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アーシャラフトの花嫁  作者:
それは孤独という名の
19/69

 ナヴィア宮殿から一歩踏み出せば、ひとりで歩くこともままならない。そこが区切られた空間や廊下であればまだしも、広大な平原や広間ともなると足音での判断すらもあてにならないからだ。たとえ歩けたとしても道が頭に入ってなければ迷うことは必至で、必然的に他人に身を任せることとなる。

 長い道のりを馬に揺られ、途中に休憩をはさむ。アーシャラフトを発つときはかぶっていた帽子も、不便だからと脱いでしまっている。慣れない乗馬で足を踏ん張っていたためか、馬から降りた途端に崩れ落ちそうになるのをレオンらに支えられた。

 アーシャラフトとメリアンツのあいだに横たわる平原の眺めは壮観なようで、騎士たちが歓声を上げているのが間近に聞く。それを知る由もないラクスが座りこむと、隣に立ったエリーゼは、声をかけたあとに彼の背を叩いた。

「力を抜いてまたがってください。胸を張って。前傾姿勢では疲れがたまります」

「このぶんだと、あちらで歩けるかも心配だな」

「そのときはお支えしますよ。メリアンツまでは……そうですね、あと半分といったところです」

 まだ半分かと表情を曇らせたラクスに、エリーゼはたしなめるように言う。

「慣れれば楽になるかと。あちらに到着してからのほうがお疲れになるかもしれませんし」

「式か? それなら僕は見ているだけだ。祝詞を送るのはマティアス殿で」

「即位式には限りません、メリアンツはアーシャラフトとは違いますから」

 含みのある言いようにラクスは眉をひそめたが、エリーゼはそれ以上を説明する気はないようだった。長い沈黙があって、ラクスがうつむいたころ、彼女は再び口をひらく。

「アーシャラフトのあの方は、ご無事でしょうか」

 ミセラという名も、ソニアという名も、出すわけにはいかなかったのだろう。その呼び名が表わす少女はひとりだ。ラクスは痛む足の付け根をさすりながら、さあな、と答えた。エリーゼの躊躇する気配を感じて、彼は頭上を見あげる。

「……手を出されるのは嫌なんだそうだ」

「あの方が、そうおっしゃったんですか?」

 ラクスはうなずいて、思い返す。一日のうちに起こったことが多すぎて、数日が過ぎた今でも困惑が大きかった。

「ひとりで書庫にいたら誰かに閉じ込められたらしい。なにがあったのか聞こうとしても口を割らなかった。言わなければわからないと言えば、むしろ僕の目の心配をする始末だ」

「それは……また」

 本当に目の心配だったのだろうかと考える。彼女の言ったのは、もっと違うことだったような気がしたが。

 不意に風が通り抜ける。ラクスは頬をくすぐった髪をかきわけた。

 どこまでも続くかに思える平原は、いのちの気配に満ちていた。背の低い草の鋭い葉。ときおり鼻孔に入りこむ土のかぐわしい香り。天高くからこぼれ落ちる冬鳥のさえずりと、どこか遠くを走ってゆく荷馬車の音。アーシャの耳をもってしても、平原の端から端までは音を拾いあげることができない。自然のなかではいかに自分が無力かを感じさせられる。

 アーシャは人だ。しかしそれを思い知るのはアーシャとして生を受けた者だけ。つまづき、転び、他人に頼らねば人並みの生活すら営めない。

(英雄はこの身で戦ったのか)

 アーシャラフトの建国者にして平定の英雄、聖アーシャ。女神の神託を受けて信徒たちを率いた青年。盲目の身で馬を操ることなどできはしまい。前線で剣を振るい、騎士たちを統率することなどもってのほかだろう。それにもかかわらず彼が英雄視されるのは何故だ。

「出発だ」

 レオンの声に従って立ち上がる。足の痛みもいくらかやわらいでいた。明日にでも反動が来るだろうな、と苦々しく思いながら、彼の補助で馬に乗った。




 メリアンツの首都、ヴィーネゲルン。アーシャラフトと同様に石畳に覆われた町ではあるが、こちらは灰色の石を積み上げ、要所に鉄を用いたつくりになっている。白の町とも呼ばれるアーシャラフトとは対照的だ。

 ほうぼうから上がった町娘の嬌声が耳をつんざく。ラクスはヴィーネゲルンの門をくぐりぬける前から眉をひそめていた。これに比べれば、アーシャラフトの歓声はつつましかったように思う。彼女らにも血気盛んなメリアンツの民の血が流れているのだと実感して暗く息をついた。諦めて顔を上げようとしたとき、耳の端にささやかな泣き声を聞く。

「アーシャ?」

 一点を向いたままのラクスにレオンが声をかけた。彼が手綱を引いて馬を止めると、列をなしていた神殿騎士たちが波打つようにそれに倣う。

「降ろしてくれないか、レオン」

 あるじの命を訝しがりながらも、レオンはひらりと馬から身を躍らせる。ラクスは彼の手を借りて馬から降り、迷うことなく泣き声の方向に歩を進めた。群衆たちがぱっくりと道を開けていく。

「どうした?」

 その言葉を受けた子どもは肩を震わせた。うろたえる声に、泣いていたのは彼女で間違いないと確信を持って、ラクスはせめて視線は合わせようとしゃがみこむ。

「転んだか、それとも他に嫌なことがあったのか」

「べつに、なにも」

「ならおかしいな、私は確かにきみの泣き声を聞いたが。親はどこにいる?」

 長い沈黙があった。少女はその末に、小さな声で答える。

「……いないよ」

「いない?」

「おかあさんも、おとうさんも、ミアも死んだ! みんな死んだんだ! 兵隊がきて、みんな殺していった!」

 ほとんど泣き叫ぶように返して、彼女は雑踏のなかへと紛れていった。遠ざかる足音を追おうとしたラクスは腕を掴まれ、引き止められる。

「アーシャ。ご自身の立場を一考なさいますよう」

 ささやく声はエリーゼのものだ。「あの子は」と問うと、おそらく、と前置きをしたエリーゼが低い声で答えを返す。

「メリアンツに制圧された民でしょう。身なりも汚れていました」

「……誰も、助けてはやらないのか」

「彼女のような戦争孤児は山のように存在して、日を追って死んでいくのみです。お気持ちはわかりますが……ご温情も、おかけになるべきでは」

 エリーゼが言葉を濁す。そうして察する、――有難迷惑というわけだ。メリアンツはアーシャラフトとは違う、との彼女の言い分を思い出し、胸のなかにもやを感じる。唇を噛んだラクスが馬の傍らに戻ると、レオンは無言で彼を馬に乗せた。

 ややあって、ようこそお越しくださいました、との声で巨大な宮殿に迎えられ、ラクスは先を歩くレオンの足音に続いた。背が高いことに起因しているのか、彼の足音は重く、低い。あるじを気遣っているためか歩調は日ごろに比べて遅かった。

 数度角を曲がったところで前を歩く案内の老紳士が立ち止まり、ふり返った。

「ご到着されたばかりでお疲れのところを痛み入りますが、即位式は間もなく開式となります。総大司教殿、アーシャ殿と、そのお付きの方々は大広間の三階席へ。他の方々は一階席にお願い致します」

 ふむ、と漏らしたマティアスも、危険はないと判断したらしい。

「では参りましょうか、アーシャ」

「ええ」

 他国にも多くの信徒を抱えるアーシャラフトの女神信仰をかかげている限り、いくらメリアンツといえどそう容易には手出しはできない。新皇帝の即位式である今日、自国民の反感を得るような真似は避けたいところだろう。

 表面上でも友好関係があれば十分だ。その点において、女神信仰は衝突を避けるのにちょうどいい。

「それではご案内致します」

 二手に分かれ、再びレオンを追った。背後にはエリーゼとマティアスの付き人が続く。壁越しに伝わる会場の熱気は、じわりじわりと沸きたち始めていた。




「エリーゼ」

 名を呼ぶと、すぐそばに立つ彼女が小声で返事をする。眼下には粛々と祝詞を読みあげるマティアスの声が聞こえており、しんと静まった会場にはそれを妨げる声はない。数千、あるいは数万の領主や富裕層が集っているのだろうが、客人の祝辞に耳を傾ける礼儀はあるらしい。

 だが、一点。アーシャの耳は確かに、くぐもったいびきをとらえていた。それが民のものであるならばラクスも気に留めることはないが、方向を鑑みるに、いびきの主は。

「新皇帝は」

「はい? 広間を挟んで前方の席に……あ」

 様子を見たらしいエリーゼが、小さく声を上げた。

「……眠っていらっしゃいます。深く」

「そうか」

 アーシャラフトの客人の言葉など聞く価値もないというわけだ。ラクスは背もたれに体を預ける。

 彼の父である前皇帝と文を交わしたことはないが、マティアスの話を聞く限りではメリアンツには珍しく穏健派の皇帝だったという。侵略よりも内部の分裂防止に力を尽くし、結果ひとつの反乱もなくメリアンツは現在の領土を維持している。その息子とはいえ、新皇帝はまだ三十を越えたばかりの年若い青年だ。若すぎると言ってもいい。

 賢帝の息子が必ずしも賢帝でないことなど、史実をたどれば明らかだろう。むしろアーシャラフトにとっては、彼らが賢帝より愚帝、武帝であることのほうがよほど危惧すべきことだ。

 即位の儀は終焉を迎えようとしていた。冠を授けられ、広間の中心に立った皇帝は、張り詰めた空気に満ちたそこで息を吸う。途端に湧きあがった衝動を感じたのは、おそらくラクス一人ではない。

 皇帝は大きく口をひらき、そして、高らかに謳い上げる。

「新皇帝、アーダルベルト・ビュットナーは、ここにメリアンツ帝国の夜明けを宣言する! 太陽を窺い月を惜しむ時代、風に怯え雨を乞う時代は過ぎたのだ! 信と義に生きるメリアンツの民よ、古来より続くこの血のもと、剣と槍をもって自ら生を切り拓く開拓者となろうではないか!」

 おおお、と雄たけびがあがる。びりびりと鼓膜を震わせる大音声は広間に響きわたり、会場は今や新皇帝即位の歓喜に打ち震えていた。招かれた者たちが神妙な表情でそれを見つめるなか、皇帝は腰に下げた黄金の鞘から剣を抜き払う。かすかな金属音がして、どよめきがあがった。

「私は汝らを率いる将となろう。太陽となり、剣となろう。我らは世界を導く覇者となるのだ! メリアンツに栄光あれ!」

 復唱する民の声量にラクスは息を詰める。メリアンツが擁しているのは、この数百倍もの民だ。その軍勢こそが彼らの力であり、誇りでもある。

 かの皇帝の威厳はおそらく本物だ。人を動かし、率いる者の器だ。統率のとれた軍勢は、やがて彼の言うとおりに世界を制することになるかもしれない。

(……そのとき、アーシャラフトは未だ潰れずにいるだろうか)

 懸念を抱く。それが何年後、何十年後、何百年後であろうとも。

 女神はそれまで、民のなかに生きているだろうか。

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