~仕込~
狩りの始まり。私は、時間より少し早めに獲物との待ち合わせ場所に到着した。
何事も最初が肝心、待ち合わせ時間より少し遅れて到着することにより焦らすという作戦も考えたのだけれども……きっと、今回の獲物のような真面目な人間に好印象は与えない。相手は獲物とはいえ、ルーズな女とは思われるのは癪なことである。
既に獲物の姿はあったが、私の接近に対する反応は、目を逸らすだけ。
何故ならば、彼は待ち合わせの相手が私だとは気付いていない。それもそのはず、私達が初めて出会った時、彼の体調は最悪で、私の顔を覚えるゆとりなど無かったのである。
彼は、ただ、突如視界に入った美女に対して、照れとも気まずさともとれる感情を一方的に覚えただけなのであろう……予想通りの初心ね。
「すいません、お待たせしてしまったようで」
「いえ、僕が早く来すぎただけです」
私が声を掛けて、獲物は始めてその美女が待ち合わせの相手であることに気付く。このような美女と一緒に食事をすることとなるとは……彼にとって全くの想定外の出来事であったようであり、言葉こそしっかりしているが、目は泳いでいる。
仕事帰りなのであろうか、そんな彼はビシッとスーツできめている。少々小柄である点と目が泳いでいる点さえ除けば、中々の凛々しさである。
「それでは、早速、店へと行きましょうか」
彼は私との会話を拒んでいるのであろうか?間髪入れずに彼はこの言葉を口にすると、イソイソとこの場所を立ち去ろうとする。
店へ着いたら私がいなくなる訳でもないのに……問題の先送り。私は、呆れると同時に、少し微笑ましい気分にもなった。
獲物が選んだのはターミナルステーションの脇にそびえるビルに入居するイタリアンレストラン。
私達淫魔にとって、このような人間の食べ物は生命維持の為には全く役に立たない。でも、味ぐらいは分かる。店はそこそこお洒落で、料理もそれなりに期待できそうである。
結構いいセンスしてるじゃない……そう思ったのも束の間の事。彼がメニューと睨めっこした結果、選んだのは無難なコース料理。しかし、その後の選択が悪い。あろうことに彼は、ドリンクとしてカシスオレンジを選択する。
こんな甘ったるいものを飲んだら、折角の料理の味が分からなくなってしまう。私は慌てて彼のオーダーをキャンセルしてから、ボーイにこう尋ねる。
「コースの構成はどのようになっていますか?」
「エビのマリネから始まり、その後もシーフード主体のコースとなっております」
伊達に長生きはしていない……私は、人間の食事に対しても多少の知識は持っている。こう言う場合の選択肢はというと……
「白ワインが無難かしら?」
その時、獲物が私に不安そうに私の方を見つめる。ワインと聞いて怖気づいてしまったようである。彼の発想では、きっとワインは高価なものであり、財布の中身が心配になってしまったのであろう。
「あの、その……」
何かをボーイに訴えようとするが、口ごもってしまう獲物。何が言いたいのか、察しは付く。
しかし、まがりなりにも彼も男の子。女性の前ではそのようなこと言い出し辛いのであろう。
女性の前では格好良く在りたい……そんな男としての当たり前の気持ちに葛藤させられる目の前の小柄な男性に対して、不覚にも、私は少しいじらしいと感じてしまった。
私は、徐に私の前にも伏せられていたメニュー表を手に取ると、ドリンクのページを開く。そして、ワインの一覧にざっと目を通した後、ある一行を指差しながらボーイへと視線を遣る。
「これなんて合うんじゃないかしら?」
「素晴らしい選択です!ピッタリだと思います」
私の選択が的確であったかどうかは分からない……ボーイは私に合わせてくれたのであり、慣れないレストランで女性との慣れない食事に悪戦苦闘する獲物の面子を潰さないよう気を利かせてくれているのである。
「それでは、こちらをご用意ということでよろしいでしょうか?」
メニューを手にしたボーイは、私が指差した行を提示しながら、獲物に決断を迫る。
「はい、これでお願いします」
獲物は少しほっとした様子で、決断を下す。きっと、彼の目にはメニューに表示された値段だけが映っていることであろう。
私が選んだのは低価格なワイン。しかし、建前上は価格ではなく、料理との相性で選んだことになっており、その上、ボーイのお墨付きである。
だからこそ、獲物は低価格に躊躇することなく決断を下すことでき、結果として彼の面子も財布の中身も護られた。
私は心中ではほっと胸を撫で下ろしているであろう彼に、にっこりと微笑み掛ける。
すると、彼はこっそり頭を前方に傾けるなりなんなりの方法で謝意を示すのではなく、赤面しながら眼を伏せた。
結局、獲物は終始こんな感じで、私の顔もまともに見ようともしない。照れ屋というか、緊張しいというか……女性とこうして食事することがとことん苦手なのであろう。
お酒が入れば多少はマシになるかもしれないと思いもした。
しかし、彼はお酒にも殆ど口を付けなかった。カシスオレンジをオーダーしたことから察するに、彼は全くの下戸というわけではないということは推測できるのだが……きっと、ワインだから飲めなかったのね。
そんな彼は、選択の経緯の割には相性の良かったワインと料理に舌鼓を打つ私とは対照的であり、私は、何だか自分だけ美味しい思いをしてしまったと、少々の罪悪感を覚える。
「申し訳ありません……何だか、苦手なお酒を無理やり飲ませてしまったようで」
だから、彼との別れ際、私は素直に罪悪感を打ち明ける。
「いえいえ、そんなことありません。それより、こちらこそ、食事に誘っておいて殆どお構いすること出来なくて……退屈な思いをさせてしまいました」
それは否定できない……しかし、それを言ってしまうと、彼との関係はここでお終いになってしまう。それは、すなわち、私にとって狩りの失敗を意味する。
一度狙った獲物を逃す。それは私の矜持が許さない。それに何より……本当に申し訳なさそうにしている者に対して追い打ちを掛けるような真似が出来る程、私は冷酷ではなくなっていた。
しばらくの気まずい沈黙の後、獲物は、
「本当に申し訳ありませんでした……これで、失礼します」
と頭を下げ、私に背を向ける。
「ええ、本当、失礼だこと……レディーを1人残して帰ろうだなんて」
彼が2、3歩、足を進めたところで、私は彼を呼び止める。
「た、大変、失礼致しました……駅まで送らせて頂きます」
振り返った彼の顔には大きく、しまった!の文字が書かれている。
それに対して、私は腕を胸の前で組み、少し冷たい口調で言い放つ。
「ええ、そうして頂けると助かりますわ」
駅へと向かう途中、彼はずっと俯いたままで、私に声を掛けようともしない。
「本当、退屈だこと」
私の独り言は、独り言というにはあまりにも大音量で、彼の耳にも十分届くものだった。
それ故、彼はより深く俯き、小さな声を絞り出す。
「本当に申し訳ありません」
「謝って済むことではないですわ」
「本当に申し訳ありません……僕は、どうしたらいいのでしょうか?」
彼は、小さく前言を繰り返してから、救いを求めるように顔を上げる。
「そうね……もう一度、チャンスをあげるってのは図々しいかしら?」
「チャンス……といいますと?」
彼は困惑した表情で私に聞き返すだけで、私の望んだ答えは返ってこない。
でも、流石に今の言い方は少し分かりにくかったのかもしれない……このままでは、私がただ意地悪を言っているだけのようにしか聞こえない。
調子が狂ってしまった。だって、今回の獲物は今までのそれとは全くタイプが違うんだもの……と、言うのは少し言い訳臭いかもしれない。
私は意地悪をしたくてあんなことを口走った訳ではない。次の狩りに繋がる言葉を獲物が口にするよう誘導するための策のつもりだった。
ただ、彼のようなタイプを相手に、このような回りくどい方法は逆効果だったのかもしれない。
「もう一度、御一緒させて下さらない?」
「でも、さっき、退屈だっておっしゃったじゃないですか……きっと、次も同じことになってしますと思いますよ」
私は率直な言葉を投げつけ、彼の反応を伺う……彼の声色からも、そして、表情からも自信のなさが読み取れる。
「確かに、同じような事をされたら退屈してしまうかもしれませんね……だって、貴方、全然お話して下さらないんですもの……無理に格好付ける必要はありませんわ。もう少しありのままを見せて頂きたいの」
「ありのまま?」
彼は、何かを考えるようにして歩みを止める……ここは一気に畳み掛けるべきだろう。
「そう、ありのままの貴方に少し興味がありますの。貴方の事を何も知らないでこう言うのは失礼かもしれませんけど……なんだか、今日の貴方、無理に背伸びをして、裏目に出てしまっているようで」
「確かに、背伸びをしたということは否定できません。行ったこともないようなお店で、あがってしまったといいますか、勝手が分からなくなってしまったといいますか」
半分、カマを掛けたつもりだったけど、満更検討違いと言う訳でもなかったようね。
「では、普段はどのようなお店に行かれているんですの?大変、興味がありますわ、是非、教えて下さいな」
「居酒屋ですよ……命の恩人とお食事するにはまずもって不向きな安っぽい居酒屋ですよ」
居酒屋……確かに彼の言う通り、お礼に御馳走するという流れで居酒屋などに連れていからたら、それこそ、センスを疑ってしまう。彼の判断は間違いではなかった。
しかし、彼の場合、その正しい判断が、好ましい結果をもたらさなかった。今一度、彼に正しい判断を求めたところで、同じ結果が待っているだけであろう。狩りが困難のものとなってしまうことは目に見えている。
こういう場合は、臨機応変な対応が求められる。
「居酒屋ですか……是非、御一緒させて頂きたいですわ。実は、私、あまりそう言ったタイプのお店には行ったことがなくて、大変、興味がありますの」
半分は本音。ここ最近の獲物達は、私を居酒屋に連れて行くようなことは無かった。だから、私はここ最近、居酒屋とはすっかり疎遠になってしまっている。
私だって、TVや新聞ぐらいには目を通し、経済動向や流行の情報を手に入れるようには心がけている。それが、この街で生きて行く上で幾分かのプラスに働いているのだと思う。
画期的な接客方法、緻密に計算された食材調達に、実業家としての経営者……私の仕入れた情報の中には居酒屋に関するものも幾つかある。
興味深いと感じる事も何度かあったが、実際に訪れる機会には恵まれなかった。
つまり、私のとった対応は臨機応変である以上に、食欲のみならず好奇心まで満たし得る、欲張りな対応であった。
「そう言って頂けると助かります……それならば、是非、御一緒させて下さい」
そして、私達は再開の約束し、今日のところは夜の都会を後にする。