~選定~
タイトルにある憂色は、“うれいろ”と読んで下さい。
切れ長の眼に、紅く艶っぽい唇。これらを収めた顔のシャープな輪郭を包み込むのは、光沢を帯びた長い栗色の髪の毛。大きな胸と尻に比して細い腰をした身体は、女性としては長身の部類に入る。
絶世の美女、自分でそう言うのはおこがましいと思うかもしれないけど、事実、私とすれ違い、振りかえらない男はいない。
露出の多い妖艶な衣服に身を包んだ私は、獲物を求めて夜の大都会を彷徨っている。私は、淫魔。色欲に塗れた愚かな男達の精と魂を喰らう妖魔である。
この街が江戸から東京へと名を変えたぐらいの頃に海を渡ってからずっと、人間から見れば恵まれたこの容姿を武器に男を誘惑し、この身を養っている。
私に捕食された男達はどうなってしまったって?……言わずと知れたこと、私は弱肉強食の理に従っているだけ。貴方達が、牛豚や穀物の命を喰らって生命を維持しているのと同じ。食べるものが違うだけで、私も貴方も生きている。
でも、安心して私は貴方達ほど忙しく生きていない。毎日3度も食事をするなんて非経済的な真似はしない。私が狩りに出かけるのも数カ月ぶりのこと。
久しぶりの狩り。それは貴方達人間の感覚。心配はいらない。私の狩りの感覚はその程度の時間では鈍らない。
夜のオフィス街……この場所には、精気に満ち溢れた働き盛りの獲物達が数多くいる。今回の狩り場はこの街にしよう。
でも、誤算があったことも認めるわ。街はまだ眠っていない。多くのオフィスビルには未だ明りが灯り、多くの獲物達が残業に勤しんでいる。この街の人間達は、どれだけ働くとこが好きなのであろうか?……狩りを行うのには非常に分が悪い。この街の人間は非常に勤勉で、このような状況で私の誘惑に乗る者など殆どいない。
私がこの街にやってきた頃に比べて、狩りは明らかに行い難くなっている。しかし、この街の住人達の勤勉性を考えれば当然のことなのかもしれない。私が記憶するだけで少なくとも2度、彼等は焦土と化したこの街を見事に立ち直らせている。そんな彼等にとって、淫魔1人の狩り場を奪うことなど容易いことなのかもしれない。
眠らない街、東京。全く、とんでもない処に住みついてしまったものね。
場所を改めよう。よくあることと言えば、そうなのかもしれないけど……最上級の獲物を目の前にして引き下がるのは口惜しい。
別の狩り場へと移動するため駅へと向かう私は、たまたますれ違ったパトカーを横目に見送る。
日本の警察。近年、その能力を疑われるような不祥事も幾つか発覚しているが、それでも優秀なことには違いない。私にとって非常に厄介な存在である。
私に精と魂を喰われた獲物の末路、それはもの言わぬ屍である。屍の発見は事件であり、警察官達は血眼になって真相の究明に走る。
妖魔といっても、私は御伽噺……漫画やアニメと言った方と言った方が今風なのかしら?…で語られるような特殊な能力を備えている訳ではない。例外を挙げるとすれば、人間に比べて圧倒的に長い寿命と、獲物の肉ではなく精と魂を喰らうその食事方法のみである。
しかし、この例外故に、私は常に殺人事件の犯人として疑われるリスクに晒されることとなる。もちろん、今のこの国の法律では私の食事を裁くことはできない。不慮の事故であるという私の主張を覆すことが出来ないからである。だが、たとえそうであっても、面倒なことには違いない。だから、私は隠ぺい工作やアリバイ工作に終始徹することになる。
幸い、長い人生の中で培った知恵により今までは大した面倒には巻き込まれずにいる。しかし、近年の警察の捜査能力の向上は眼を見張るものがあり、特に監視カメラや科学捜査の発達には流石の私とて危機感を覚えざるを得ない。
それは、この大都会を離れたところで同じこと。先進国に分類されるこの国では、全国各地に警察官達が配備されている。そんな彼等を繋ぐ情報網も侮れない。東京を離れたところで、この国の治安機構より逃れる事は容易くはない。いや、むしろ、東京から離れた方が危険な場合だってある。特にこの国の田舎と呼ばれる地帯においては、未だに昔ながらの地域の目なるものが存在する。私のような容姿のよそ者など、すぐに注目の的となり、監視の目に晒されてしまう。
大都会の人ごみに紛れるほうが余程安全である。
「そろそろ潮時かもしれないわね……」
溜息交じりにそう呟いた私は、最近、住み慣れたこの国を離れることを考え始めている。
駅へと向かう途中、私はその殆どを闇に覆われた空間と遭遇する。
ビルの谷間に作られた公園。昼間はこの場所で働く多くの人間達が一時の安らぎを求めて集まる場所なのかもしれない。
しかし、今は、ビルより漏れる光の届かない大都会の死角と表するのが相応しい。
「ちょっと、疲れちゃったかも……」
この街が昼夜問わず光に包まれるようになったのは何時頃からだったであろうか。妖魔である私にとって、このような暗闇こそが本来の住処。私は、吸い込まれるようにして闇の中へと足を進める。
すると、そこには既に先客がいた。スーツに身を包んだサラリーマン風の若い男性がベンチに腰掛けている。
そのため正確な背丈までは分からないが、男性としては小柄なようである。そんな男性の顔立ちはというと、整った目鼻をした中々の美男子。短く整えられた如何にも日本人らしい黒髪が爽やかで、好感が持てる。小柄なことに眼さえつむれば、獲物としてはかなりの上等品である。
この場所でなら、或いは狩りも上手くいくかもしれない。私は、狩りの前の昂揚感を押さえながら、ゆっくりと男性の元へと歩を進める。
男性は、……どこか具合でも悪いのであろうか?よくよく観察してみると、額に汗を浮かべ、ぐったりとした様子でベンチにもたれ掛かっている。
前言撤回。病人など食したところで美味しいはずがない。
私は、その場を立ち去り次の狩り場へと急ごうと考えるが、不意に頭をよぎった別の考えにより、しばしその場に留まることとなる。
病人をこのまま放っておくのは如何なものか?……私達、淫魔はその生態故に必然的に人間社会に接する機会が多い。その結果として、このような人間じみた感情を身に付ける者がいたとしても何ら不思議でもない。
事実として、私にも、ほんの僅かではあるが、人間の感情は芽生えている。しかし、そんな私の感情は直ぐに生命としての合理的思考に覆い隠される。
私が考えたこと、それは人間が一部の高級食材を確保する際に用いる手法に近いのかもしれない。捕獲した獲物を一旦飼育して、食べ頃にになった時期を見計らって出荷する。
男性の体調が戻った後に、美味しく頂いてやろうではないか……私がこの考えに至った矢先のことである。
「おいっ、大丈夫かっ!?」
私が咄嗟に声の方向に顔を向けると、そこには、決して軽やかとは言えない足取りで私達のもとへと駆け寄る中年男性の姿があった。お世辞にも美味しそうとは言えない。
しかし、人を見かけで判断してはいけない。若い男性の上司であると手短に自己紹介した中年男性は、私に向かって丁寧に頭を垂れた後、素早く携帯電話を取り出し、1、1、9とダイヤルする。そして、電話の先のオペレーターにこの場所を的確に伝え終えると、今度は部下の襟下に手を伸ばし、ネクタイとカッターシャツのボタンを緩め始める。実に迅速かつ見事な対応である。このような頼りがいのある人物に対して、見かけだけで美味しくなさそうなどと判断した自分が恥ずかしい。
上司である男性の話よれば、彼の部下は午前中より顔色が悪く、彼の判断で早めに仕事を切上るよう指示したのだという。しかし、彼の部下は真面目な男であり、職場を後にしたのは定時を過ぎてからのことであった。
きっと、その無理が祟ってしまったのであろう。帰宅途中、若い男性は力尽き、今に至る。
白いワンボックスカーが赤いランプを回転させながら私達のもとへと到着した時、上司の男性は再度、私に向かって頭を垂れると、部下と共に車内へと消えて行く。
サイレンを鳴らしながら街灯の光の中へと走り去って行く救急車を見送った私の手に握られているのは、上司の男性より手渡された名刺。落ち着いた頃に連絡して欲しいとのことである。
本来ならば、向こうから連絡してくるべきなのだが……事態の緊急性を考えるといた仕方がない。私は名刺を持っておらず、彼等には私の連絡先を控えておくほどのゆとりは与えられていなかった。名刺を一枚手渡しておいて、後から連絡先を聞いた方がこの場合は効率的なのである。
このような臨機応変な対応が出来る人物とは一体何者なのであろうか?私は、手渡された名刺へと視線を落とす。
「○△通商株式会社、課長~~?」
聞いたことのない社名だが……まあ、いいわ。私は、獲物を逃した訳ではない。病が癒え、食べ頃になったら、また、会えばいい。
それまでは、別の獲物で飢えをしのごう。