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アーシャラフトの花嫁  作者:
嫉妬と後悔
15/69

 昼食のあとには大聖堂への礼拝が続く。食事を終えた彼が席を立ったのに慌てて付き添うと、周囲の視線を痛いほどに感じた。今までにラクスと行動を共にしたことがなかったのだから当然だが、その状態は花嫁になる身としては異常であったのだろう。やっとの心変わりかと思われても仕方ない。

 訝しげな目は背ではじけて、ぱちりと音を立てるようだ。金属の手すりに触れたときにふと走る痛みのよう。それには実感がない代わりに、体の奥のほうを揺らしていく。

「ここでお待ちしています」

「ああ」

 納得と承諾をこめて、ラクスがうなずいた。

 大聖堂に続く扉を意識したのはこれで二度目だった。正式な花嫁でないのだから渡り廊下に出ることもはばかられる。その立場を分かっているのか、大した反対は受けなかった。

 持ちだしていた本をひらき、残った文章に目を走らせる。繰り返される説明を読み飛ばすことを覚えてしまえばいくらか速度も速まるもので、長い礼拝を終えたラクスが戻ってくるころには数行を残すのみとなっていた。木製の扉を閉じた彼に声をかける。

「本を返してきます。すぐに部屋に戻りますので」

「護衛は」

「いいえ、行って帰ってくるだけですから。平気です」

 ふたりに付いているのはエリーゼの用意した騎士の青年がひとりだけだ。ソニアに彼を付き添わせれば、ラクスの帰路を彼ひとりにしてしまう。そちらのほうが問題だ。

 いってきます、と一言。返事はなかったが、ソニアの歩みは軽かった。




 ナヴィア宮殿のつくりも頭に入ってきて、迷わずに歩を進められるようになった。アーシャや総大司教の部屋から応接室、書庫、ふたつの庭。散り散りに存在する部屋たちも、重要なものであれば道順を思い浮かべることができる。毎日のように通っている書庫ならば慣れたものだ。いつもに比べ軽い腕のなかの荷物を宝物のように抱えて、書庫の扉までたどり着き、開け放つ。

 普段は誰もいない書棚の中に人の気配があった。入口で立ち止まって見つめていると、扉の音に気付いてか彼女がふり返る。美しい形の眉をわずかに寄せられた。

「イレーネ」

 名前を呼ぶ。すぐに彼女の眉間のしわが濃くなった。

「なぜ私の名を?」

「あ……ごめんなさい。ビアンカからあなたの話を聞いたから。お勉強?」

 彼女が開いていた本を指して言うと、イレーネはすぐに表紙を閉じた。ソニアがびくりとする。

「邪魔をするつもりはないの! 勉強なら、続けていても」

「ただの読書です」

「でも、それはお薬の本じゃないかな」

 間違っても暇つぶしに読むような本ではない。ソニアが手にしているものの二倍半はあろうかという厚さを誇り、表紙には金糸で難解な題が刺繍されている。書庫に足を踏み入れていくと、イレーネはその本を胸元に抱えあげた。ぎこちない口調でつぶやく。

「昔は、医者を目指していたので。そのときの習慣です」

「お医者さんに? それじゃあ、どうして修道女に」

 その問いは、触れてはならない部分に触れたらしかった。彼女の本を抱く手に力がこもる。

「お金がなかったからですよ」

 その声は、冬の空気よりいっそう強くソニアの胸を叩いた。冷えきった瞳が追い打ちをかける。

 慣れ始めていることを自覚された。忘れてはいけないはずだった。貧しさとその弊害、できなかった多くのことを。自分はかつて確かに貧民として生きていて、世界には夢見ることすらかなわないものばかりだったはずなのに。

 イレーネの目は逸れない。張りつめた弦の鋭さと、ねらい澄ました矢の正確さでソニアを射る。

「ビアンカからお聞きになったのでは? 私の家はあの子たちのように裕福ではありませんから。医者になるための勉強費が家にはなくて、ここに来たんです」

 あなたとは違う、という言葉が、のみ込まれたのがありありと分かった。

 吐き出してしまえたら、どんなに楽だろうと考える。自分もここに立つべき人間ではないと、裕福な時代なんて過ごしてはこなかったと。ミセラと言う名は、自分の名ではないのだと。けれどそれが許されるはずもなかった。いまのソニアはミセラで、やがてはアーシャの花嫁となる身だ。ぼろを出すようなことがあってはならない。

 イレーネは本を抱え込んだ腕をゆるめる。わずかに口調がやわらかくなった。

「宮殿の本には、町に出ればおよそ手の出ないようなものもたくさんあります。医者になることがかなわなくても、知識を得ることだけならできますから」

「……ごめんなさい。考えなしだった」

「謝らないでください。事実を申し上げただけです」

 吐き捨てるように言われ、顔が離される。

 ナヴィア宮殿に入るということは、自らの生涯を神にささげるということだ。洗礼を受ければ他の道を絶たれる。職業、結婚、懐妊、その自由を失う代わりに、生活だけが保障されるようになる。イレーネが努力の末に得たこの場所でも、彼女の夢がかなうことはないのだ。

 書棚に本をしまいこんだイレーネが机を離れる。すれ違おうとしたとき、ソニアははっとして彼女を呼び止めた。まだなにか、と言いたげなきつい視線を返される。

「あの、イレーネ」

「……何です?」

「わたし、本当になにも知らなくて。お祈りの仕方から、食事のマナーまで、なにも。だから笑われてしまうと思うんだけど。よければ、イレーネに教えてもらえたらって思うんだけど」

 はあ、と。イレーネが怪訝そうに声を上げた。ソニアは早口で付け加える。

「あ、笑われたくないからってことじゃないの! そうじゃなくて……お友だちになれたらって」

 イレーネの目が細められる。言い方は間違っていなかったかと不安になった。同じ年頃の子どもと遊んだ記憶もないから、どうやって友人というものができるのかもよくわからない。ソニアは徐々に眉を下げるが、対してイレーネは柳眉をつり上げる。

「はじめてお食事をなさったときのこと。憶えておられないんですか」

「マナーがなっていなかったのはわたしのほうだし、グラスを落としてしまうことなんて誰にでもあるから。もういいの、それは」

 何故馬鹿にされなければいけないかと問うには時間が経ちすぎた。ひとりとひとりとして向かい合うには、友だちになりたいと思うには、すべて流してしまわねば苦しくなる。ならば偶然に変えてしまえばいい。悪いできごとがたまたま重なっただけだと。

 イレーネが深く息をつく。それから、いやに優しい表情をしてみせた。

「……ええ、私でよければいくらでも。花嫁様」

 そのまま早足で書庫を出ていこうとする。

 違和感を覚えた。言っていることの認識がずれているような。言葉をかける相手を間違えてしまったような。それもみな、最後に取り付けられた花嫁の名前のせいかもしれない。彼女にそれを呼ばれたのは初めてのことで、妙な響きがあった。

 過ぎゆくイレーネの背を追い、待ってと声をかけようとした眼前で扉を閉められた。なにかが破裂したような大音量に驚く暇もない。

 がちゃり、と。続いて耳に入った金属音に戦慄した。

 扉を押しても木の板が軋むばかりで、ほんの少しのすき間もひらいてはくれない。力を込めても結果は同じだ。扉を叩き、イレーネの名を呼ぶ。廊下を離れていく足音は聞こえてこないから、そこにはまだ彼女が立っているはずだ。

 ――うぬぼれないで。

 扉越しにすり抜けた声に背筋が凍る。凍りついた水と同じ冷たさ、透きとおってしまいそうなかすれを宿した声。しかしそこにはふつふつと煮えたぎる怒りが含まれている。緊張を感じてソニアは一歩後ずさった。

 おそろしい。なによりも、それが、自分に向けられていることが。

「私。あなたが、大嫌いです」

「なん……で、イレーネ、」

「最初からしあわせで、手を伸ばさなくてもなんでも与えられて。不自由したことなんて一度もないでしょう。それが、私と、友達? ……ふざけないで。そうやって情けをかけているつもりですか」

 言葉を連ねるイレーネは、決してその顔を見せようとしない。違うと伝えたくとも、口を挟むだけの余裕を許してはくれない。目の前から与えられない非難がなによりのどを絞めつけていくことを、扉の向こうに立つ彼女は知っているだろうか。

「それとも、あなたにとっての“おともだち”は、なんでも言うことを聞く召使いですか? 命令してみればいいでしょう、扉を開けて、と。アーシャの花嫁になるあなたの言葉なら、私も聞くかもしれませんよ」

「イレーネ!」

 ひときわ大きく名を呼ぶと、彼女はそれまでの剣幕が嘘だったかのように押し黙る。こつん、と、扉に振動があった。

「……どうして、あなたみたいな人が。あの方の花嫁になるの」

 か細い声だった。今にも消えていきそうなそれにびくりとして、ソニアはかけようとした声をのみこむ。

「花嫁さま。だいきらいです。このまま飢えて、干からびて、死んでしまえばいいのに」

 楔を打って、今度こそ足音が離れていく。残されたソニアを苛むように。



     *



 姑息な手を使ったという自覚はあった。

 どう言われれば彼女が傷つき、なにも言えなくなるか。簡単だ。富めるあの人には、貧しい自分を引き合いに出してしまえばいい。望んでも得ることのない自分を。反撃の余地もないほどに恨み言を重ねればいい。それを理解したうえで、さながら獲物を狙う猛禽のごとくに噛みついた。案の定彼女は息を飲み、震える声でイレーネの名を呼ぶのみだった。

 優しいひとだ。そして弱いひとだ。どうにもならないことに、当然のことに、心を痛める必要はないのに。

 だからこそ反感を持ったのだろうとイレーネは思う。申し分のない令嬢であったなら。もしくは、堕落した醜い豚であったなら。そうすればイレーネは、それらを運命と時分のせいにできたのだ。だがここにやってきたのは、敬うには至らないことだらけで、嘲るには懸命な、普通の少女であったから。嫉妬を煽るには十分だった。

(嫉妬? ……はっ、嫉妬ね)

 悔しい。なぜあの人がと思わずにいられない。生まれるはずのなかった妬みが首をもたげて、イレーネは彼女のなかにあるすべてをもって不安定な少女を否定したのだ。

 かつんかつんと床を鳴らす足音がふたつになる。入れ違いになりかけたのは同僚の少女だ。赤いおさげと小さく丸い顔が特徴的な彼女はくるりとふり返って、明るい声でイレーネの名を呼ばう。

「イレーネ! またお勉強をしてたの? おつかれさま」

「ええ。……そうだわ、ビアンカ。あなた、花嫁様に私の名前を出したでしょう」

「えっ、い、いけなかったかな」

 おさげの先を握って急にもじもじとし始める。別にとだけ返して通り過ぎようとしたイレーネに、ビアンカはあっと声をあげて問いかけた。

「ねえ、書庫で花嫁さまに会ったの?」

「会ってないわ」

 返事は早かった。目をぱちくりさせたビアンカの表情を見て、失敗したとほぞを噛む。ひとを疑うことのない彼女であればそのまま受け取るだろうけれど。どうやら自分は、思いのほか気が立っているらしい。

「花嫁さまもね、毎日書庫で勉強してるんだよ」

「そう」

「イレーネとなら気が合うかもしれないね」

「さあ、わからないわ」

 そっけない物言いで顔をそむける。会話をつづける気力はとうになかった。離れようという意思を見せると、イレーネの苛立ちを見抜いたのかビアンカは簡単に引き下がった。もの覚えの悪い彼女がそういうところにだけ敏いことをイレーネは知っている。

 ビアンカに背を向けてまっすぐに向かうのは、小ぢんまりとした自室だ。今日は夕食どきになるまで勤務当番が回ってこない。勉強に集中すればこの一件も頭から追いやれるだろうと考えを浮かべて、すぐに、書庫から本を持ちだすのを忘れていたことに気がついた。読み終えたものを返すだけで出てきてしまったのだ。

(……災難だわ)

 真に災難なのは、薄暗い書庫に閉じ込められた彼女のほうかもしれないけれど。

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