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アーシャラフトの花嫁  作者:
それは孤独という名の
21/69

 翌日、ソニアは両手に本を抱えて書庫への廊下をたどっていた。

 歴史や数学、礼儀作法と、様々な分野の本を借りてきては翌日まで読むことを日課としている。文字の綴りの間違いがなくなるにつれ、本のページをめくる速度が上がっていくのを感じていた。

 書庫の扉をひらくと、なかで本を選んでいたらしい人影がふり返った。ソニアは一瞬身を固くしたが、相手が見覚えのある青年だと気付いて力を抜く。あちらも同じだったようで、軽く片手を上げた。

「おう、お前か」

「カミル……。あなたも本を?」

「読まなきゃ書庫に来ない。書庫に来なきゃお前には会わなかった、だろ」

 歌うように言われ、ソニアは黙りこんだ。言い返しようがない。

 いくらか距離を置きながら、抱えた本を書棚に戻していく。彼の好意を跳ねとばしたことへのわだかまりが胸のなかで渦巻いていて、うまく言葉を交わせる自信がなかった。離れていく相手は追えるのにな、とイレーネのことを取り上げて、飢えた肉食獣じみたことを思う。

 最後の一冊をことりと棚に差し戻したところで、不意にカミルとの距離が詰められた。ソニアは驚き、ほとんど跳びはねるようにして彼から離れる。書棚をのぞこうとしたカミルがぴくりと肩を震わせた。

「……なに」

「あ、ごめんなさい、つい」

「怖がられてんの、俺」

「そういうわけじゃないの。ただ」

 ただ、なんだろう。続く言葉が見つからずにソニアは目をそらす。それになにを思ったか、カミルは二歩、三歩とうしろにさがって、両手を上げてみせた。

「せんせー、なにを読んだんですかー」

 せんせー、とは、先生のことを差すのだろうか。学校に通ったことのないソニアにはどんなものかも検討がつかないが、舌足らずに発せられた声はソニアの返事を催促している。

「え……ええと、歴史の本を。聖アーシャについて」

「お、歴史か。でもアーシャの歴史書なんてここにはないんじゃないか? どこかしら神格化されてると思うぜ」

 知らぬ間に目を瞠る。なぜわかったのだろう。確かに三日をかけて読みふけった二冊のどこにもアーシャという青年自身のことは描かれていなかった。女神の神託を受けて民を率いた英雄、女神の使い、そういった記述のみが大半を占め、肝心の彼の経歴や人生に触れた文は数行にも満たない。

 カミルはじりじりと書棚に近寄ると、並んだ本の背表紙を指でさしていく。つぶやくようにいくつかの題を読み上げ、そうして一列を流したあとにうなずいた。

「アーシャをほとんど神様扱いしてる教会じゃ、聖アーシャの人間性なんて必要ないんだよ。むしろ英雄をつくり上げるには邪魔なものだ。いくらアーシャラフトじゅうから書物が集まるって言ったって、内容はお偉いさんに厳しく検閲されてるだろうさ」

「英雄を、つくり上げる……」

「女神だけじゃ信仰は成り立たない。だから教会は考える。信仰を身近に感じさせるための、人であって人でない存在をな。それがアーシャってこと」

 目が覚めるような心地で彼の言葉を聞いた。神官が口にするにはいささか背信的な気もあるが、おそらくカミルの言い分は的を射ているのだろう。

 身も蓋もない言い方ではあるが、アーシャは女神信仰へのとっかかりになるのだ。はじめて宗教に向き合った相手に、会ったことも見たこともない女神を信じさせるために、より人間に近い存在を英雄として置いておく。彼がアーシャラフトの建国者として実在すれば、教徒たちの布教も容易になるだろう。

 教会に必要なのは、歴史ではなく伝説。史実ではなく物語だ。

「あっ、今の秘密な! お前の周りの奴らには特に」

 しっ、と指を口元に寄せる挙動がいたずらをした子どものようで、ソニアは思わず頬を緩ませる。それを目ざとく見止めたカミルが、自分の頬をつついた。

「そうそう、そうやって笑ってな」

 一度にやついて、彼は間近な椅子に腰を下ろす。

(見透かされてる)

 複雑な思いになる。酷いことをしたという自覚があるからなおさらだ。書庫から助けられておきながら、ソニアのためを思って放たれた言葉だけを切り捨てたのはまだ記憶に新しい。もやもやとする感情は未だどこにもやれずにくすぶっている。

 本を選ぶふりをした手を下ろす。そうしてふり向けば、ソニアをじっと見ていたカミルがまばたきをした。

「この前のこと、ごめんなさい」

「ん? ああ、うん。別に怒ってねーよ」

「それでも! ごめんなさい」

 なおもソニアが謝ると、彼は頭を掻いた。稲穂のような金の髪がわさわさと揺れる。

「わかってるよ、お前にも譲れないところがあるんだろ。それを通しただけなら、謝られる筋合いはないんだって。むしろ堂々としてくれないとこっちがいたたまれない」

「……ありがとう」

 はいはい、と軽い調子で返事をされる。顔をそむけたのは照れくささからだろうか。

 気が楽だ。心に乗った重石を無かったことにしてくれるような優しさが彼にはある。言葉につまったとしても、カミルはそれが吐き出されるのをずっと待っていてくれるのだろう。ほっと息をつけるところは、自分にとって貴重な場所だ。

 カミルが書棚に目をやった。眺めているのはそれまでソニアの向かい合っていた棚で、歴史の本が整然と並んでいる。言わずもがな蔵書はラクスの部屋にあるものより豊富だ。アーシャラフト史を中心にしつつ、他国の歴史書も数多く名を連ねる。

「俺さあ、歴史が好きなんだよな。だからここに来るとその棚ばっかり漁ってるんだけど」

 明朗な彼の性格と本とはどうしても吊り合わないように思えてしまう。それを口に出すのは失礼だと分かっているので黙っていた。ソニアが書棚の本を取り上げながらうんと相槌を打つと、カミルは気だるげな声で続ける。

「数字に人はいないし、小説に命はないけど、歴史には人が生きてる。いや、生きていたんだ。たった一行の文で済まされる間にさ、奴らは生きて、死んでいったんだよ。裕福に暮らした奴も、町の裏通りでひっそり死んでいった奴も、書物の行間にいたんだよな」

 同意を求められているような気がして、ソニアはふたたび彼に目を戻す。

 カミルは今や背後の机に上半身を預けぐったりと天井を見つめていた。その体制では腰が痛くなりそうなものだが、彼は体を揺らすこともしない。悠々とした様子で、枕代わりにか両腕を頭の下に組んでいる。

「ある国で女帝になった末子は、上のきょうだいをみんな殺したんだそうだ。巧妙に死体を処理して、自分の配下の犯行だってことを隠し通して王座についた。自分を疑う奴らの首を片っ端から跳ねとばして、死ぬまで治世を続けて……そんなことがあっても、歴史書には偉大な女帝として残されるんだよ。歴史の真実を記したものなんて、実際はほとんどない」

「カミル?」

 遠くに行ってしまいそうな危うさを感じて、ソニアは彼の名を呼んだ。どこかを見つめ続けるカミルの目が眇められる。書庫の天井を抜け、空へ。その彼方へ。カミルが思い描いているのは、もっと遠くにある場所なのかもしれない。

「案外、真実を書いたものっていうのは、単なる個人の日記だったりするんだよな。後世に残された俺たちは、そこから当時を読み解いて想像するしかない。当時の真実は、その時代を生きた本人にしか分からないんだ。……なあ、ミセラ」

 名を呼ばれたと気付かなかった。わずかに遅れて、なに、と返す。机からゆっくりと体を起こしたカミルは目を細め、無言でソニアを舐めるように眺めた。ぞくりとした感覚が走って一歩身を引いたが、それをすぐに後悔した。

「お前さ、」

 彼が言葉を発すると同時に、宮殿の入口からにぎわいの声が聞こえた。おそらくラクスらがメリアンツから帰還したのだろう。ソニアが騒ぎのほうへ顔を向け、戻すと、カミルはそれまでが嘘のようにけろりとした表情で言った。

「行けよ、アーシャが帰ってきた。花嫁なんだろ、あんた」

「……あ、うん」

 手に取っていた本を、ひとたび書棚に戻す。椅子と机を避けながら、ソニアはそそくさと書庫の入口に足をかけた。その背にカミルが声をかける。

「教会のなか、ちょっと気をつけたほうがいいかもな」

「え?」

「見かけない奴がいる。まあ、俺もここじゃあんまり長くねえし、そりゃ知らない奴ばっかりだけどさ。……教会も一枚岩じゃないぜ、花嫁さん」

「どういう……」

「ほら行った行った!」

 しっしっ、とばかりに片腕を振られた。犬かなにかのようにあしらわれているのではないか。そのことにソニアは唇を尖らせるも、書庫をあとにして駆けだす。

(さっきのは、なんだったんだろう)

 見透かされそうな鋭さを感じていた。ミセラ・ファルツとして振る舞う少女のことまで、すべて。

 誰も漏らすわけがないのだからありえないことだけれど、カミルと対峙して感じたのは言いようのない不安だった。居心地の悪さなど、彼からはもっとも遠いところにあるものだと思っていた。だが透き通った目で見つめられた瞬間、ソニアのなかの何かが警鐘を鳴らした。

 ラクスが彼のことを知っているのと関係があるのだろうかと頭の端で考える。カミルがラクスをよく思っていないこととも。もし知らされていないことがあるのなら、ソニアも不用意に彼に近寄るべきではないのかもしれない。最優先するのは正体を隠すことで、ミセラ・ファルツの奥のものを悟らせてはいけないのだから。

 急に明るくなった視界に、馬から降りたラクスをとらえた。しかめ面をしてエリーゼと言葉を交わしている。周りを囲む騎士たちの人数を確認して誰も欠けていないことを確認すると、ソニアはほっと息をついた。町人や神官たちのあいだをすり抜け、中心に躍り出る。

「おかえりなさい、ご無事ですか」

 ふたりに向かって問いかける。ラクスは無言を貫いたので、エリーゼが苦笑して大丈夫ですよと答えた。

 なにがあったのかとラクスに視線を投げると、エリーゼはなにも言わずにそっと自分の足に触れてみせる。馬に乗ることは足に多大な負担がかかるのだと思いだして、ソニアはうなずくことで了承を示した。ほとんど宮殿の外に出ることのないラクスが乗馬に慣れているはずもない。

「アーシャ、ナヴィアに」

 レオンハルトが声をかけ、先導して歩きだす。ラクスがそれに続いた。エリーゼとソニアも同行し、人ごみをかき分けながらやっとのことで宮殿に入る。固い石の床に足をつけると、ラクスが深く息をついた。

「……やっと帰ってきたのか」

「お疲れさまでした」

「ああ」

 力ない返答が彼の疲労をありありと示していた。このあとは公務もそこそこに休息を取るのだろう。多忙なアーシャとはいえ、長い旅のあとぐらいは体を休ませるべきだ。ソニアは身を引き、ふたりの騎士に導かれるラクスを見送ることにする。

 しかし数歩を行ったところで、彼はぐるりとふり向いた。誰か気にかかるような者がいただろうかと周囲を見回しても、ソニアの目に入るのは数人の騎士たちぐらいだ。エリーゼがくすりと笑う。

「我があるじはあなたをお傍に置きたいようですよ」

 彼女の言葉に、ラクスが口の端を引きつらせた。

「僕の騎士はきみを守れないと不安らしいからな」

「言いますね、アーシャ」

「お互い様だ。……それで、どうする」

 問いがソニアに向けられる。

(……行っても)

 いいの。

 あなたのところへ。薄汚れたどぶねずみとさえ言われた私が。

 躊躇して、そのとき初めて、まだその言葉は消えずに残っていたのだと気付いた。数多のものと共に取りこんだ棘は、決して消えてなくなるわけではない。いつかこうして思い出されるのを待っている。鈍い痛みがふたたび蘇るのは、それが温もりに変わるときだ。

 唇が震え、あたたかな息が漏れた。嗚咽さえもらしかけた口を引き結ぶ。鹿爪らしい顔をしたラクスのもとへ、足は命じるまでもなく歩みだした。おぼつかない一歩は、確かな二歩へ、弾むような三歩へと変わってゆく。

(ああ、なんて……幸せな夢なんだろう)

 ラクスのかたわらへ。その一瞬は、永遠だった。

「――!」

 ひときわ大きな声で名を呼ばれた。聞き慣れた声の、聞き慣れない響きに当惑する。

 床を蹴って駆ける足の音。悲鳴。誰かが息をのむ。耳の端に届いた金属音に、世界が反転する。時を待たずに空白になった思考と、くらんだ視界に、ぐらりと頭を揺さぶられる衝撃が続いた。頭上をひらめいたのはぎらつく刃の光か。

(あ、れ)

 目の前が。あかく、あかく、染まっていく。鮮烈な、あか。呼吸が止まる。そのくせ胸はどくんどくんと脈を打つ。

 そこに、痛みを伴わないままで。

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