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アーシャラフトの花嫁  作者:
ふたつの道
29/69

 調理場のあちこちからささめきが聞こえてくる。食事の準備は依然として続けられているものの、ほとんど休止状態と読んでおかしくないありさまだ。その調理場で、ソニアは肩身の狭い思いでエッダを見つめていた。

「花嫁さまが体験なさりたいとおっしゃっているわけですし。否定する理由がないでしょう」

 ソニアの前でエッダが口論を繰り広げる。その相手こそ、先ほど彼女が名指しで説教好きと呼ばわったイルマという女性だった。茶の髪には白髪が混じり、顔つきはふくよかだ。責任者として出てきたからには修道女をまとめる立場であることは間違いない。彼女は細い目をつり上げてエッダと向き合っている。

「だから問題なのですよ、エッダ。そんなお方に水回りのことなどさせられません。罰が当たります」

「いつかは私たちを取りまとめるかもしれない方ですよ? 仕事の中身を知らずにどう指示を出すんです」

「指示ならば私が出しましょう。花嫁様が細かな命令までする必要はありません」

 どちらの言い分ももっともだが、ソニア自身が仕事場を見たいと言ったわけではない。エッダに連れられて、というのが正しいのだ。無論手伝えるのであればそれに越したことはないが、この場の効率が下がることは避けたかった。煮え切らない本人の代わりにエッダが交渉を引き受けた形になってしまっており、ソニアは目の前の言いあいをはらはらと見守るばかり。

 一歩離れたところではイレーネがやはり面倒そうに腕を組んでいる。なぜ私まで、という彼女の視線が一番痛い。しかしこの状況では謝ろうにも言いだしにくいのだった。

「ですから、これは花嫁さま直々のお願いってことですよ? 邪魔だからって無下にすることはないんじゃありませんか」

「邪魔だなどとは言っていません。花嫁様のお手を煩わせるような真似をしたくないだけです」

「だからあ……」

 次第にエッダが苛立ち始める。お世辞にも沸点が高いとは言えない彼女のことだから、声を荒げるのも時間の問題だ。そろそろ止めるべきかとソニアが一歩踏み出したとき、だった。

「ああっ! 花嫁さまじゃありませんか!」

 調理場の端から端まで響くような声で叫んだのは、二本の赤いおさげを垂らした少女だ。周囲の目が一斉に自分に向いたのも気付かないのか、ほぼ駆けるようにして調理上の入口からソニアのもとまでたどり着く。

「どうしたんですか、お勉強はお休みですか? ここの誰かに用があって……あっ、もしかしてイレーネですか?」

「なんでも私に結び付けるの、やめてくれないかしら」

 イレーネがそっけない態度で言うと、ビアンカはひとつまばたきをする。

「それじゃあどうして? つまみ食いなんかしないでしょうし」

 笑い声が漏れる。イルマはと言えば目も当てられないとばかりに片手で顔を覆っていた。あとで小言を言われてしまうのだろういたいけな少女は、指の節を顎にあてて真剣に考えこんでいる。ビアンカの登場で空気が一瞬にしてゆるんでしまった。

「ええと、ビアンカ。わたしは」エッダとイルマを見やる。呼びかけてしまった以上は自分の意見を言わなければならなくなった。ええいままよ、と笑顔を浮かべてみせる。「見学に来たの。調理場の様子とか、いつもみんながどんな仕事をしているのかなって。でもお邪魔になるかもしれないから」

 一室が、凪いだように静まった。そうしてしばらく誰も口をひらかなかった。ぐるりとイルマをふり返ったビアンカが、かくりと首をかしげるまでは。

「……だめなんですか?」

 イルマが大仰にため息をつく。

「ええ、ええ、わかりました。そうおっしゃるのであればご自由にご覧ください。手を出すと聞いたから驚きましたよ、まったく……。エッダ! 貴女はもう少し人の話をよく聞くことですね! 皆さんも仕事にお戻りなさい、夕食に間に合いませんよ!」

 ばつの悪そうな顔でエッダが肩をすくめた。油のはじける音を皮切りに、調理場がにわかに賑わいだす。

 失言だったかとどきどきしていたソニアだったが、どうやら口論はいいところにおさまったらしい。それもこれも意図しなかった闖入者のおかげだ。よかったですねえと顔をほころばせたビアンカに、ありがとうと心からの礼を言う。

「エッダ、イレーネ、貴女たちも手伝いなさい。遅れを取り戻しますよ」

 巻き込まれた体のイレーネが眉間に深くしわを刻んだ。文句も言わずに調理台へ向かったが、無言の圧力はソニアに重くのしかかる。そばに寄ったエッダのかけた言葉はことごとく無視し、ぴりぴりとした空気を漂わせながら野菜の皮むきを始めてしまった。あとで謝ろうと心に決めて、ソニアは一旦調理場をぐるりと見回す。

 楽しげに食器を運んでまわるのはビアンカで、空の食器を布巾でぬぐってはトレイに乗せ、棚に戻していく。くるりくるりとよく働く様子は蜜を求める蝶のようだ。ときおり彼女の目はソニアに向けられ、視線が合うと嬉しそうにほほ笑む。

「ビアンカ、よそ見しないの」

「はあい」

 先輩であるらしい修道女にたしなめられても、すぐにこちらを見てしまう。ソニアが小さく手を振ると顔を輝かせた。体ごとふり返ったせいで他の少女と衝突し、その手の食器がぐらりと揺れたが、なんとかバランスをとって落下を免れた。一部始終を見ていたソニアがほっと息をついたところに、イルマが渋面をして声をかけた。

「……花嫁様、困ります。見ておられるのは構いませんが」

「す、すみません」

 彼女の目は油断なく修道女たちのあいだを左右する。ふとしたときに厳しい一喝が飛ぶが、早口で謝罪を述べる彼女らも慣れたものだ。忙しく回る調理場は、決して今日だけのものではない。

「イルマさんは、どれぐらいここに?」

 ソニアの口をついて出た問いに、イルマは考えこむように瞳を閉じる。

「ビアンカの年頃からです。三十年以上になりますか」

「三十年」

 驚きをこめて呟くと、彼女の目が細められた。

「いくらここにいても飽きません。年を追うごとに新しい娘が入ってきますし、やめていく者もおります。私が頭を任されてから五年になりますが、そのあいだにも随分顔ぞろえが変わりました。……ビアンカが調理場に来たときもよく憶えていますよ、あのころから幼さが抜けない娘でした。今も変わりはしませんが」

 笑い声を漏らしそうになって、ソニアは口を抑えた。当の本人は自分のことが噂されているとは気付かず、野菜の下準備に手を貸している。イレーネがそれとなく彼女からナイフを遠ざけているのが目についた。

 可愛がられているのだろうと思う。この場にいる修道女たちを眺めても、ビアンカより年下に見える者はいない。野菜の皮むきを任されている者の大半は十代後半の少女、調理を担当しているのは二十を超えた女性たちだ。同じ年頃のイレーネにさえ世話を焼かれているのだから、他の修道女にも妹や娘のように扱われているのだろう。

「花嫁様が、私たちの指揮をとると仰いましたか」

 唐突に問われる。それに小さく首を振った。

「まだ決まっていません。ここで働くか」

「よその修道院で働くか、ですか」

「ご存知だったんですね」

 イルマがうなずいた。

「先代アーシャの花嫁様もその道を選ばれましたので。婚儀のあとすぐにメリアンツに向かわれ、その後ここにお帰りになることはありませんでした。あの方にとって、アーシャラフトはもう帰る場所ではなくなったのでしょう」

「どうして」

「……愛が、」

 なかったのかもしれませんね。

 平坦な声だった。そしてひどくさびしげな表情をしていた。婚儀も目の当たりにしたという彼女にとって、その花嫁もまた輝かしい存在だったのだろう。恋愛を禁じられた修道女たちに許されるのは、アーシャと花嫁の恋物語を想像することぐらいなのだから。

「婚儀は、ちょうど私がここに入ったころでした。宮殿に迎えられた花嫁様のお姿の美しかったこと。流れるようなブロンドと澄んだ青の瞳、人形のように麗しいお嬢様でした。……しかしご自身のご意志ではない結婚、お相手は二十も年上の殿方だったのですから、本当は婚儀など嫌で仕方がなかったはず」

 政略結婚の文字が頭をよぎる。花嫁を選ぶのはアーシャラフトの教会であり、選ばれた令嬢が申し出を断れるはずがない。メリアンツに移り住んだという先代の花嫁は、アーシャが六十にして短い一生を終えるまでの間、共にいることが耐えられなかったのだ。

 そのメリアンツとアーシャラフトとの間には緊張が走っている。先日行われた新皇帝の即位は、二国間に国境の存在を強く意識させた。背後に国を負っている花嫁がメリアンツでいい扱いを受けているとは考えにくい。

 イルマが深く息をついた。

「お恥ずかしいことですが、この歳になってやっと、わずかながら、花嫁様のご心中を推し量れるようになりました。……将来のことをお決めになるのは花嫁様ですから、どうか私たちのことなどお考えにならないでください。期待や信頼は、時として重くのしかかるだけです」

 花嫁にとって、修道院は逃げ道なのだ。先代の花嫁がメリアンツへ渡ったように。

(いっそのこと、出ていけと言ってもらえれば楽なのに)

 まだ決めあぐねている。期待にこたえるためと理由をつければ、宮殿に残る選択肢を取ることも楽になったのかもしれない。だがイルマは他人に任せた決定に首を振る。選ぶのは自分、初めて与えられた選択権に、手を伸ばすことができないでいた。

 そうして知った。行く先を決められていることは、苦しいけれど楽な生き方でもあったのだ。諦めさえ身につけてしまえば安寧のなかに過ごしていられる。

 人知れず唇を噛む。相談を持ちかけようと思ってソニアが顔を上げるのと、修道女のひとりが桶を持ってイルマのもとへ歩み寄るのが同時だった。彼女はソニアを見やってから、おずおずとふたつの空の桶をかかげる。

「イルマさん、水が切れてしまって。どこに行けばいいのか」

「ああ、貴女は最近入ったばかりでしたね。それじゃあ……」

 少女を先導しようとしたイルマの名を呼んだ。なにか、とふり向いた彼女に、ソニアは一度桶に目を向けてから言う。

「あの、イルマさん。わたしに行かせてもらえませんか? 場所はわかります、水を汲んでくるだけならできますから」

「先ほどはご覧になるだけと」

「お願いします」

 深く頭を下げる。イルマは少女とソニアを見比べ、根負けしてか息をついた。

「頭を上げてください。……ほら、花嫁様に桶をお渡して」

 少女はうろたえたものの、やがて神妙にうなずく。

 そろりと差し出されたふたつの桶を受け取り、ふたたび軽く頭を下げたあとに、ソニアは外に通じる扉をひらいた。宮殿の周りをぐるりと回ったところに井戸があったはずだ。水の入った桶のひとつやふたつ、持ち上げられないほど非力ではない。

(考えよう)

 ひとりきりで、静かな空間にいられる時間が欲しかった。また他人に決断を仰ごうとしていた自分に気がついてしまったから、もうそこにはいられない。

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