~熟成~
再開の日、獲物は前回同様スーツに身を包み、対する私はいつもより露出の控えめな衣装に身を包んでいた。
今日の目的地は、居酒屋。あまり派手な衣服で訪れるのも如何なものか、と思ったからである。
それに、前回の反省も踏まえている。獲物は、あまりに私を見ようとはしなかった。その原因の多くは、彼の照れ屋な性格によるものであろう。彼は、女性と面と向かうことが苦手なのである。そんな相手に露出のいで立ちで接するのは、マイナスの効果しかもたらさないのではなかろうか。
突如目の前に現れた女性のやわ肌を前に、目のやり場に困ってしまった。前回彼が私を直視できなかった理由のほんの一部にでもそういった側面があるのであれば、極度な露出は控えた方がいい。私は、そう分析した。
しかし、草食系男子という存在は私の分析を超えて、手強かった。獲物は、今回も私を直視しようとはせず、前回同様、イソイソと私を目的地へと案内する。
この手強い獲物を誘惑することなどできるのであろうか……私は一抹の不安を覚ながらも素直に彼に追従し、薄暗い路地へと歩を進める。
私達は、まるで街の明かりから遠ざかるようにして暗がりを進む。私が淫魔で、獲物が草食系男子でなければ、私には恐怖という感情が芽生えていたのかもしれない。
「着きましたよ」
不意に獲物の声を聞いた私の目に、暖簾を下げられたガラス戸より溢れる橙系統の光が飛び込んでくる。暖簾の横には赤提灯が掲げられている。
画期的な接客方法、緻密に計算された食材調達、実業家としての経営者といったイメージとはまるでかけ離れた昔ながらの居酒屋である。
「ここ、ですか?」
思わずそう言った私の表情には、若干の不満の色が現れていたのかもしれない。獲物は肩を落とし、申し訳なさそうに声を出す。
「やっぱり、こんな安っぽい店じゃ嫌ですよね……場所を変えましょうか?」
「いえいえ、とんでもありませんわ。なかなか、いい雰囲気のお店じゃないですか」
私は慌てて笑顔を繕うと、自ら率先してガラス戸に手を掛ける。
私の予想に反して、戸を開けるとそこには先客達がおり、思い思いに会話を弾ましている。大繁盛とまではいかないが、それなりの来客数である。
彼が案内してくれたのは、知る人ぞ知る名店……ということにしておくわ。
先客達が暖簾を潜った私の存在を認知したのと同時に、それまで賑わしかった店内が沈黙に支配される。
右の者、左の者、正面の者…お互いに顔を見合わせた後、先客達は再び私の方へと視線を送り、怪訝そうな表情をする。突然現れた見知らぬ美女の姿に困惑しているといったところであろう。
しかし、直ぐに私の脇にいる見慣れた男の存在に気付き、頬を緩める。
「お、兄ちゃんも遂にいい人見つけたか」
「こんな美人を連れてくるなんて、隅に置けないねぇ」
「そんなじゃありませんよ。茶化さないで下さい」
誰ともなく上げられた冷やかしの声に、獲物は照れ臭そうに黒い短髪を掻く。それから、隣の席へと手招きする先客に対してぺこりと軽く会釈をして、辺りを見渡す。
「悪い、悪い、折角のデートを邪魔しちゃいけないよな……まぁ、こんなとこだが姉ちゃんもゆっくりしていきな」
「こんなとこって、そういう言い方は勘弁して下さいよ」
カウンターの向こうで店主と思われる初老の男性が厭味のない溜息と共に、客の言葉を窘める。
「まぁ、確かに綺麗な店構えとは言えませんが、ゆっくりしていって下さい」
初老の男性は私達に向き直ると、掌を裏返し開いているテーブル席の場所を提示する。それに続いて、先程手招きをした客が、がんばれよ!と言わんばかりに右手を上げる。
そんな2人に対して獲物は再び会釈をしてから、今度は私の方に申し訳なさそうな視線を送る。
「気にしないで……」
私は小さな声と笑みを獲物に返す。
それにしても、彼はこの店においてなかなか良好な人間関係を築いているようである……意外と、社交性あるじゃない。
獲物と向き合う形で席に着いた私は、ひとまず、壁に張られたメニューを確認する。居酒屋ということもあって、どちらかと言えば和風のメニューが中心である。
肝心のお酒はというと……ビールに、日本酒に、焼酎にと、如何にも居酒屋といった品揃えである。
「凄い……」
思わず私が感嘆の声を上げてしまったのには、それなりの訳がある。黄ばんだメニューの紙の上では、越寒梅大吟醸、兼八、佐藤、鳥飼……酒の知識を少しでも有する者ならば誰もが一度は口にしてみたいと思うようなプレミアム酒が名を連ねている。
どのようなルートで入手したのであろうか?狩りの過程で訪れることになったこの店は、本当に隠れた名店なのかもしれない。
私は、一瞬、本来の目的を忘れかけてしまう。しかし、流石にここで高価なプレミアム酒を注文するのは控えるべきであろう。
獲物の財布の事情が芳しくないであろうことは、前回レストランでワインを注文した際に判明している。金のかかる女と思われるのは、狩りを続ける上で非常に都合が悪い。
そもそも、彼の好みが日本酒や焼酎にあるのかも分からない。前回、私が自分の好みを優先してしまい、彼にとっての食事を台無しにしてしまったことへの罪悪感もある。
ここは、彼の好みを優先させるというのが筋だと思う。
「お決まりですか?何にしましょうか」
決断を保留している私に対して、獲物は遠慮がちに尋ねる。
「正直なところ、まだ、決めていません。あまり慣れないお店で、何を注文していいか良く分からなくて……貴方と、同じものにしようと考えております」
「本当にそれでよろしいのですか……きっと、僕の頼むお酒なんて、口に合いませんよ」
「そんな事、心配なさらないで下さい。私、これでもお酒はオールマイティに行ける口なんですよ。それに、貴方の好みというのにも興味がありますの」
居酒屋に着いてきた時点である程度の覚悟は出来ている。獲物がどうような酒を頼もうとも文句は言わない。目的は、お酒を美味しく頂くということではないのである。
それに、何故だか分からない……私が注文を彼に委ねたとき、彼が僅かに垣間見せた嬉しそうな表情。それを目の前にして、酒の事などどうでもいいようにも感じられた。
「すいません、オーダーお願いします」
店員を呼ぶ彼の声は何処となく弾んでおり、声の発信元を示すために上げられた右腕にも何となく力が込められている。
彼は、お通しの小鉢とメモ帳を手にやってきた女将と思われる女性店員に対して、枝豆、軟骨のから揚げ、焼ほっけといった居酒屋にありがちな料理を注文した後に、他に食べたいものはないかと確認するように、私の方へと控えめな視線を送る。だから、私は冷やしトマトに大根サラダという美容と健康に良さそうな料理を注文し、妙齢の女性を演じてみせる。
そして、彼は最後に、いつものやつを2人分とピースに似たサインを送って、女性店員を見送る。
注文の品が届くまでの間、彼は会話の糸口を見つける事の出来ない様子で、小鉢へと箸を伸ばす。
それ故もたらされた手持無沙汰な気を紛らわすため、私が何気なく店内を見回すと……店内では先客達の談笑が相も変わらず続いている。仕事帰りの憩いの場とでも言うべきか、スーツを着崩し、ネクタイを緩めた男性達は同席者同士で他愛のない会話を弾ませ、時には席を超えて互いに笑顔を送り合っている。
まるでお互いの日中の頑張りを労っているようで、ほのぼのとして、どこか人情味というものさえ感じさせる。
私がこの国に来る以前に住んだ異国の街、まだ江戸と呼ばれていた私がやってきたばかりの頃のこの街、東京。かつての獲物達と共に何度も味わった光景であった。
既に過去のものになってしまったと思っていたこの光景が、今、思えば、私は嫌いではなかった。
しかし、その光景を共有した男達は私の獲物、私はそんな彼等を食い物にして今日まで生きている。
善とか悪とかそういう次元の話ではない、ただ、私は彼等の命を奪った。生きる為の原罪意識、忘れていたからなのだろうか、それとも、単に今の今までそのような意識を私が持っていなかったからなのだろうか……今まで思い出すこともなかったかつての獲物達の顔が、店内を照らす橙色の光の中に走馬燈のように浮かび上がる。
「はい、お待ち」
不意に耳に届いた女性店員の声により、私の意識は狩りへと引き戻される。
女性店員は、まず先に飲み物を運んできたようである。テーブルの上では2本のグラスに注がれた無色透明の液体が泡を立てており、その脇には半分に切れた水々しい薄黄色の柑橘系果物が一対置かれている。
「生グレープフルーツサワーですよ。すっきりしてて結構、いけますよ」
必要最小限の甘みと適度な酸味を併せ持つ生グレープフルーツサワー、私は嫌いではない。
最初はどんなお酒が来るのかと少し不安だったけど……ささやかな安堵の気持ちと共に私は、半分に切られたグレープフルーツへと手を伸ばす。
その時、私の手に突然、彼の掌が覆いかぶさる。
「あっ」
思わず手を引いてしまう私。
「ごめんなさい」
たまたまタイミングが重なってしまっただけであろう。私は謝罪の言葉と共に、再びグレープフルーツへと手を伸ばす。
すると、彼は軽く手を上げ私の動きを制すると、そのまま、グレープフルーツを持ち上げる。
「結構、力いるんですよ、これ。それに、万が一、汁が飛んでしまったら、折角の服が汚れてしまいます」
そして、彼はグレープフルーツをスクイーザー(絞るやつのこと)へと押し付け、その作業が終わった時、ニッと微笑みながら絞りたての果汁を私のグラスへと注ぎこむ。
変なとこだけ、男らしいと思った……でも、そんな些細な行動こそが、かえって、飾り気のない真の優しさというものを感じさせる、ような気がする。
「ありがと」
私が、彼に微笑み返すと、彼は照れ臭そうに私から眼を逸らし、赤面したままもう1つのグレープフルーツを絞り始めた。
そうこうしているうちに食べ物も届けられ、テーブルの上には注文の品が出揃う。そして、彼は、
「どうぞ」
と、小皿に大根サラダを取り分け、私達の夕食は静かに始まった。
彼は、なかなか私と眼を合わせようとはせず、会話も弾まない。しかし、彼がグラスを半分ほど空にしたとき位を境に状況が少しずつ変わる。
お酒の力ともいうべきか、頬をほのかな紅色に染めた彼は少しずつ私との会話を楽しむようになっていく。
料理への感想や、TVのバラエティー番組の話に、最近経済動向なんかについてもお互いの意見を述べ合った。
彼は、長い年月をかけて培った幅広い見識に裏打ちされた私の言葉に素直に感心し、半分以上はでっちあげの私の身の上話に興味深そうに耳を傾ける。また、彼も若いながらも一生懸命に磨いた見識を披露し、自らの身の上も打ち明ける。
田舎から上がって来た純朴な青年……それが、私が会話を通じて率直に下した彼への評価である。饒舌という訳ではない、ただお酒の力を借りてほんの少しだけおしゃべりになった彼との会話は、楽しかった。
狩りの途中にこのような感情を抱くだなんて……とても、不思議な事だと思う。
その感情に納得しているかどうかは別にして、楽しい時間とはあっと言う間に過ぎ去るものである。私達がふと時計へと目を遣った時、終電にはまで余裕のあるものの、針は結構な時間を指している。
こうして、私達の前回よりは数段以上マシな夕食は終わりを告げ、私達は街明かりの中へと回帰するため、再び暗がりを進む。
そんな私達を最初に出迎えた街明かりは、ネオンサインにより放たれていた。
「あの、すいません」
それがラブホテルのそれであるとはっきりと認識できるかどうかぐらいの距離にまで近づいた時、彼が私を呼び止める。
しかし、彼はその後の言葉を中々口にしようとはしない。口元を動かしながら、もじもじとしているだけである。
「どうかされましたか?」
私が続きを催促すると、彼は大きく深呼吸をしてから、声を裏返す。
「あ、あの、よろしければ……」
流石にこれでは聞き取り難い、と彼も自覚はしているのか……彼は再度深呼吸をし、今度は声を振るわせる。
「こ、今度の休日、御一緒して頂けませんか?お願いしたいことがありまして」
何とか聞き取ることは出来た。今すぐに、という訳ではないらしい。それならば……何とも間が悪いというか、無神経というか。
呆れてもいいはずの場面である。しかし、私はその感情を覚えなかった。私は安堵ともとれる感情を覚えていた。
狩りの終焉は引き延ばされたのである。