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アーシャラフトの花嫁  作者:
それは孤独という名の
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 ひとの頭は、心を強く打たれた瞬間に考えることをやめるのだ。心臓がありえない速度で鼓動を刻み、目を覆った赤にすべてが奪われる。少しずつ、少しずつ、赤から黒へ色を変えていくそれはまるで闇のようで、ソニアに命の終わりを思わせた。

 なにかが消えるのはいつだって闇のなかだ。

 凍えるような冷たさと、寂しさと、恐れ。それらを内包した闇が体を包んで、意識は世界と共に深淵に落ちていく。なにもかもを奪われ、たったひとりで向き合わなければいけなくなる。

 ならば彼はそれを――孤独という名の夜の色を、今も、感じているのだろうか。

(そばに……)

 そばに、いたい。すぐにでも手を握って、大きな声で、ひとりではないと叫びたい。あなたはひとりではないのだと。それがかなわないなら、せめて名前を呼びたい。

(ちがう)

 呼ばれたかったのは自分のほうだ。

 ミセラを、彼にとってのたったひとりを呼ぶときのような声で。あまやかに、ささやくように、やわらかな声で。――名を、呼んでほしかった。ほんとうはそれが羨ましかった。ずっと諦めたふりをしていた。たとえ一度、あのひとが笑ってくれたなら。ソニアと呼んでくれたなら、それだけで満たされる。自分を好きになることができる。そうすればきっと、伝えられる。

 空っぽのこころに生まれ落ちた、決して消えないほのかなひかりを。

 胸を叩いてやまないこの想いの名を。




「……く、エリーゼッ!」

「は、はい!」

 遠くなっていく足音をレオンハルトが追っていった。視界の端に消えた彼らをソニアの瞳が追うことはない。冷たい床に倒れた少年の苦痛の声は弱々しくなり、それにともなってかみしめた歯から力が抜けていく。わき腹を覆った衣がじわりじわりと赤黒く染まるのを、目を見開いて見つめていた。

 言葉が出ない。うまく息ができない。頭ががんがんと揺さぶられている。

「アーシャ、アーシャ、聞こえますか! 意識は! ラクス!」

 浅い呼吸との合間に、うめくような声が上がった。腰から上半身を抱え上げられ、衣を伝った血が地面に流れだす。衣が、石畳が、赤く。広がる血だまりに身のすくむ感覚がした。

 エリーゼはソニアに顔を向け、鋭い声で指示を出す。

「ミセラ様、気をしっかり。ついてきてください」

「え……あ、は」

「ミセラ様!」

 彼女の空いた片手が肩に置かれた。きつく力をこめられる。鋼の色がエリーゼの瞳に宿り、声が重みを増した。

「いいですか、あなたをここに残せば、今度はあなたが斬られるかもしれません。教徒の混乱を抑えるためにもついてきてください。アーシャを待たせるおつもりですか」

 はっとして立ち上がった。エリーゼは背にラクスを負うと、ひとつソニアにうなずいてみせた。しかとうなずき返されるのを確認してから早足で廊下をぬけていく。

 背後を見れば、我先にと詰め寄ろうとする神官たちを騎士が押しとどめていた。彼らが気をもんでいるのがアーシャの身か、それとも自分の身かは定かではないが、取り囲まれればそれだけ処置が遅くなってしまうだろう。ソニアが時間を取らせたぶんも、ラクスの体からは血が流れ出していたのだ。

 一歩の大きいエリーゼについていくには、ソニアはやや駆け足にならざるを得なくなる。ときおり思い出したように床に落ちたしずくに怯えながら、懸命にあとを追った。

(あのとき)

 突き飛ばされた。揺れる視界のなかで、ラクスがわき腹に刃を受けていた。直前に耳に入ったのは金属のこすれ合うような音で、あれはおそらくナイフの引き抜かれる摩擦音だったのだ。それをいち早く聞きつけることができたのは彼以外にいない。

 恐ろしい想像が頭をめぐる。混濁する回想が示すのは、たったひとつのことだ。

(かばわれたんだ)

 刹那。刃を受けるのは、ソニアであるはずだった。



     *



 遠くに、泣き声を聞いていた。

 寒くて静かな、冬枯れの荒野のような闇のなかに、ぼんやりと意識が浮遊している。どうしても体は動かない。世界は未だ見えないままで、夢のなかでも映像を得ることは叶わなかった。知らないものを見ることなどできはしないのだ。どれだけ夢を見ても、そこに景色が現れることは皆無だった。

 たゆたう思考がとらえているのは、誰のものとも知れない悲痛な声だ。叫びもしなければ誰の名も呼ばない、ほろりほろりと涙を流すだけの。しゃくりあげる声がここに届いてやっと、泣いているのだと気付かされる。やまない泣き声は世界に延々と響いていた。

(誰もいないのか)

 そばにいてやる人間は。声をかけてやる人間はどこにもいないのか。ひとに助けを求めることもせずに泣いている、それを知っているのは自分だけなのだろうか。

 行かなければいけない。涙をぬぐうことができずとも、その手を握ってやることなら自分にもできる。たったひとりで涙を流す痛みを教えずにすむ。動けと体に叫んで。

「ラクス……!」

 嗚咽に混じった声。闇が、はじけた。

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