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アーシャラフトの花嫁  作者:
嫉妬と後悔
14/69

 扉の横で待機していた青年に頭を下げる。他の神殿騎士と同様に白い鞘を下げた彼が、やはり会釈をしてソニアに道を譲った。

 ノックは四度。指の節で、大きな音をたてないように。エリーゼのものをまねて木の扉を叩くが返事はない。無視されたのかもしれないと不安になってとなりの青年をあおげば、軽く肩をすくめたあとにそっぽを向かれてしまった。

「あの、ラクス。いらっしゃいますか」

 呼びかける。が、依然として言葉は返ってこない。

 躊躇したあとにドアノブをひねれば、簡単に扉はひらいた。失礼しますとひとつ声をかけて、半歩ぶんだけ足を踏み入れる。

 壁際にずらりと並んだ本棚と、中心に置かれた石造りの机。ソニアのものより広いとはいえ、部屋のなかは整然として簡素だ。目の不自由な彼が足を取られないためだと考えればすぐに納得がいった。壁と一枚の扉を挟んでとなりにも部屋があるようだが、この一室に寝台がないことを鑑みるに、そちらは寝室につながっているのだろう。

 ひとつだけ取り付けられた窓の横には文机がある。その前に座り、ラクスは険しい目で、羊皮紙をにらみつけるようにしていた。触れるのではないかというほどに紙を顔に近づけて文字を読み取ろうとしている。

「ラクス」

「もう少しで終わる」

 黙っていろということらしい。ソニアはちらちらと部屋を見回したあと、もう半歩を踏み出してから扉を閉めた。それに続くように紙のこすれる音があって、ラクスがぐるりとふり向く。

「頼むことはなにもない。部屋に戻っていい」

「そういうわけにはいきません。お傍にいるようにと言われているので」

「エリーゼのあるじは僕だ。どちらに従うべきかぐらいはわかるだろう、戻れ」

「……ほかに誰もいませんから。お嫌でも、我慢していただけませんか」

 ほとんど自嘲じみた返答をするとラクスの口の端がわなついた。そういうことが言いたいわけじゃない、と顔をそらして、また机に向き合ってしまう。何ごとか書きつけるようなペンの音と胃のきりきりするような沈黙があって、彼はぼそりと付け足した。

「そこの本棚。入っているのは全て歴史書だ。読めるなら好きに読めばいい」

 厚い皮張りの本が陳列する棚に目をやり、もう一度ラクスに視線を戻す。彼はこれ以上なにも言うまいとするように羊皮紙に集中し、文字を追おうと背を丸めていた。声のかけづらい沈黙はいつもの通りだけれど、どうやら部屋にいることは許されたらしいとソニアは息をつく。ここで追い返されてしまってはエリーゼに顔向けができない。

 ふらふらと本棚に寄れば、確かにそこに並んでいるのは歴史書であるようだった。数百年ごとに分類されたひとそろいの年表から町の移り変わりや周辺環境の変化に焦点をあてた近代史まで、同じ歴史をつづった本とはいっても内容は多岐にわたる。

 重厚感のある本の列から薄めの本を見繕って引きぬいた。表紙を含めてもそれほどの厚さはない。文字を習得し始めた身であっても、読み終えるのに一日は要しないだろう。

 壁ぎわに腰をおろして、ひざにもたげた本の表紙をめくる。大きな文字と広い行間からゆっくりと意味を読み取りながら、この文章もかつてのラクスが目を通したものなのだろうと頭のすみで思う。生まれながらに目を患っているのでは、文字を習うのも一苦労だったはずだ。

(わたしは、恵まれているんだ)

 体のどこにも不調はない。ものを学ぶ環境に困ることもない。アーシャラフトの住人たちとどちらが豊かな生活を送っているかなど比べるまでもないことだ。聖職者でない者は、勉学に励むためにも相応の対価を必要とするのだから。

 融けていきそうだ。体のはしから、安寧に紛れて。

 ページを送る手がじわりと温かみを帯びて、かじかんだ指先のしびれが落ち着いていく。昼食までにはまだ時間がありそうだ。紙のこすれあう音が耳の奥をくすぐって、いつしかソニアはのめりこむようにページをめくっていた。




 日のあたる部屋にぬくもりが満ちていく。陽気に誘われて顔を上げれば、少しばかり高い位置にある窓のはしから太陽が消えようとしていた。それが天高くまで昇りきれば、この部屋にもすぐに昼食の報せが入ってくるだろう。読みかけの本を閉じて、あまり音をたてないようにと立ちあがった。

 ラクスはと横を見る。もともと猫背ぎみになっていた彼の体は、今や完全に曲がりきっていた。先ほどまでは小気味のいいリズムを刻んでいたペンの音も消え、羊皮紙をかかげている様子もない。足音をおさえて近付けば、彼の背が規則正しく上下しているのに気付く。

(……もしかして)

 文机に寄って、横からそろりとのぞきこんだ。両腕に顔をうずめてかすかに寝息を立てている。

 あまり眠れていないのかもしれない。彼を起こそうとした口は自然と閉じていった。その身分に加えてミセラの失踪、さらに間近に迫ってきた婚儀。睡眠を妨げる要因ならば、本人でないソニアですらいくらでも思いつく。

 もう少しぐらいは寝かせておいてもかまわないだろうとうなずいて、ソニアは机の横に腰を下ろした。音に敏感な彼も眠っているときは神経をとがらせていないようで、その場でページを繰っても寝息は乱れなかった。

 苦戦しつつも半分ほどまで読み終えたその本には、数代前までのアーシャについての記録が為されていた。父親から息子へ、子の産まれぬ者から従兄弟へ。ところどころで直系から外れつつも彼らの位だけは脈々と受け継がれていく。アーシャラフトの建国から八百と三十年、数十代にわたるアーシャたちは、時に他国からの侵略を受けつつもこの地を守り抜いてきた。最たるところまでさかのぼれば、その血は確かに聖アーシャにまでたどり着くのだ。

 ならば女神の信者を欺いた花嫁が、いつの時代にいただろう。選ばれた、望まれた花嫁とはどんな関わりも持たないただの貧民が、素知らぬふりでこの場所にいたことが。

 ソニアは膝を抱きよせた。本を傷めないようにゆるく、ラクスを起こさないように静かに。ひとりになると、頭は望まない不安を抱えこんでしまう。他になかったとはいえ、自分で選びとった道なのだから、疑いなど抱くべきではない。エリーゼが言ったように、ここにいてもいいのだと信じこまなければ。そう思うのに。

 ごそり、と、頭上から物音がした。腕をゆるめて見あげると、ラクスが体を起こすところだった。彼はしばらくぼんやりと首をかしげていたけれど、ソニアが本を閉じた瞬間に肩を震わせた。

「寝ていたのか、僕は」

「はい。ぐっすりと」

「きみはいつからそこにいる?」

「……ええと。ラクスが、眠っているあいだに」

 ぱちぱちと目をしばたかせて、彼は呆然とソニアのほうに顔を向けている。近くに寄ったことを咎められるかとひそかに怯えていたけれど、どうやら他に驚くことがあったらしい。決して交わらない視線をさきにそらしたのはラクスのほうで、そうか、とつぶやいたきり黙りこんだ。

「どうかしましたか?」

「いや、なにもない。……本は読み終わったのか」

 彼にとっては、ひととき心をよぎったものを隠すための問いだったのだろう。声色をうかがう限りはそう興味があるようには思えないが、その問いにソニアは虚を突かれた。

 友人との会話、というには、あまりにそっけないけれど。

「あ……いえ、まだです。半分ぐらい」

「読めるか。題は」

 矢継ぎ早に出される質問で頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。取り落としそうになりながら本の表紙を自分の眼前に向けて、間違わないようにと答えを返す。

「『アーシャラフトの血』。アーシャになった人たちの人物録です」

「随分と薄いものを……。朝から読んで、まだ終わらないのか」

「わからないところが多くて」

 文字に限ったことではない。アーシャラフトのひとびとならば常識として知っているであろう知識が、ソニアには決定的に欠けていた。そのためのエリーゼとの学習だったとはいえ、ひと月も経たない今ではまだ足りない知識が多い。

「一番上ではない子どもが位を継いでいることがあるんです。先代に子どもがいるのに、違う家系に位が移っていることも何度も」

 もっとも不可思議だったのはそこだ。おずおずと口に出せば、ラクスは細く息を吐いた。そらんじるようにつぶやく。

「アーシャの血は直系だけでは繋がらない。子を為す前に死んだ者、正式に花嫁を迎えることのできなかった者、理由は多々あるだろう。アーシャが世襲制である以上、その座を狙って血族から命を狙われることもある。相続も長子に限ったことじゃない。気になったのはそこか」

 読み終えた部分に、同じ内容が記されていたことを思い出す。黙ってうなずいたのは目に映っていないだろうが、ラクスは間をおいて続けた。

「アーシャの血を継ぐすべての人間の目が盲いわけじゃない。この耳も同じだ、むしろ少ないほうだろうな。普通の人間として生まれる血族も当然いるし、彼らが位に就いたこともあった。だが、盲目と天の耳を持って生まれた者は、たとえ遠い縁であっても次代のアーシャに選ばれる。僕もそうだった」

「それじゃあ、ご兄妹がいたんですか」

 そんな話が聞いたことはない。案の定、いや、とラクスは否定した。

「先代のアーシャは僕の大おじにあたる。先代には健常な息子がいて、本来ならそちらがアーシャの位を継ぐはずだった」

「そこに……ラクスが」

「ああ。物心ついたころ、継承権は一転して僕に移った」

 目が見えないこと、耳がよく利くということが、すなわち女神からの授かり物だ。

 常人では身につけることのできないものを持って生まれた者がアーシャの位を継げば、信徒の信心も増すことだろう。そこに過去のアーシャと同じだけの能力は必要ない。盲目と天の耳さえあれば、信仰する対象とおくには十分だ。

 たとえ彼自身が望まなくとも、周囲に祭り上げられれば象徴となるのがアーシャの務めだ。

 昼食の時間を知らせる鐘が鳴る。宮殿どころか町中にまで響き渡るだろう荘厳な音が、窓を閉めた部屋にも伝わってきた。それに続いた翼が風を叩く音は、轟音に驚いた鳥たちが一斉に羽ばたいたためか。ラクスはしばし外に耳をすませるそぶりを見せ、おもむろに机から体を離す。

「その本は書庫から借りてきたものだ。僕はもう読まない。きみが読み終えたら、返してきて欲しい」

「はい」

 素直に放たれ、素直に受け取った頼みごと。あとからそれに思い至って、ソニアははやる胸をおさえた。

 ラクスの負担を減らすためにと部屋の扉をひらく。彼が先を行くのを追おうとして足を止めた。身じろぎをする気配にうしろを振り向けば、壁際に立つ神殿騎士の青年が、ばつの悪そうな顔でラクスの背を見つめている。

「……あの、騎士さん。ラクスを」

「私は貴女様をお守りするようにとも言われていますので。アーシャと共にいらしてください」

 誰にと問う必要もない。エリーゼの指示だと確信が持てる。

(あとで謝らなくちゃ)

 行きすぎた卑下で、ひとに気を遣わせた。それではいけないのだから。

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