彼女がそこにいた。

「ソニアは、幸せになったのね」

「え……」

「あのころとは比べ物にならないぐらい、美しくなった。そうね、誰かに愛されて、人は綺麗になるのね」

 汚れた床に腰を下ろしたまま、母は自らの腹をさする。導かれるように視線を向けて、彼女の腹が心なしか膨れているのに気が付いた。

 満腹によるものなどではあるまい。彼女の諦めの混じった表情に、さっと血の引く思いがした。

「お母さん、それ……そのお腹、もしかして」

 母はどうしようかしらねえとつぶやいて、鷹揚にソニアを仰いだ。うつろな瞳に映った自分と目が合う。湧きあがったそこはかとない不安に、ソニアは一歩後ずさった。

 その背に、とん、と感触を受ける。

(……え、)

 心臓が一度、高く鼓動する。呼吸を忘れ、指先が震えて、思考を止めた頭はふり返ることを拒んでいた。

「マーシアよう、あんたの代わりはこれかい?」

 低く下卑た声が耳元を撫でる。聞くな、と警告の言葉を聞いた気がした。

 揺れる視界の端で疲れたように笑った母親が、ソニアの向こうの誰かを見据えた。

「……ええ、私よりずっと高い女よ。若い娘。純粋で綺麗なままの修道女。アーシャの花嫁よ、知っているかしら」

「アーシャ? なんだいそりゃ」

「あなたの考える偉い聖職者よりも、ひとつ、ふたつは偉い方よ」

「しょうもねえ嘘をつきやがる。まあ生娘だってんなら高く買ってやらあ。あんたの腹のそれ、どうにかしてくれる医者でも探したらどうだ」

 頭の上で交わされる会話は、なにひとつとして意味を伴わないままソニアの耳を通り過ぎていった。

 お節介ねと言って笑声を漏らした母の前に、数十枚の銅貨が投げられる。その枚数を入念に数えた彼女は一度うなずいた。そこでようやく気付いたかのように、ソニアへと視線を向けた。

「おかあ、さん……?」

「ええ、そうね。私はあなたの母親で、あなたは私の娘だわ」

 そうしていっそう陰鬱に酷薄に微笑む。それまで色のなかった彼女の瞳には深淵が昏い穴を開き、香り立つ女の匂いを垣間見せる。愛と熱を求め続けた女の影が、そうして疲れ果てた亡骸が、かくりと首をかしげた。

「だからあなたの幸せ……少しぐらい、私に分けてくれてもいいでしょう?」

「お母さ……っ」

 悲痛な声で呼びかけた瞬間、口と腹とに太い腕が回される。

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