~収穫~
あれから週間後、私は普段より早めに食事の支度に取り掛かることにする。
「はい、○△通商でございます」
電話を通じて愛想の良い女性の声がする。
「突然のお電話申し訳ありません、~~課長はおみえでしょうか?」
「はい、~~ならおりますが……。失礼ですがどちら様でしょうか?」
これは大きな誤算である。私は、普段、他人に名乗ることをしない。何故ならば、私は常に警察の捜査の対象となるリスクと隣り合わせの生活をしている。素性を明かさない方が都合の良い場合の方が多いのである……まぁ、どうしてもって時は偽名や偽造書類なんかを使うのだけれど。
それはさておき……
「申し訳ありません、課長にも名前は伝えてありませんの……でも、話せば分かると思います」
「畏まりました……では、お繋ぎ致します」
女性は怪訝そうにこう答え、電話を保留にする。しばらくの保留音が流れた後、ガチャリという音と共に聞き覚えのある男性の声がする。
「はい、お待たせいたしました。どのような御用件でしょうか?」
その声色は決して無愛想という訳ではないが、若干の警戒の色が読み取れるのは無理もないことである。私は、手短に自分が連絡先を知るに至った訳を話す。
「ああ、あの時の!その節は大変お世話になりました、お陰さまで――も事なきを得、今では元気に出社しております……常々、お礼をと言っておりましたので、しばらくお待ち頂いてもよろしいでしょうか?」
私が誰であるのか理解したのであろう、課長の声からは完全に警戒の色が消える。そして、私が課長の言葉に対して了承の意を伝えると、受話器の向こうでは再び保留音が流れ始める。
次に私が聞いたのは若い男性の声であった。聞いたことはない。
「すみません、大変お待たせいたしました。あの時は本当、お世話になり、ありがとうございました」
声の主は、あの時見つけた獲物のようである。都合の良いことに、あの時の手柄は私にあると思い込んでいるようである。
「いえ、私は当たり前のことをしたまでで……それに、通報も応急処置も殆ど課長さんがなされたことですし」
「そうなのですか……それでも、それまでは貴方が見ていて下さっていたのですよね。~~も言っておりました、貴方がいなければ、お前にも気付かなかっただろうって……何れにせよ、貴方は僕の命の恩人です。本当、ありがとうございました」
獲物は、そう言って一方的に感謝の念を伝えると、これまた一方的に電話を切ってしまった。
「え?なんなの」
流石にこれには私も唖然とし、目が点になってしまう。
すると、まだ手に握ったままであった携帯電話より、着信音が鳴らされる。ディスプレイには、未登録の電話番号が表示されている。しかし、知らない番号ではない。先程電話を掛けた○△通商の電話番号である。
「本当、失礼致しました!!」
私が応答するや否や、必死に謝る男性の声が耳に響く。先程まで話していた獲物の声である。
着信履歴より、私の携帯の番号を割り出したのであろう。
獲物の言い訳によれば…彼は、ありがとうございました!の一言と共に顧客との電話を切ることが多いのだという。だから、今回もその流れのままに受話器を置いてしまった。
ドジというか、可愛らしいミスと言うか……思わず私は、クスっと吹き出してしまう。
「な、何が可笑しいんですか?」
その声は獲物にも聞こえていたようであり、彼は声を荒げるが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「失礼しました……やっぱり、ちょっと苦しい言い訳ですよね。嘘を突いたという訳ではありませんが……実は、その……」
そこまで言うと、彼は急に言葉を詰まらせてしまう。
「実は……他に何かあるのですか?」
「はい、実は~~より、こう言う場合は一度会って、直接お礼を申し上げるのが筋だと申し遣っておりまして。もし、迷惑でなければ、お時間頂けないでしょうか?お礼に食事でも御馳走させて頂ければと思いまして」
私の問いかけに対してここまで言い切ると、彼は一旦受話器を口から離したようであり、私の携帯電話からは今まで聞こえなかった事務所内で為されている他の会話が聞こえようになった。しかし、受話器が拾ったのはそれらの雑音だけではない。
受話器は彼の緊張までをも拾い上げ、私に伝達する。受話器は、彼が生唾を飲み込む音と、彼の大きな呼吸音を私に届けたのである。
食事と言っても、人間の食事と私達、淫魔の食事の意味するものは全く異なり、もちろん、彼の言う食事とは人間の食事のことである。
淫魔の食事ならまだしも、人間の食事に誘うのにどうしてこれほどまでに彼は緊張しているのであろうか?
何か下心でもあるのかしら?
いや、その線は薄い……女性との食事に下心を抱く男性は数限りなく食してきたが、決して女性との電話を一方的に切るなどと言うヘマは冒さなかった。
考えられるのはただ1つ、おそらく、彼は非常に初心なのであろう。恩人へ礼と言っても、女性との食事には違いない。女性を気安く食事に誘うことも出来ない初心な青年。今流行りの草食系男子というやつである。
女性に対して奥手な彼等が私達の誘惑に乗ることは非常に稀な事であり、彼等は滅多なことでは口にすることのできない希少な食材である。
そんな食材と、まがりなりにも一対一で接触する機会を得られた幸運。是非ともこのチャンスをものにしたい。
「迷惑だなんて、これっぽっちも思っていませんわ。是非、御一緒させて下さい」
周りの雑音が彼の顔により遮断されたのを確認した後、私は昂ぶる気持ちと戦ながら必死に声のトーンを抑え、自然を装った。
そんな私とは対照的に、彼は声のトーンを押え切れていない様子である。
「ありがとうございます!お会いできるの、楽しみにしております!!」
いえいえ、こちらこそ楽しみにしております。