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アーシャラフトの花嫁  作者:
嫉妬と後悔
17/69

 うつむいて歩く。沈黙と締め付けられるような歯がゆさはこの街を訪れた夜にも似ていた。少しでも気を抜けば足が止まりそうになり、何度も地面に擦りつけるたび思考に待ったをかける。

 日が沈むにはまだ時間があり、宮殿に火がともされることもない。書庫に比べれば幾分か明るいはずの廊下は寒々として陰りすら感じる。すれ違う者はみなラクスの顔を見るとそそくさと道を譲ったが、それに頭を下げる気も起きなかった。

「着きました」

 一言と共に先頭をゆく騎士の青年は足を止め、あとに続くふたりも揃って立ち止まる。青年によって開け放たれた自室の扉の前で、ラクスはしばし考え込んでいた。かといって彼の心中にソニアが考えをめぐらす暇は与えられず、すぐに顔を上げると部屋に入っていってしまう。ドアノブを握ったままの青年と視線を交わしたあと、ソニアも彼に続いた。その背に扉が閉められる。

 迷いのない足取りで文机に向かったラクスはいくらか手をさまよわせたあとに、椅子の背もたれを引いて座りこむ。仕事に向かう気色はなく、横を向いたままで指先を組み合わせていたが、ややあって意を決したように口をひらいた。

「言いそびれていたことがある。きみがナヴィアに入った、その日に、僕が言ったこと」

「……ええと」間をおいた。あえて考えずとも、浮かぶのはひとつの単語だけだ。「どぶねずみ、ですか?」

 ラクスが目を細め、より小声になる。

「それだけじゃない。酷いことを言った……と、思う。いろいろ」

 歯切れが悪い。言葉を選んでいるようにも、単に言いづらそうなだけにも見えた。彼の様子にソニアは少なからずうろたえる。断言と否定、詰問、それがラクスの口を占めているものと思っていた。この少年でも言葉に迷うところがあるのだ。

 ラクスは沈黙をおいて、それからやっとのことでソニアに顔を向ける。

「まずそれを謝りたい。すまなかった」

「そんな、もうなにも」

 浅く頭を下げたラクスに首を振るが、見えていないのだと思い至って慌てる。怒っても根に持ってもいませんから、と消え入りそうな声で言ったのが精いっぱいだった。うつむく彼は日々目にしている姿よりも一回り小さく見えて、よりソニアの緊張を煽る。

「もしそのことが今回の件に繋がったなら。きみが誰にも助けを呼べないほど追い詰められていたなら、僕に責任がある。カミルに責められるのももっともだ。かばわれる必要もなかった」

「……そういうわけじゃないんです」

 言われて初めて、ラクスをかばう形になったのだと気付いたほどだ。ソニアは衣の裾を手持無沙汰の指先に取り上げる。

 思えば、殊勝な心などどこにもなかった。

 ひとりでは喧嘩すらまともにできない自分をさらけ出すことが恐ろしかった。それを彼に知られることが怖かったのだ。一心に勉学に励み、教養をつけて、花嫁にふさわしくあれるようにと願い続けてきたのに、足元のおぼつかない姿を見せればみな砕けてしまうように思えて。

 自分のなかにはなにもない。藁にもすがる思いで中身を求めた。けれど空っぽの体はふらりふらりと宙を舞い、いとも簡単に射落とされてしまう。花嫁である以外にここにいる理由のない娘は、その立場でさえはっきりと自分のものだと言えないままだ。

(それを知られることが……一番怖い)

 空虚に怯える自分を、心の中で渦巻く汚いものを、悟られてしまうことが恐ろしい。それゆえにソニアは口を閉ざす。笑え、笑え、と強く自らに言い聞かせて。

 無言になったソニアをうかがっていたラクスが、不意に片手をかざした。何度か彼の顔の前で前後させたあと、ある一点でぴたりと止める。見えない壁に触れるようにして動かなくなったてのひらを凝視し、彼は言った。

「ここまでしか見えない。僕の世界は、ここまでだ」

 まばたきひとつぶんの間があって、それから、少しばかり手を押し出す。

「そこから先はなにも見えない。明るさを感じ分けるのが限度だ。話している相手がどこにいるのかも、どんな顔をしているのかも、わからない」

 部屋の明暗はわかっても、星々のきらめきは目に入らない。すぐ近くの羊皮紙の文章は読みとれても、他人の姿すら見分けられない。彼が日々を過ごしていけるのは、ひとえにその耳があるからだ。声を聞き分けて人を識別し、足音の反響によって位置を確認する。

 ならば彼は、その狭い世界に、誰かの笑顔を映したことはあるのか。

「助けを呼ばれなければ。音がなければ。きみの声が聞こえなければ、僕にはなにもできない。どこにいるのかも。なにを恐れているのかも、気付かない。……だから」

 呼んでくれ。そう縋るように乞うた声はかすれて、いつまでも耳に残った。

 体を揺らし、導かれるようにして足を動かす。不思議そうにソニアの顔を仰いだラクスの白いてのひらを両手で包みこんだ。びくりと震えたそれを、より強く握りしめる。見れば自分の手は彼のものよりも浅黒く、擦りきれた傷跡はかさついたままで残っていた。

「……こうしたら」

 ソニアは視線の交わらない彼の目を、それでもしかと見つめて言葉を紡いだ。

「世界は繋がりますか。あなたは、ひとりではなくなりますか」

 言葉にして、ああ自分もそうなのかと思う。すとんと理解のいった答えは、きっと生まれてから長く求めてきたものだ。隣にあるなにかを、誰かを、そこにあると信じられるものを欲していた。ひとりでいるのがさびしかった。

 ラクスの瞳に、ひとりの少女が映りこんでいる。人並み外れた美しさも、貴族の備える気品も、決して持ちえない少女が。たとえその姿が淡い空色のなかに溶けこんでいようと、彼女を見ることができるのは彼女自身しかいないのだ。

「黒い髪をしています。肩に届くほどの長さはなくて、少しだけ、青が混じっています。目も同じ色をしています。あと、肌はあなたより日に焼けていて、手にはいくつもあかぎれがあります。修道服は同じものを着ているけど、葡萄の染みと土の汚れがたくさんあって」

 困惑するラクスを前に、立て続けに言葉を重ねる。

 知ってほしいと思った。彼と言葉を交わす少女のことを。誓う少女の姿を。

「背は低くて、痩せています。それでも最近は食事を食べることができるので、少しずつ成長しているみたいです。エリーゼのように美人ではないけれど……あ、エリーゼの髪は灰の色をしていて」

「もういい」

「でも、まだ」

「もういい。……じゅうぶんだ」

 笑声が混じる。ラクスは表情を和らげて、口もとがわずかに緩んでいた。ついぞ見ることのなかったそれにどきりとして身を引きかけたソニアだが、その手はいつの間にか、縫いとめられるように握られていた。不格好な握手のかたちに戸惑う。

「僕はきみに、頼って欲しいと言ったつもりだけどな。聞いていなかったのか」

「い、いえ! お話はもちろん。でも今回のことは、わたしがひとりでどうにかしなくちゃいけないことなんです。なかったことにしてもらえませんか」

「どうにもならないことがあるだろう」

「それでもです。もう、ご迷惑はかけないようにしますから」

「……聞いていなかったな」

 ため息をひとつこぼして、ラクスは握った手に力を込めた。

「迷惑か。困らせるか。そういうことじゃない。それとも力になりたいと言わないと伝わらないか? きみを黙らせるのが僕への遠慮なら、必要ないと言っているんだ」

 ラクスに任せてしまえば、おそらく、イレーネとの関係はもっと簡単に解決する。花泥棒を見つけだした時のようにアーシャの力を用いて、容易にソニアに仇なすものを取り払うことができるのだろう。あたかも道端の雑草を引き抜くように、ソニアが傷つくこともなく。それができてしまうのがアーシャの花嫁という肩書きだ。

 それを、ソニアは望まない。

「もう一度だけ、頑張らせてください。遠慮なんかじゃなくて、これはわたしのわがままです」

 やっとイレーネの言葉が聞けた。心のうちが見え始めた。嫌われているからといって排除するなどという手段はとりたくない。それでは子どもの喧嘩に親を引っ張ってくるようなものだ。断固とした声になにを思ったか、強情だなとラクスはつぶやいて肩をすくめた。

「わかった、きみに任せる。ただ、もう一度こんなことがあったら、そのときは」

「あ、ありがとうございます!」

 遮って礼を告げると、ラクスは苦笑した。依然繋がれたままの手をかかげてみせる。

「きみの目には、綺麗な世界が映っているのか。疑いも恐れも知らない世界が?」

 ソニアはきょとんとして、考えてから、かぶりをふった。

「まっくらでした。なにも見えないくらいに。世界を与えてくれたのは、この教会だったから。わたしは、ここだけは信じていたいです」

 いくら裏切られても。貶されても。嘲笑われても。そんな痛みは、今までだって味わってきた。乞食めとつばを吐きかける町人、汚らしいと鼻をおさえて距離を置く貴婦人、通りすがる者たちの、目、目、目。憐憫や嫌悪、忌避に耐えるだけの日々のなかですら痛覚が麻痺することはなかったけれど、慣れだけはその身に積み重なっていった。

 拾われて、呼吸をすることを知った。他のものに手を伸ばすことを。背筋を伸ばして立つことを。与えられ、教えられて、やっと人になれた。生きる権利を与えられた。きらきら光る宝石のようで、あたたかな太陽のようなそれを抱きしめた。返せるものはなにもない、だからせめて信じようと思った。

「かけがえのないものばかりです。捨てられないものがたくさんあります。綺麗じゃなくても、わたしは、この世界がすきです」

 ミセラになれなくとも。花嫁になれなくとも。

 人のこころを信じることなら、ソニアにもできる。




 明くる日、昼前に教会に帰ってきた神殿騎士たちをアーシャの花嫁が迎え入れるのを、数多くのナヴィアの神官たちが目にすることになった。厩番に栗毛の馬を預けた女騎士は絶句したが、花嫁は彼女に小声でなにごとか伝えた末に深く頭を下げる。

「ごめんなさい、エリーゼ」

 女騎士はその肩をやわらかく叩き、ため息ののちに答えたという。

「……あなたのお心が、少しでも軽くなるのなら」

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