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アーシャラフトの花嫁  作者:
ふたつの道
32/69

 雨粒の重さを知った。

 厚い布地の修道着が滴を吸って、ソニアの体にのしかかる。防寒具であるはずの衣はもはやその意味を為しておらず、冷えた体の震えは収まってくれそうにない。耳の奥に流れこむような雨音に支配されながら、ソニアは息を切らしてアーシャラフトの街角を走っていた。

 逃げようとしていたのだ。イレーネの言葉から、もしくは弱い自分から。彼女の言葉は確かに、目をそむけようとしていたものであったから。自分を人形にした原因が他人にあるとしても、選び取ったのは自分自身だった。

(それでもいいって、思ってたのに)

 構わないと目を閉じていたはずなのに、一度突かれただけで痛みを覚えるこの胸はまだ弱い。

 駆け、そして、ざらつく喉に咳き込んだ。宮殿を飛び出したときには気にも留めなかった雨が体力を削っていくのを感じ、疎ましさに曇天を睨みつける。

 そのまま通り過ぎそうになった医院の前に立ち止まり、軒先の吊り看板を確認する。まだ鍵を閉めるような時間ではないはずだ。

「すみません、開けてください!」

 閉ざされた扉を叩くと、その向こうから物音の落ちる音がした。この雨のなかで来客があるなどとは想像もしていなかったのだろう、訝しげな顔でそっと扉をひらいた男が、濡れそぼったソニアの姿を見てぎょっとした。

「友人が風邪をひいているんです。薬をくださいませんか」

「風邪って、あんた、この雨のなかを来たのかい」

「お願いします、薬を」

 熱に浮かされたようにくり返す。その姿に医師は不安を覚えたのか、あからさまに眉を寄せた。

「……お金はあるのかい? 見たところ、手持ちはないようだがね」

 慌てて衣を探るが、銅貨一枚見つかりはしない。

 もとよりナヴィアの者が金銭の類を持ち歩くはずがないのだ。必要になった場合は用途を書類に記して届け出れば、その度に教会側から必要なだけの額が与えられるしくみになっている。欲深きをよしとしない教えのたまものではあるが、それでは急を要する状況には対応できないのが事実だった。

 空のままの手を外に出して、ソニアは縋るように医師を見上げる。

「い、いつか払います。ですから」

「悪いが、金がないんじゃなにも売れないよ。医者も慈善事業じゃないんだ」

「そこをなんとか、必ずお支払いしますから」

「あんたもしつこいねえ」彼の目はすでに聞き分けのない子供を追い払うそれに変わっており、腰に置いていた片手はドアノブに伸ばされていた。「必ずとは言うけど、あんたが明日金を持ってくる保証がどこにある? 明後日は? 口約束なんて何の役にも立たないんだよ」

「必要ならサインでもなんでもします、どうか」

「話にならないな、諦めておくれ」

 医師が肩をすくめ、ドアノブを引いた。咄嗟にソニアが伸ばした手も止めるには遅すぎる。閉じゆくそれに待ってと叫ぼうとしたとき、だ。

 うるさいぐらいに降りかかっていた雨が不意に勢いを止めた。遅れて髪筋から滴がしたたり落ち、導かれるようにソニアはふらふらと視線を上げる。扉と壁のあいだには大きな手が挟まれていて、医師が目を丸くしてソニアの背後を見ていた。

 ふり返る。目の端にちらついたのは、透き通るような金糸。冬空の色の瞳。

「ラク……」

(ちがう、)

 彼ではない。出かかった名を飲みこんだ。

 ぽかんと口を開けたソニアの頭上には外套が広がっている。それにぶつかった雨粒が、跳ねまわって軽やかに雨音を立てる。動物の革でつくられたそれは、内部に水滴を通すこともない。

「風邪薬。頼む」

 不遜な表情で言い放った彼はソニアに顔を向けることもしなかった。けれど微動だにしないその腕が外套の裾を取り落とさないのは、かくまった少女を雨からかばうために違いない。医師は彼とソニアとを見比べて、渋々といった様子でいくらか扉をひらいた。

「その子の知り合いかね? あんたも金がないなら……」

「これで足りるか」

 放り投げた銀貨は二枚。慌てて両手で握りこんだ医師が目を剥いた。

 神官が持ち歩くには大きすぎる額だ。それは街角で商店を開く者たちにとっても同様である。高値で薬を取引する医師でさえ、ひと月やそこらで稼ぎきれるような金額ではないはずだ。ソニアは言葉を失い、医師は転びそうな勢いで屋内へと踵を返す。

 雨の下に取り残され、無言で立ちつくす。ソニアがまばたきをしてカミルの顔を見上げると、彼はぼそりと言った。

「得体の知れない金は嫌だろうけどな」

「カミル、どうして」

「あんたの知り合いに聞いた。……あのさあ」扉に置いていた手で髪を掻き、彼は渋面をした。「あんた、ほんと馬鹿だよ。この雨だぞ。風邪薬を買いに行った奴が風邪ひいちゃ意味ねえだろうが」

 心なしか口調が荒い。しかし、彼がぶっきらぼうになる理由など問うまでもなかった。こうして助けられるのはもう二度目のことだ。心配をかけたのだと理解がいって、すぐに情けなくなる。勝手な判断で駆けだしても、結局この身ではなにも為せないのだ。

「これじゃ、いけないね」

 背が自然と丸みを帯びた。雨のせいで声が届かなかったのか、カミルが無言で首をかしげる。

「助けたいって思ったの。でも、結局、助けられたのはわたしのほう。これじゃあ格好つかない」

「つけたかったのか?」

 答えにつまって、わからないと首を振った。

「でも、どうしたらわたしを認めてもらえるか、そればかり考えてる。婚儀の前よりも」

 ここにいるだけの理由が欲しかった。不安にならないだけの理由が。

 だから自問し続ける。花嫁として、教会に立つ人間として、不足のない人間であると知らしめるにはどうすればいいのかと。女神のように慈愛に満ちた存在か、それともアーシャを支え続ける妻としての存在か、目指すものはいまだに曖昧で、空回りをしている感覚がソニアをさらに焦らせる。

 うつむいた頭を小突かれた。呆けて見上げた先の彼が、力強い笑みを浮かべる。

「助けてやりな。薬を持って、精いっぱい看病してこい。どれだけ頭のなかをぐちゃぐちゃにして考えたって、結局人が見るのはあんたの行動だけなんだ。実際、あんたが動かなきゃ俺は動かなかったよ」

 口のなかで彼の名を呼んだ。それは声にならずに消えていく。なんとか言葉を続けようとしたとき、駆け足で医者が戻ってきた。抱えているのはやけに丁寧に折られた紙袋だ。カミルは釣り銭だけを懐にしまい、紙袋はソニアに差し出した。

「ほら、薬」

「あ、ありが……とっ!?」

 両手で紙袋を受け取った直後だ。頭の上にずしりと重みを感じ、同時に目の前が真っ暗になった。予想外の衝撃に一度思考が中断され、手探りで確認すれば、それはカミルが羽織っていた革の外套である。

「ほら、行くぞ」

 ソニアがはっとするころには彼はすでに走り出している。裾の長い外套を引きずらないようにとたくし上げ、戸惑いながらもその背を追いかけ始めた。

 健脚がのびやかに地を蹴るさまに目を奪われる。置いていかれないよう懸命に足を動かした。外套が雨を防いでいるおかげで体は徐々に温まり、じっとりと濡れた修道着が鬱陶しい。前をゆくカミルはちらりと背中を確認したものの、すぐに頭を戻してしまった。ソニアはねばつく唾を飲み込んで、呼吸を整える。

「カミル、……カミル、ありがとう!」

 雨の音に負けないように叫んだ。だが彼はもうふり返らない。聞こえていないのか、それとも故意になのかは定かではなかったが、ソニアにとってはもはやどちらでもいいことだった。

「疑ってごめんなさい! わたし、信じたい、信じるから、カミル!」

 がむしゃらに放った言葉は届いただろうか。叫んだつもりが、息切れを起こした口ではほとんど声にならなかったのかもしれない。カミルが訊き返すことはなく、ソニアも二度と口を開くことはなかった。

 教会の大扉を開き、屋根の下に入ったところで、ふたりはやっと足を止める。荒い呼吸には掠れた声が混じっていた。両腕に厚い布を抱えて右往左往していたエッダが、ソニアらの姿に息を飲む。

「じゃあな」

 カミルは簡単に修道着の裾を絞り、ソニアの肩から外套をはぎ取ると、ぐるりと背を向けた。

 その肩に一枚の布が投げつけられて、彼は驚きに歩みを止めてふり返る。放った側のエッダはそこに居直ると、素早く頭を下げた。

「花嫁さまのこと、ありがとうございます!」

 カミルは目を二度ぱちくりとさせる。ややあって、ようやく納得がいったかのように布を羽織り、おう、とうなずいた。そして今度こそ廊下を小走りで渡っていく。

 ふたたび視線をよこしてきたエッダに、ソニアは紙袋を掲げて見せた。

「エッダ、ビアンカのところに」

 早口で促すと、エッダはがらりと顔色を変えた。心配の混じった様相はどこへやら、柳眉をきつく逆立てる表情はどことなくイルマに似ていた。ソニアがあれと思う間もなく、彼女の手に残った布は大きく広がって襲いかかってくる。

「それより体をお拭きになってください、こんなにずぶ濡れで! 鼠ですかあなたは!」

 ソニアの頭に布を置いて、かきむしるかのように髪をぬぐっていく。これでは濡れ鼠というより愛玩動物の類だ。言い返そうとしたソニアだが、息を吸ったはずみにひとつ大きなくしゃみが出た。それがエッダに油を注いだらしい。

「ほおらご覧なさい! こんな薄着で土砂降りのなかに出ていくなんて、まったくなにを考えていらっしゃるんですか! あなたが風邪をひいたら元も子もないでしょう!?」

 髪の上にあった布が肩へ、そして腕へと動く。頭から煙を出しそうな勢いのエッダに、ソニアはくすりと笑声をこぼした。

「なにがおかしいんですか」

「ちょっと、ね。どこかで聞いた台詞だなって」

「はい?」

「ううん。もう大丈夫よ、エッダ。ありがとう」

 彼女の手を押しとどめ、布を受け取って修道着の水を吸い取る。

「行きましょう」

 優しい人に囲まれた、と思うのだ。

 自分が寄りかかるには、あまりにもあたたかな人たちに。

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