嘘発見器、戦慄する
何か妙な音が聞こえる。一定の間隔で聞こえるその音は徐々に俺の意識を深い眠りから解き放っていく。
「ん……」
ゆっくりと瞼を開く。音のする方を向こうとするが身体が言うことをきかない。
「携だい……か?」
うまく動かない身体を引きずり音源へと向かう。すると突然重力に引っ張られ、抵抗する暇もなく盛大な音を響かせながら落ちる。
「…………いで」
大きな音がしたわりには痛みはそうでもなく、むしろいまの衝撃でようやく頭が動き始めた。
「ごごば……おれの部屋?」
はっきりしてきた視界に映ったのは見慣れた自分の部屋だった。どうやらベッドに寝かされていたらしい。過去形なのはさっきの音からもわかる通り、俺がベッドから落ちたからだが。
確か俺は洞窟で禍渦を壊そうとして……失敗したんだったな。それから洞窟から逃げた後……
気を失う前のことを何とか思い出そうとするが、そこまで記憶を整理したところで突如轟音が部屋の中に響いた。
突然の轟音に身体をビクッとさせたが、それがドアを思い切り開けて壁にぶつかった音だということ、そして部屋に突入してきた人物がイアだということがわかったので警戒を解く。
「頼人!? どうしたの!?」
イアが覗き込むようにして俺の様子をうかがう。
「おばよ、イア。ベッドから落ちただけだがら心ばいすんな」
「ベッドから落ちただけって……声ガラガラだよ!?」
「たぶん、昨日ぼのおを吸いごんじまっだからだろ」
「あ、そっか。じゃあ喉以外でどこかおかしなところはない? あれだけ無茶したんだから全身無事とは思えないだけど」
コードを使って俺をベッドに戻し、布団をかけながら尋ねてくる。
俺の現状を知ったらイアが大騒ぎしそうだったが、どうせ隠し通せないので白状しよう。
「あー、あどは身体がほどんど動がないだけ」
「う、動かないって、ぜ、全部!? 腕も!? 足も!? え! 首も!?」
案の定大騒ぎになった。
あー、やっぱ言わなきゃよかったかな? 目に見えて慌ててるもんな。
「よーし!」
突然冷静さを取り戻したイアは俺の布団を剥ぎとり、シャツの中に手を突っ込んできた! そしてそのままペタペタと肌を触ってくる!
「おまっ! ちょ! ゲホッ!! 何じでんだ!?」
抵抗しようとするがうまく身体が動かないのでどうすることもできない。
「え? 頼人の身体を治してあげようと思って」
「ぞ、ぞれと俺の身体をなでまわずことど何の関係がある!?」
「だって直接触らないとどういう状態なのかわかんないし」
さっきまでの慌てぶりはどこへやら。そう言って作業を淡々と続行するイア。
「んー。腱とか筋肉は無事みたい。ということは神経の方かな? あ、やっぱり神経がほとんどズタズタになってるよ? 無茶なことしたせいだね」
イアが何か言っているがその声はもはや俺には聞こえない。
俺はただただこの時間が早く終わることをひたすら願うのみである。
「良かった! これならなんとか治りそう!」
一分後、イアはそう言って、やっと俺から離れてくれた。
た、助かった。危うくまた気絶するところだったぞ……。
鏡を見ていないので本当のところはわからないが、俺の顔は茹でダコのようになっていることだろう。
「そ、そりゃ本どうに良かっだ。で、どうやっだら治るんだ」
「んふふふ」
怪しい笑いとともにイアがすっくと立ちあがる。
そして立ちあがると同時に腕に巻きついている二本、そして背中から六本、計八本全てのコードが現れた!
「……ずいません。ごれから何をなざるんでじょうか?」
もう嫌な予感しかしない。
現れたコードからは既に巨大な針がスタンバイしている。
「え? そんなのもちろん」
イアは目が眩むほどの笑顔を浮かべながら俺に死刑宣告を下す。
「修理」
そう言うや否や俺目がけて飛んでくる八本のコードたち。
満足に身体を動かすことのできない俺には当然避けられるはずもなく。
天原家に俺の断末魔が響き渡ることになった。
「もう! 悲鳴あげるなんて失礼しちゃうなー」
プンプンと可愛らしくご立腹のイア。
いや、だってコレすげー痛いんだぜ?
結局俺がイアに何をされたかというと単純に巨大な針をぶっ刺された。ただそれだけである。
「それは悪かったけど、ッ! この痛みは何とかならないのか?」
いつものように完全に同調するのではなく、いまは同調一歩手前の状態で放置されているのでいつもは一瞬で終わるはずの針の痛みが延々と続いているのである。
「それに繋がって治るならいっそ同調した方が良いだろうに」
イアが言うには致命傷でなければ、こうしているだけで徐々に回復するそうだ。そのおかげで酷い火傷ではなかった喉ももう普通に喋れるまで回復している。もっとも身体はまだうまく動かせないが。
「ダ―メ。いま同調なんかしたらその瞬間に死んじゃうよ? 頼人が思ってるより同調が身体にかける負担はずっと大きいんだからね? せめて自力で動けるようになるまで待たないと」
「じゃあ、当分このままなのか?」
「うーん、頼人と繋いで二時間ぐらい経ってるから動けるようになるまであと一時間ってとこかな? 腕と足はある程度動かせるようになってきたでしょ?」
確かに首を動かして周りの様子を見渡せるようになったし、腕も天井に向けてあげられるようになってきていた。
「あと一時間もしたら私は完全に頼人の中に入れるようになるんだし、我慢、我慢! そうしたらこの痛みだってなくなるんだから、ね?」
何だか立場が逆転している気がする。アレ? 子ども扱いされてない、俺?
「それはそうかもしれないけど……。ん? ちょっと待て。そもそも俺が気絶してる間に治しておいてくれれば俺はいま苦しまなくてもよかったんじゃないか?」
イアは首を左右に振りながら俺の疑問に答える。
「それができれば良かったんだけどね。気絶してる相手には同調して傷を治すことはできないの」
「……ってことはつまり、俺相当危なかったってことか?」
「そうだよ! 今回は運良く昏睡だけで済んだから良かったけど……、だからあのとき力を使っちゃダメって言ったの!」
「そ、そりゃ悪かった……。で、だ。ずっと気になってたんだが俺が倒れた後どうやってここまで帰ってきたんだ?」
「え? 別に普通に帰ってきたけど?」
そんなことを聞かれると思っていなかったというような、キョトンとした顔でイアが答える。
「あの後、私は頼人の身体から強制的に排出されちゃって。さっきも言ったけど頼人が気絶してるから傷の手当てもできないでしょ? だからとりあえずあそこから離れて頼人の家まで帰ってきたの」
「いや、普通にって、俺結構重いぞ? 引き摺って帰ったのか?」
「まさかー。確かに重かったから腕で担ぐことはできなかったけど、私にはこれがあるから」
そう言いながら俺の身体に刺さっているコードを指さす。
「頼人をぐるぐる巻きにして宙に浮かせて帰ってきたの」
「………………………………………………………………そう」
「どうしたの?」
「いや、俺は想像以上に恥ずかしい帰宅をしたんだなと思って……」
ダイナミックすぎる。
ご近所さんに見られてないだろうか? 夜も遅かっただろうし大丈夫だったと思いたい。
「あ、そう言えば、家に入る前に隣の榎本さんの奥さんがお饅頭くれたから後でお礼言っておいた方がいいよ」
「ああ! 思いっきり見られてる!? それで!? 何か言われなかったか!?」
タイミングが悪いよ! 榎本さんの奥さん!
あ、でも、お饅頭はありがとうございます!
「んー、別に何も言われなかったかな? 『後で食べてね』って言われたぐらい。あ、でもその後に『頼人君は後であなたも食べちゃうのかしら、ウフフフフ』って言ってたけどそれってどういう意味なの? 私よくわからなかったんだけど」
奥さぁぁぁああん!! アンタ初めて会った女の子に何自慢の下ネタ披露してんの!?
「イア、あの人はよく変なことを言うんだ。だからイアもいちいち気にしないで良いから」
いっそ無視してやってくれ。あの人にとってはそれも御褒美だろう。
「ふーん、そうなんだ。変な人なんだねー」
イアがとりあえず納得したのを見てほっとしたのか不意に俺の腹が鳴った。
「ふふ、昨日とは逆だね。十四時間ぐらい気絶してたからお腹が減るのは当たり前だけど」
そうか、十四時間も俺は寝てたのか。そりゃ腹も減るはずだ。
……うん?
「イア、何をいまさらと思うかもしれないが聞いても良い?」
「? うん、別に良いけど」
「いま一体何時だ?」
「えーっと、ちょっと待ってね」
イアが勉強机の上に置いてあるデジタル時計を手に取る。
そして
「ちょうどお昼の十二時」
と告げた。
「これで良いの?」
イアが不思議そうな顔で尋ねてくる。
「ああ、良くはないけどそれで良いよ……」
昨日は月曜日。そして今日は火曜日、どちらも平日である。平日にあるものといえば何か?
答えは簡単、学校だ。
わーお。
もちろんこれまで俺も学校を休んでしまったことぐらいはある。しかし、そのときはちゃんと電話で学校に事情を説明していた。そうすれば大抵注意を受けることはない。
だが今日はどうだ? 完全にブッチしてしまっている!
俺からしてみればこれは非常にマズイ。
俺が両親が死んだ後も一人暮らしをしていられるのは品行方正な生活を行うことができると判断されたからである。もし今回の件が非行と判断されたら後見人である親戚の家に引き取られかねない。
俺はこの暮らしが気に入っているし、いまさら親戚と一緒に住むなんて考えられない。何よりいまはイアがいる。一人暮らしが禁止されてしまったらイアはあの井戸に戻るしか選択肢がなくなってしまう。パートナーとしてあんな井戸の底にイアを再び放り込むわけにはいかない。
とにかくいまは学校に連絡を取らなければ。
「イア。悪いんだけどそこの電話を取ってくれ」
デジタル時計の側に置いてある子機を指さして言う。
「どこに電話するの?」
「ああ、ちょっと学校にな」
そう言ってイアの方に手を伸ばすが、おかしなことにイアは電話を渡してくれない。
「どうしたんだ?」
「電話する必要はないよ。休みますって言うだけなんでしょ?」
「? だからそれをこれからそう連絡しようとしてるんだって」
「だから大丈夫だってば。学校の……たかさき先生だっけ? その人に頼人は今日はお休みしますって伝えたから」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血がとんでもない勢いで引いた。
「お、おおお、お前、学校に電話したのか!?」
「してないよー。学校の電話番号なんて私知らないでしょ?」
何てことないようにイアが続けて説明する。
「頼人が寝てる間に電話がかかってきたんだよ。それで電話に出たらたかさきって人が『今日学校に来てないようですが、どうかしましたか?』って聞いてきたから今日はお休みしますって教えてあげたの」
「高崎先生は何か他に聞いてこなかったか? お前は誰だとか」
「あー、一杯聞いてきたよ。『失礼ですが、どちら様でしょうか?』とか『天原君は何故お休みするんですか?』とか『いま天原君はどうしていますか?』とか」
「……それでそれに何て答えたんだ?」
最悪の答えしか見えないが聞いてみるまで希望は捨てずにいよう。
「えっと、『頼人のパートナーのイアです』、『私と繋がって鼻血を出して倒れたからです』、『ベッドで寝てます』って」
はい、終わったー!
さようなら一人暮らし!
そしてこんにちは親戚共!
「あれ? 私何か間違えた?」
俺が両手で頭を抱えたからか、心配そうにのぞきこんでくる。
「いや、お前はがんばった……。がんばったよ……」
でももっと言い方があったろうに。さっきの言い方だと俺はただのスケベ小僧じゃねえか……。
「でしょー? えへへー」
頭をかきながら照れるイア。
ああ! 悪気がなく、嘘をついたわけでもないから何だか責めるに責められない!
「それでどうするの? やっぱり電話する?」
「いや、やっぱいいや……」
こんなことでこの暮らしを捨てるわけにはいかない。明日学校に行ったときに直接話して何とか上手く説明しなければ。
明日といわず、いますぐ話した方が良いのはわかっているのだが、はっきり言って精神力がもたない。
それに高崎先生のことだ。俺に確認をとるまで、何か具体的な行動を起こすことはしないだろう。
「それで、他には電話かかってこなかったよな?」
「ううん。りゅうへいって人から電話があった」
畜生ォォォォォォォォ!
「い、一体何の用事だったんだい?」
聞くのが怖い! でも聞かないとどんな誤解が生まれてるのかがわからなくて余計に怖い!
「わかんない、私が『もしもし』って言ったら切れちゃった」
「……そうか」
龍平、お前は勘違いをしている! 勘違いをしているんだ!
それとショックを受けたからって切るんじゃない! せめて俺に確認ぐらいしてくれ!
その後の一時間は無言で過ぎていった。
言ってしまえば禍渦との戦い以外で消耗した精神力を癒すための一時間だった。
窓から差し込む陽光。電線の上では雀たちが楽しそうに会話を交わしている。そして雀たちを狙っているのか、それともゴミ袋を漁ろうと企んでいるのかは定かではないが二羽の烏がやや離れた民家の屋根の上に待機していた。
――雀、後ろ、後ろ。烏が……ああ、どっか飛んで行った……。良かったなー、狙われてたんじゃなくて。…………………………………ふぅ。暇だなぁ。
いや、ふざけているわけではなく、実際何をしていいのかわからなくて困っている。
イアは既に俺と同調し、身体の中でぐっすり眠っている。何やら昨日は寝ていなかったらしい。
俺の家には誰かが遊びに来ることもなく(龍平はよく来るがあいつは飯食って、とりとめのないことを喋って帰るだけだ)、また俺自身もテレビゲームに興味がないのでそういった時間をつぶせるような機器はない。テレビをぼんやり眺めてもいいが電気代の関係からそれは却下。
昨日から風呂に入っていないことになるから入ろうとしたのだが、この服の脱ぎ方がわからない。コートとブーツは何とか脱ぐことができたのだが、そこから先がどうやっても脱げない。
上半身を覆う黒い服はサイズがピッタリあっていて動きやすいのだが、どこにもボタンやファスナーのようなものは見当たらないし、引っ張っても服が全く伸びないので無理やり破って脱ぐこともできない。というか背中から生えたコードが服を貫通しているので途中で引っかかってしまうのだ。
黒いズボンも同じような理由でお手上げ状態だ。
そうして三十分にわたり服と格闘していたのだが最終的に諦めてしまった。
遊ぶ道具はない、話す相手もいない、風呂にも入れないとなると後は空腹を何とかするぐらいしかないが、悲しいことに現在冷蔵庫にはまともな食材が残っていない。なら買いに行けば良いだけだろうと思うかもしれないが、いまの俺は白髪で金眼な上に青く光るコードが背中から伸びているのだ。この格好で外に出る勇気は生憎持ち合わせていない。
「んー、どうするかな……」
他に時間をつぶす方法と言ったら親父の部屋ぐらいか?
俺の親父は作家とだったいうこともあってその部屋には大量の本が資料として保管されており、そのジャンルは幅広く郷土史や美術関係の本、更には兵器・軍事工学の本までカバーされている。
何故俺がそんな細かいことまで知っているのかというと、親父は整理ということができない人間だったため本は俺が管理していたからだ。また、お袋はというと整理の途中で読書に没頭してしまったという前科があるので俺は両親に片づけを期待するのを泣く泣く諦めた。
親父が生きていた頃は蔵書を全部整理した後、適当に本を読むことが日課になっていたのだが二人が死ぬと同時にそれもなくなってしまった。
いまでは親父の部屋に行くこと自体少なくなり、行ったとしても必要最低限の掃除しかしていないという有様だ。
「久しぶりに行ってみるか。最近掃除もしてなかったし」
ただボーッとしているよりは掃除でもしていた方がよっぽど有意義だろう。
そう思い立ってリビングのドアを開け廊下に出る。ハタキや雑巾を物置から取り出し、二階にある親父の部屋へ。
そして部屋の前に到着し、ドアを開けて中に入り――、俺はまず叫んだ。
「何だ、こりゃあ!?」
ひでぇ! 床に殆どの本がぶちまけられている! 泥棒でも入ったのか!?
『ふあ……、どうしたの頼人? そんな大声出して……』
どうやら俺の叫び声で起こしてしまったようで、イアが半分寝ぼけたような声で問いかけてくる。
「見てくれ、この惨状! どうやら泥棒に入られちまったみたいだ!」
『わ、わー。酷いねー』
何やら台詞が棒読みのような気がするのは俺の勘違いだろうか?
「イア、昨日お前が起きてるときに何か物音とかしなかったか?」
イアは昨日ずっと起きていたそうなので、気絶していた俺よりは物音を聞いている可能性は高い。
『え、えーっと、物音っていうか私犯人知ってるかも』
「本当か!」
思わず大声が出る。
「それで!? 犯人はどんなヤツだ!?」
『…………私』
「うん?」
声が小さくてよく聞こえなかった。
「悪い、よく聞こえなかった。何だって?」
『だ・か・ら、私! 私がやりました!』
うお!? 何故若干キレながら自白する!?
イアの態度に困惑しつつも、とりあえず事情を聴くことにしよう。
「はあ……、それで? 何でこんなに散らかしたんだ? 別に悪戯ってわけじゃないんだろ?」
まだ短い時間しか一緒に過ごしてはいないがイアがこういった意味のないことをするとは思えない。恐らく何か理由があるはずだ。
『……。頼人をベッドに寝かせた後、起きるまですることがなかったから頼人の家を探検してたの。そうしたら本がいっぱいあるこの部屋を見つけて』
と、イアはボソボソと話しだした。
『本を読んでたら洞窟の中で頼人が言ってた『じゃべりん』っていうのを見つけたの。じゃあここにあるのを全部私が知れば頼人はもっと戦いやすくなるのかなと思って』
そんなこんなで、熱中してしまい気がついたら朝になってしまっていたらしい。
『眠くなってきたから寝なくちゃと思ったんだけど、頼人の部屋から大きな音がしたでしょ? それで頼人の部屋に走って行って……、そこからは頼人も知ってる通りだよ』
全ての情報を吐きだしたイアはそれきり喋らない。どうやら俺に怒られると思っているようだ。
「そういうことだったのか。それなら別に謝らなくていいぞ。本をそのままの状態で置いてきたのも、その後片付けられなかったのも俺のせいなんだから」
突き詰めれば禍渦との戦いで俺が自爆してしまったのが悪かったんだから。
「んで? お目当てのモノは覚えられたのか? 探すのも一苦労だったろ?」
確か一応ジャンル別には整理してあったはずだが、初見ではどの棚にどんな本があるかなんてわからないだろう。図書館で使われているようなジャンル別の表示板もないし。
『それは大丈夫。探すのも面倒だったし、端から端まで全部読んじゃったから。これで頼人はここにある本に書いてあったものなら何でも出せるようになったよ』
「そうか……って端から端までってかなりの量があるぞ!? それにそんなに一気に覚えられないだろ!?」
俺は教科書の公式やら重要語句を覚えるのにも四苦八苦しているというのに。
『別に私だって全部完璧に覚えてるわけじゃないよ。それは頼人もそうでしょ? 私や頼人が記憶を完璧に引き出すことはできないけど、脳には確かにその情報は刻まれてるんだよ』
理屈はよくわからなかったがイアが大丈夫だと言うんだったら大丈夫なんだろう。とりあえず今後禍渦との戦いで武器に困ることはなさそうだ。
「まあ、何にしてもありがとうな」
『え?』
イアは何のことだろう、という風に声をあげる。
「俺が戦いやすいようにしてくれたんだろ? それにいまもこうやって俺を治してくれてる。なら、ちゃんとお礼は言っとかないとな」
最初は自分の興味で行動していたようだが最終的に俺の負担を減らそうとしてくれていたんだし。
『えへへ、なんか照れちゃうよ』
「だけど――」
俺もここまでしてくれた相手にこんなことを言うのは気が引けるが。
これも社会勉強ってことで。
「後片づけはちゃんとしないとな、イア?」
『……やっぱり?』
そう呟くとともにイアのため息が俺の頭に響いた。
「ねー、この本はどこー?」
「どれだ? 『下沼美恵子の黙々クッキング』? ああ、これはあの一番奥の本棚の上から三段目。そのあたりに料理関係は固めておいてくれ」
「はーい」
返事をしてトコトコと教えた本棚に向かう。
ちょっと掃除するつもりだったのに、いつの間にか大掃除になってしまった。思ったよりも部屋の中は汚れていたので丁度良かったと言えば丁度良かったのだが。
ちなみにイアとの同調はもう切れている。イアが言うには肉体的な損傷は全部治せたそうだ。ただ、物体を具現化する為の精神力を回復するのは時間しかないらしいので、こればかりは辛抱強く待つしかない。
「あーあ、もうちょっと身体の修復に時間がかかれば片づけなくて済んだのになー」
「何言ってる。治るのが何時になろうが片づけさせてたぞ、俺は」
「えー」
そう雑談をつつ、俺とイアは手とコードを使って本を片付けていく。
これなら思ったよりも早く終わりそうだな。
俺がイアの予想以上の働きに喜んでいると、イアが一冊の本を掲げながらこちらにやってきた。
おい、その本は。
「頼人―、この裸の女の人がポーズをとってる本はどこにしまえば……、ひゃっ!!」
イアが聞き終えるまでに俺はその本をダイブして確保していた。そして着地と同時に服の下にしまう。この間わずか一秒。
自分の部屋ではなくこちらに隠してあったのを失念していた。
あまりに龍平がお宝探索と称して俺の部屋を漁ろうとするのでつい先日移したんだった!
「これは気にしなくていい! 俺がしまっとくから! な!」
イアはキョトンとした顔でこちらを見ている。
生まれたばかりの子がこんなものに興味を持つんじゃない!
「わ、わかったよ」
そう言って再び本の片づけを始めるイア。
よし、助かった! 生き延びたぞ!
「あ、ちょっと待って頼人。また女の人の本がまた出てきたんだけど……」
「うわぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
……もう一つあったのを完全に忘れていた。
「そういやさ」
片づけがもう終わろうという頃、会話のタネも尽きてきたので俺は苦し紛れにこんなことをイアに聞いてみた。
「え?」
「洞窟でアレと戦ったとき言ってただろ? 禍渦はいろんな形をしてるって。じゃあ今回の禍渦が蜘蛛の化物の姿をしているのは何か理由があるのか?」
神様に自身が壊される危険があるのならわざわざあんな目立つ姿になる必要はない。それこそ小さな石ころにでもなればいいのだ。その方が目立たないし長い間人に影響を与えることができるのだから。これはもちろん禍渦に意思というものがあるとすればの話なのだが。
「ああ、その話? えっとね、禍渦は自分で自分の姿を決めることはできないの。基本的にはその土地の言い伝えとかに影響されるみたいだから、頼人が知らないだけでこの辺りにそういう伝承でもあったんじゃない?」
ふーん。言い伝え、ねえ。
俺は高校進学と同時にこっちに来たからそういう話は知らなくて当然か。こういうのを知ってそうなのは龍平ぐらいだろうな。昨今の高校生が地元民俗に聡いとは思えない。
「ま、明日また調べてみるか」
今日はもう図書館は閉まっちゃってるし。変な誤解をしている龍平に電話するのも気が引ける。
そのまま手際よく片づけを終えると、イアはリビングのソファの上で寝てしまった。とても幸せそうに安らかな寝息を立てている。
夕方に少し寝たとはいえ、昨日からずっと起きていたのだから睡魔に負けてしまっても仕方ないことだろう。
俺はソファーにかけてあった毛布をそっとイアにかけてリビングを出る。目指すは風呂場だ。後でもう一度禍渦を壊しに行くのだ。やはり湯に浸かって気分をリフレッシュしておきたい。
そうして自分の着替えを持って風呂場へ向かう。
「そういや昨日の服、まだ洗ってなかったっけ」
洗濯カゴに脱ぎっぱなしの服が突っ込んだままになっている。
見ると洞窟の地面に寝かされていたこともあってか、至るところに泥が付着していた。ここまで酷いと洗濯機で洗う前に専用の洗剤で手洗いをしなければならないだろう。
俺は嘆息しながら泥だらけの服をひとまず洗面台に入れておくことにした。そうして汚れたズボンを掴んだとき、そのポケットに何かが入っていることに気づく。
「ん? 何だ?」
ポケットをまさぐり、異物を取り出す。
出てきたものは――学生証だった。
ああ、そうだった。昨日双子山の山道の入り口で美咲の学生証を拾ったんだった。
学生証を指で摘まみながら昨日の出来事を回想する。
今日は渡せなかったな。明日また――。
そこまで考えて身体に戦慄が走る。鮮明に記憶が蘇る。
――これが落ちていたあの場所で、俺がどんな目にあったかを。