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アーシャラフトの花嫁  作者:
それは孤独という名の
20/69

 どう見る、と問うたラクスの声に、ふたりの騎士は各々に考えるそぶりを見せた。

 アーシャラフトの客人にと用意された部屋にこもり、三人は宵闇のなかで向かい合う。覆いのついたろうそくが部屋のあちこちにつりさげられ、仄暗い闇は彼らを包み隠すかのようだった。エリーゼがちらと兄を窺うと、彼はいまだ床を見つめて眉を寄せていた。長く考える癖のある男だと知っている。先に意見を出すのはいつも彼女のほうだ。

「他国への牽制でしょうか。数年中の侵略開始も、大いに考えられるかと」

 エリーゼが声をおさえて言うと、彼女のあるじは重々しくうなずいた。

 開拓者、剣と槍。メリアンツは他民族の侵略によって成り立った帝国だ。歴史はアーシャラフトより浅いとはいえ、支配下に置く領土の広さは諸国のうちでも群を抜いている。多くの諸侯とその領地を束ねた大帝国の侵攻を抑えられる国など皆無と言っていい。

「矛先がどこに向くか、か。貿易の確保を優先するなら西方の海岸線、手っ取り早く国土を広げるなら北方へ向かうだろう。今のところはアーシャラフトを狙う理由があるようには思えないけど」

 ラクスが意見を求めるように押し黙った。

 西方の王国グランシス、北方の王国ホークラッド。いずれも即位式に重鎮が招かれている。一方、メリアンツの南西にあたるアーシャラフトは面積も狭く、これといった産業も確立していない。ラクスの言う通り、侵攻はたやすくとも理由が存在しないのだ。

 沈黙の末に顔を上げたのはレオンハルトだった。

「メリアンツの諸侯は、あるじを失って混乱に陥っている」

「……どういうことですか?」

「もとは別の国のもとで領地をまとめていた者がほとんどだ。自身が王だった者もいる。前皇帝が一生をかけて統治していたものを、新皇帝、それも強硬派が支配し続けられるとは思えない」

 その状況が意味するところは。ラクスは促すが、レオンハルトは口をつぐんだ。

(考慮に入れておく必要はあるな……)

 こと国取りにおいて、どんなに些細なことでも行動を起こすきっかけになる。そう簡単に見逃すわけにはいかなかった。メリアンツが次にどんな手を打ってくるのか、未だ予想できないままなのは痛いところだ。

 ラクスは一息ついて、背を預けていたベッドに頭を転がした。

「読めないな。マティアス殿の意見も伺いたいけど」

「部屋が離されています。……偶然か、図られたかは分かりませんが」

「メリアンツを出るまでは何もしようがない、か」

 この旅の安全は確保されている。されているがゆえに、後味が悪い。ラクスは立ち上がり、背後のベッドに横になると目を閉じた。

「お休みになりますか?」

「朝早くに発つことになる。考えてもどうしようもないなら、体を休ませるのが先だ」

「そうですね……では、あとはお願いします」

 レオンハルトとラクスに頭を下げ、エリーゼは部屋を出た。あるじの寝室は兄に任せている。

 同行した女性のためにと用意された隣室に向かいかけた足は、背中に聴いた声を受けて止まった。エリーゼは無言で壁に寄ると、たった今出たばかりの部屋のなかに耳をすませる。

「戻りたいなら、ここで別れてもいいんだ」

 語りかけた相手はレオンハルトか。か細い声だが、聞きとれないということはない。

「少なくとも、メリアンツは安全だから。僕からチェルハの家に書状を書いてもいい」

「あいつがあなたのもとにいる限り、俺の居場所はあなたの傍だ」

「……エリーゼも、きみも、もっと違う相手に仕えるべきだ。僕にはもったいない」

 飛び出していこうとする体を必死で押さえた。腕が震え、食いしばった歯がきしむ。それでも自分を止めることができたのは、兄が厳かに答えを返したからだ。

「あなたは無二のあるじだ。エリーザベトにとっても、俺にとっても。自分を卑下するつもりなら、俺は一度、あなたを殴って目を覚まさせなければならなくなる」

「殴っ……レオン、」

 ラクスの、息をのむ気配。あの人が笑ったのかとエリーゼにも納得がいった。幼い頃こそよく目にしたものだが、今のあるじのもとで働き始めてからはとんと見ることが無くなったものだ。やや不安に思っていたが、どうやら、まだレオンハルトは笑顔を忘れずにいるらしい。

(聞いていても詮無いことか……それにしても、勿体ないことをしたな)

 珍しいものを見逃した。エリーゼは肩をすくめ、割りあてられた部屋の扉をひらく。物音をたてないようにと気を使ったが、アーシャの耳には聞こえてしまっていたかもしれない。



     *



 彼のいない広間は、たったひとりぶんの空席であっても、閑散としてもの寂しい。そわそわと色めき立つ神官たちの声が耳に刺さるので、ソニアはテーブルクロスをじっと見つめることで耐えていた。染みひとつないその上に、一皿、また一皿、と料理が並べられていく。昼食どきのために量は控えめだが、菜食を中心としたナヴィア宮殿の食事はあらゆる色にあふれている。

「イレーネ」

 皿の縁をつまんだ少女に声をかけた。机に小指を添え、皿が音をたてないようにと気を配っていた彼女が、しばらくしてちらとソニアに目を向ける。かたん、と音。透明なスープの水面が揺れた。イレーネはそれでも皿を離さない。

「仕事中です。申しわけありませんが」

「あなたは友だちになってくれるって言ったわ」

「……またそんな世迷言を」

 細い指が皿の縁を離れる。ふたつのパンが載った皿を最後に置くと、イレーネは空になったトレイを片手で抱えた。壁際に控えようとした彼女だが、一歩下がるのみで足を止める。他人の耳に入らないようにと声をひそめた。

「どこまで無かったことになさるおつもりです? スープのスパイス、葡萄の果汁、先日の書庫でのこと。私が次になにをするか、考えたこともありませんか」

 細く、息を吸って。

「無いよ」

 答えた。

 たび重なった仕打ちを耐えることこそすれ、それ以上のことは思わない。恐れを抱けば、たちまち彼女は遠くへ行ってしまうからだ。貧富の違いを越えて手を伸ばすことができるのは、富んだ人間だけだと知っていた。だからこそソニアはその手を引かない。イレーネを諦めるのは過去の自分を見捨てるのと同じことだ。

 この場所はソニア自身のつかみ取ったものではない。他人に与えられるはずだった場所、転げ落ちてきた単なる幸運だ。ならば、自分を嫌う人間ひとり許せずに花嫁になどなれるわけがない。

「無かったことにするのももうやめる。あなたがどれだけわたしを嫌いか、やっと分かってきたの」

「結構なことですね」

「でもわたしは、あなたに認めて欲しいから。ここにいること、花嫁になること、みんな。だからあなたを、嫌いにはならないわ」

 お綺麗な理想論。毒づく声が聞こえた。ソニアはにこりと笑いかける。仮面のような笑顔ばかりがうまくなっていくのを感じた。したたかに、したたかに。やがてはアーシャの花嫁となるために。

「……花嫁様」

 なあにと返したソニアに、イレーネは唇の端をつり上げた。

「私が薬の勉強をしていることはご存知でしょう。料理を皿に盛り付けるのも、あなたの向かう机にそれを並べるのも私。一服盛ることも可能なんですよ」

 言い捨てて、彼女は一礼ののちに壁に寄る。そうして背筋を伸ばし食卓に目を走らせた。配膳は終わり、食事の用意は整っている。留守を任された大司教のひとりが神への祈りをささげ、スープを一口飲みこむと、他の神官たちもそれに倣って食事を始めた。

 ソニアは目の前に並ぶ皿を一瞥する。ニンジンとジャガイモを煮崩れするまで煮込んだスープ、ロールキャベツ、そして小型のパンがふたつ。イレーネが専属の給仕としてソニアについているのなら、確かに毒を盛ることも容易だろう。今回はどうでしょうね、という言葉が裏にこめられたのは察していた。けれど。

(……ばかだなあ)

 笑みがこぼれる。ソニアは躊躇せずにパンを手に取った。次々と料理を口に運び、そう時間をかけずに胃に収めていく。香辛料が多量に入っているでもなく、熱されてから間もない食事は、冬の空気に冷えた体を芯から温めていった。

 毒が入っている様子はない。遅効性のものであるならそうとは言い切れないが、可能性はまずないだろう。

(それとも、馬鹿にされているのかな)

 食事を終えた神官が次々と席を立つのを見送りながら、パンの最後のひときれを飲み下した。空になった皿を見下ろしてから、首だけでイレーネをふり返る。いつにも増して険しい顔で歩み寄った彼女が食器をトレイに戻し始め、その最中、低い声で問われる。

「信じている、とでも?」

「わたしはそこまで馬鹿じゃないよ。イレーネ」

 片付けの手を止めた彼女を仰ぎ見て、ソニアは手元に残ったスプーンの持ち手をなぞった。銀製のスプーンとフォークは、総大司教とアーシャ、その花嫁のみが使用を許される品だという。シャンデリアのもとで光を跳ねかえすそれのどこにも汚れは見当たらない。

「あなたがわたしに毒を盛るなら、もっとうまくやるでしょう? こんなに直接的なことはしない。だって、もしここでわたしが倒れたら、最初に疑われるのはあなただもの」

 他の神官に被害がないとなればなおさらだ。今まで他人に見とがめられないようにと徹底してきた彼女が、そんなへまをするとは思えなかった。毒を盛るというのは売り言葉に買い言葉で発した虚言だろう。

「それに、友だちだから」

 ほほ笑んで付け足すと、イレーネは苛立った様子でソニアの手元からスプーンを取り上げる。食器をすべてトレイに戻し終えた彼女に、ソニアはごちそうさまでしたと言い残して席を立った。

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