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アーシャラフトの花嫁  作者:
花嵐の娘
34/69

 からりと晴れた空の下、歩む馬たちの姿があった。

 突発的に降った雨の名残はどこにもない。凍えるような風が吹きすさび、馬の尾を撫でてゆく。手綱を握ったエリーゼの前に座って、ソニアは歯を食いしばったままゆるやかに揺られていた。彼女の愛馬であるところのこの栗毛の馬は、背の上の重みになにを悟ったか、出立のときのように足を高く掲げはしない。主の連れる頼りない少女に振動を与えぬようにと気を使って歩いているようでもあった。

 彼女らの周りをまばらに囲んで歩くのは、青円を宿した鞘を携える騎士たちだ。アーシャや総大司教の外出に比べれば幾分か人数は少ないものの、要人の護衛として十分な手慣れたちがそろえられている。武装した者たちが徒党を組んで歩くには、この草原はのどかすぎるふうがあったが。

「よかったのですか?」

 ふと、エリーゼが口をひらいた。その問いの意味するところに思い至って、ソニアは首を縦に振る。

「大々的にすることじゃありませんから。それに、ラクスを朝早くから起こしたくなかったですし」

「それぐらいは、アーシャも厭わないと思いますが」

「わたしが嫌なんです。ただでさえ寝不足なのに」

 行動を共にするようになってから、彼があくびをするところをよく見かけるようになった。心配すれば平気だと言われるのは目に見えているので、ソニアに関連する事情で眠りを妨げることは極力避けようと決めていたのだった。今回もそれに準じた選択をしたまでだ。

 ナヴィアを出るとき、その場にラクスはいなかった。見送りの神官や修道女が数人、一行を見つめていたぐらいのものだ。アーシャをお呼びしましょうかと進み出た修道女に首を振ったのはソニアである。

「ちょっとクェリアに向かって、お手伝いをしてくるだけです。この護衛だって大げさですよ」

「いいえ。花嫁たるあなたをお守りするのですから、これぐらいは当然です。クェリアは港町、よからぬ輩も少なからずいることでしょうし」

「……港町」

 ソニアはエリーゼの言葉をくり返す。うつむいた顔に影が落ちた。

「そうですね、南に繋がっているんですよね」

「どうなさいました?」

「ちょっと思いだして……神殿に来たときのこと」

 言葉を濁す。正確に言うなら、神殿を目指したときのこと、だ。騎士たちのあいだで話せる内容ではない。

 海を越えたのは、母が最後に残した良心によるものだった。珍しく出かけた先の港町で小金の入った袋を握らされ、ソニアは路頭に取り残されたのだ。捨てられたと察したのは、その後すぐに、母が見知らぬ男と連れ立つのを目撃してしまったためである。

 残された数十枚の銅貨。船に乗るにはぎりぎりの金額だったが、迷うことはなかった。母が生まれ、女神の住まうあの地を一心に目指していた。辿りつけさえすればよかった。その先など考えもしなかった。だが今は。

 すっかり無言になったエリーゼに、微笑みかける代わりにかぶりを振った。

「わたしにできること、探さなくちゃって思いました。クェリアでちゃんと勉強しなきゃ。……それに」

 遠くへやった瞳に、まぶしいほどのきらめきが飛び込んでくる。空と草原とのあいだに割りこんだのはひたすらに続く海の青だ。眼前に白塗りの建築物が見えてくれば、やがてそれは町の体裁を取り始める。瞬間、強く吹き抜けた風には、明らかに潮の香りが混じっていた。胸いっぱいに吸い込んで大きくうなずく。

「楽しみにしていたんです。だってここはラクスの故郷なんでしょう?」

 ふたりで赴くことはかなわないまでも、彼の生まれた地を訪れることができるのだ。息子をして高潔と言わせしめる母に会うことも許されている。あれだけアーシャラフトから遠ざかることを渋っていても、いざとなってみれば気分は上向きになるものだ。

 クェリアの町並みはすぐにソニアらを囲いこむ。エリーゼの指示に従って馬から降りれば、凝り固まった足の筋肉がひきつるような痛みを発した。馬にさえも気遣われていたと分かっていたので、声高に訴えることはしない。

 そのままぎこちない歩みで町中を進めば、周りを囲む騎士たちの存在もあってか、人々の好奇の視線を否が応にも感じることになる。宮殿を訪れた当初を思い出して笑みが漏れた。目ざとく見とめたエリーゼが、それと気付かせずにソニアのすぐうしろに寄った。

「外では気を抜かれませんように。町中に賊が潜んでいるかもしれません」

 そんなに気を張らなくとも、というソニアの思いは読まれているらしい。口を開く前に早口で付け足される。

「先日の一件をお忘れですか。ナヴィアにも命を狙う輩は現れます。まだ手を引く者の存在は突き止めていないのですから、アーシャやあなたがふたたび狙われてもおかしくありませんよ」

「き、気をつけます。ごめんなさい」

「そうなさってください」

 うなずいて、次の瞬間にはふわりと相好を崩してしまうのだから恐ろしいものだ。エリーゼに礼儀作法を叩きこまれたときのくせが体に染み込んでいて、いつになっても強く出ることはできそうにない。彼女の気配がゆるやかに離れ、一定の距離を保つようになると、ソニアはひとつ息をついた。

 アーシャラフトは白と灰の街だった。穢れないながらも歴史を感じさせる町並みは、慣れ親しんだものであってもひとりでに背筋を伸ばしてしまうような空気を漂わせていた。それとは対照的に、クェリアは他国の文化をひとところに詰め込んだような活気を持ち合わせる。建物のつくりはアーシャラフトとそう変わらないが、行き交う人々のまとう衣装の色彩には目を奪われた。

「きれい」

「ええ、そうでしょうねえ」

 つぶやいた声を誰かに聞きつけられた。ソニアははっとして足を止める。気付けば、神殿騎士の壁を隔てた向こうには薄布の衣をまとった少女が随行していた。エリーゼがついと進み出て彼女を窺う。

「失礼。そちらは」

「ちょっとご挨拶申しあげようと思っただけよ。アーシャの花嫁様ご一行、でしょう? クェリアへ、ようこそいらっしゃいました」

「クラウディア様とご縁がおありに?」

 知ったふうな口を、と言いたげな口調だ。確かに過敏になるだけの理由はあるのだが、幾分か険が剥き出しになっている。少女は肩をすくめ、なだめようとするかのように数歩退いた。

「少しは。きっとまたお会いすることになるわ、銀の騎士様。あなたのお噂はかねがね」

「自分の噂話に興味はありません。花嫁様にご用であれば、そちらの身分を明かしていただきたいのですが」

「随分な反応ね。ご挨拶、と申し上げたはずよ。私も長話をするつもりはないの。そろそろ失礼するわ、迎えも来たみたいだし」

 言うが早いか、他方に顔を向けた少女は雑踏のなかに紛れこんで姿を消してしまった。嵐のようだ、とは、彼女が去っていったあとに感じたことである。エリーゼは釈然としない顔で身を引くもすぐに進行の合図を出す。ソニアらを窺っていた騎士たちが隊列を取り戻して進み始めた。

「綺麗な人でしたね。……エリーゼ?」

 表情を固くしたエリーゼを仰ぐと、ひとつため息をつかれる。

「角が立ちました。お恥ずかしい限りです」

「珍しいですね」

「もちろんあなたをお守りするためではあるのですが、……申し訳ありません、気を乱されたようです」

 エリーゼの冷静さをほころばすだけのなにかが、少女にあったということになる。そのほうがよほど珍しいことだ。ふり返ってもすでに影も形もなく、潮風のみが静かに通りぬけてゆく。

(また、って。言った)

 クラウディアとの関係を示唆したうえで、名も名乗らずに消えていった。再会もおそらく嘘ではないのだろう。ソニアが胸に感じたのは言いようのない不安だった。

 港町に嵐。それはかすかに花の残り香をおいて。

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