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アーシャラフトの花嫁  作者:
雪色の花
10/69

 お持ちしましょうか、と声をかけられた。

 両手いっぱいに本を抱えて書庫へ続く廊下を歩いていたときだ。夕食を終えたあと、自室に戻っていく神官たちのあいだを抜けて歩いていると、ソニアの横に年頃の近い少女が並んだ。

「本。おひとりでは重いんじゃありませんか?」

 赤毛を二本の三つ編みにして、肩の前へ垂らしている。きらきら光った大きな目からは活発そうな印象を受けた。長いまつげに彩られたそれでぱちりとまばたきをして、立ち止まったソニアに両手を差し出している。

「でも、あなたにも重そうだし」

「だいじょうぶですよ! これでも給仕ですから、力はあるんです」

 ひじを曲げてみせた彼女の腕には小さく力こぶができている。

 ナヴィア宮殿に勤める給仕の女性たちもまた修道女で構成されている。食事風景を思い出し、揺れる三つ編みがちらちら視界に入っていたことをソニアは思い出した。広間を駆けまわって年上の修道女に怒られていたようだけれど。

 ううんと迷って、半分だけ手を貸してもらうことにする。危なげもなく本の山から半分とちょっとを取り上げた彼女がくるりと回ってみせた。

「いつかお話したいと思ってたんです! 食事のあとはすぐにどこかへ行ってしまうから、近づくこともできなくて」

「書庫で勉強をしていたの。知らないことがたくさんあるから」

「へえ、偉いんですねえ……って」

 はっとして眉根を下げる。

「ごめんなさい! 花嫁さまに、わたし、偉そうに」

 さっきまで顔を輝かせていた彼女が一転、申し訳なさそうにもじもじとし始めたので、ソニアはくすりと笑ってしまう。

「いいの、わたしもそんなに偉くはないもの」

「そ、そんなことないですよ!」

 こぼれそうになった弱さに彼女は気付かなかったようだった。ぶんぶんと首を振って、花嫁さまなんですからと頬を赤らめる。それから、ソニアに遅れたぶんを取り戻そうと早足で先に立った。赤いおさげが大きく上下に揺れる。

(かわいいなあ)

 もし妹がいたらこんな感じだろうか。にやけてしまいそうな顔を押しとどめようとして失敗した。

 どうしても花嫁さまという呼び名には慣れず、胸のなかをなにかが浮かびあがっているようなおかしな感覚がある。それを気取らせないように問いかけた。

「あなたの名前は?」

「ビアンカといいます、ビアンカ・デュッケ。メリアンツのはしっこから来た田舎者です」

 勉強の合間にその国の名前をエリーゼから聞かされた。アーシャラフトと国境を接する大帝国メリアンツ。アーシャラフトが土着民族の建てた国であるなら、メリアンツは異民族が他民族を従えつつ作り上げた国であるという。

「でも、名字があるんでしょう? どこかの家のご令嬢とか……」

「名字のある人間が全員名のある家の生まれじゃないですよ。わたしはちょっとした領主の娘です」

「じゅうぶん大きな家じゃない!」

 本来ならば自分のほうがへりくだるような身分だ。思わず大声を出すと、ビアンカはかくりと首をかしげた。

「花嫁さまのほうが立派なお家じゃありませんか。ここにはわたしなんかよりもっと身分の高い方々はたくさんいますよ」えーと、と呟いて、「神殿騎士のエリーザベト様とレオンハルト様なんて、ファルツ家に次ぐ大家のお生まれでしょう?」と笑いかける。

 足を遅らせたのは、今度はソニアのほうだった。

「ちょ、ちょっと待って」

 きょとんとしたビアンカを止め、頭を整理する。いま、とても重要なことを言われなかったか。

 ファルツ家はアーシャラフトで最たる権威を持つ家系だ。当主であるファルツ公爵は、商人として、メリアンツらの隣国に限らず海を越えた東国とも貿易を交わしている。そうして得た財力をもって永く教会を支援し続けているのだから、アーシャラフトに住まう女性のうちからミセラが花嫁に選ばれたのも当然のことだった。

 婚儀によってファルツと教会との結びつきは強まり、彼らはより強固な地位を獲得することになるだろう。エリーゼはさらりと説明をして、勉強に手をつけ始めたころのソニアを混乱させたものだった。

 そのエリーゼ自身が、由緒ある家の生まれだと言うのか。

「チェルハ、だったよね。確か」

「はい。チェルハ家は武人の家で、代々メリアンツに名だたる武将を出しているお家ですよ」

「それじゃあ、どうしてアーシャラフトに?」

「さあ、そこまでは……ごめんなさい」

 ビアンカがくしゃりと顔をゆがめたので話題を切って首を振る。他にも疑問があった気がするけれど、彼女のことが先だ。気にしないでと言ってやるとまた笑顔を取り戻した。

(空みたい)

 くるくると回る表情は見ていて飽きない。それでも笑っていて欲しいと思った。

 しばらく無言で廊下を歩いているうちに、ビアンカは何かを思い出したようにふと顔をあげる。

「名字があってもふつうのお家の子なら、給仕にイレーネ・ハイゼっていう女の子がいますよ。彼女のことなら花嫁さまもご存じだと思います」

 名前には聞き覚えがない。迷ったあとに首をかしげて見せると、彼女は気まずそうに顔をそらした。

「あの、その、花嫁様がはじめて食事をなさったときに、お料理を運んだのがその子です。あと、葡萄の汁をこぼしてしまったのも」

 そこで合点がいった。はしたない、と小声で笑われたのを憶えている。反感を覚える間もなく色々なことが続いてしまったから、結局なにも言えずじまいだった相手だ。今となっては怒りよりもなぜだろうという気持ちが先に立ってしまう。

 イレーネ。名前を覚えておこうと心に決める。また顔を合わせたら、理由が聞きたい。

 ふたりの足が同時に止まって、顔を見合わせた。あ、と声をあげるところまでそろっていてほほ笑みあう。ビアンカが器用に片手で本を抱え直して扉を開けたので、ソニアは小走りで書庫の机に自分の荷物をおろしてから彼女の持つ本を受け取った。

「ありがとう、ビアンカ。助かったわ」

「わたしもお話しできてうれしかったです。……あの、イレーネのことなんですけど」

 なあにと続きをうながすと、彼女は胸元に手を当てる。

「嫌いにならないであげてください。いつもはとってもいい子なんです。怒られてばっかりのわたしにもよくしてくれて。お家は貧しいほうだけど、それでもたくさん努力して、ナヴィア宮殿に勤められるようになったすごい子なんです。わたしみたいに失敗してばかりじゃないんです、だから」

「……うん、わかってる。それにビアンカも、そんなに自分を責めちゃだめだよ」

 自分をけなしているのか、イレーネを褒めているのか。もうわからないほどに一生懸命にしゃべるビアンカにうなずいた。

 ナヴィア宮殿は位の高い神官たちの集う場所だ。信徒で構成される神殿騎士や給仕の者たちとてそれは同じはずで、貧しい人間が簡単に立ち入ることができるわけがない。そんな場所に凛と立つ彼女の思いまで踏みにじるつもりはなかった。

 貧しい家に育ったのは、ソニアも同じだ。

 けれどイレーネは、自らの手でこの居場所を勝ち取った。彼女自身は高貴な人間ではないにもかかわらず、逆に高い地位であるはずの花嫁が礼儀のないのを罵ったのだ。それが彼女の仕組んだことであるにせよ、一方的に嫌いになって、理由も尋ねずに距離を置くのはお門違いだろう。

「でも、一度真剣に話をしたいと思うの。それはいいよね?」

「は、はい! ありがとうございます!」

 ビアンカが勢いよく頭を下げる。ぶらりと垂れ下がった三つ編みが跳ねた。

 彼女の笑顔がまぶしくて目を細める。空ではなくて、太陽だ。爛漫に輝くおひさま。相手が誰であろうと心を溶かし、あたためていってしまう春の太陽。ついぞそれに触れることのなかった自分だからなおさらなのかもしれないと思う。

 さようならと手を振ったビアンカが廊下を飛ぶように駆けていく。途中で年配の修道女に見つかって叱られるところまで目に入ってしまった。ソニアは口に手をあてて笑い、さて自分はと書庫に向き合う。

 まだまだ学ぶことは多い。イレーネに負けてはいられないだろう。勉強不足などと笑われてしまっては恥だ。




 ぷかりと空に浮かんだ月を見あげてペンを置いた。中指の横には早くもペンだこができているようで、ざらつく肌をなでながら立ちあがる。

 誘われるように窓ぎわに寄って、目の前の窓を押しひらいた。霧のように流れこんだ夜風がソニアの黒い髪をさらい、首筋をなぞって抜けていく。外気に触れた手の先がひりついているけれど、ためらわずに窓枠に両ひじをかけた。建てつけられた格子越しに外を眺める。

 月がきれいだと思ったのはいつぶりだろう。まんまるに太った月がこうこうと輝き、普段は真っ暗に染められた地上が薄明かりに照らされる。

 はあと吐きだした息は白かった。教会に拾われる直前はこうも気温は低くなかったはずだ。その白が黒に融けて消えていくのを見送って、また天を見あげた。空気が冷えればそれにともなって空が透き通ることを知っている。

 体が冷えてはいけない、と窓をしめようとしたとき、無音に慣れた耳が人の声を感じた。

「……だぞ! ……かに……!」

「……こそ、静かにしろ!」

 小声であるくせにどなり散らしているような響きを持っている。夜なのだから神官たちが起きているはずがないのだけれど、耳にした声がラクスのものと違うことは明らかだった。

 不思議に思い音の方向の窓を開けて気付く。どうやら声が聞こえてくるのはアーシャの庭の方向かららしい。

「……根っこから……」

「分かってる、慎重に……」

 花だ、と言葉が下りてきた瞬間、跳ねるようにして駆け出した。

(あそこには、大切な花が)

 がむしゃらに駆ける。荒い息はみな白に染まって消えていった。たいまつに照らされた廊下の景色が背後へ流れ、身を切るような冷気が吹きつける。それでも速度を緩めることはしなかった。

 ――花を植えたんだ。

 つぶやいた彼の、あの表情を、悲しみで塗りつぶしたくはない。

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