#008 居酒屋で
「遅い……」
イラ立つ気持ちが思わず声に出てしまった。そしてココに来たことを少しだけ後悔し始めていた。
僕は新横浜にいた。
祐二に呼び出され、横浜アリーナにほど近い居酒屋に来ていた。
この居酒屋は僕と祐二がまだ一緒に働いていた頃、当時の会社の連中と何度か足を運んだことのある店だった。だからといって顔見知りが働いているわけではないし、特別な優遇があるわけではない。ただ待ち合わせ場所として、ココ以外に手近なところが見つからなかった、というだけのことだった。
昨晩、由佳里に強要され、僕は祐二に電話をした。
僕から彼に電話をするのはおそらく初めて……そして彼に女兄弟がいるということも初めて知った。
祐二は開口一番、「会って話したい大事な用事がある」と言った。
僕は直感的に「それが絵里に関係すること」なんだろうと思った。
本来なら彼とはもう関わらない方がいいような気もしていたのだが、絵里に関する話となればべつだった。
彼女の近況については、僕も大いに興味があった。
いまさらやり直そうと言う気はそれほどなかったが、彼女が何を考えて僕と離れることを選択したのかということは、機会があれば一度訊いてみたいと思っていた。
しかし……祐二はまだ来ない。待ち合わせの時間はとっくに過ぎているのだが。
以前、同僚だった別の奴が、「祐二は時間に正確な男だ」と言っていた記憶がある。
だけどいまのこの状況は、決して時間に正確な男の所行とは思えない。おそらくかの同僚がよっぽど時間にルーズな男だったか、若しくはこの僅かな期間で祐二が変わってしまったか……。
僕としてはどちらでも構わなかった。だが、彼に付き合って無駄な時間を過ごすようなことはゴメンだった。
四人がけのテーブルに一人で座る僕。
そして週末の居酒屋は次々と客を呑み込み、僕のテーブル以外は大いに盛り上がっている。
左手に嵌めた時計に目をやった。
時刻はもう七時四十分になろうとしている……。
僕はテーブルの上の、すっかり気の抜けたコーラのグラスを掴むと、それを一気に飲み干した。
もう限界だった。これ以上は待てない――
「北条! 悪い!!」
それは店の入り口の方から聞こえた。
聞き覚えのあるその声に不承不承振り返ると、ツナギ姿の祐二が僕に向かって手を合わせたまま歩いてくるところだった。
「ゴメン! だいぶ待ったよな?」
祐二は僕の向かいの席に腰を下ろすと、顔を歪め、もう一度僕に向かって手を合わせた。
「ああ。だいぶな――」
そう呟いた僕に対し、祐二は低姿勢のまま言い訳をすることもなく遅刻を詫び続けた。
そんな彼の態度に、僕は怒りを爆発させることができずに腹の中で燻らせることを強いられた……やっぱり僕は彼のことが好きにはなれないようだ。
「で……話って?」
僕は苛立ちを抑え、大人の対応で彼を促した。
しかし彼は得意の柔らかい笑みを浮かべると、「もうちょっと待ってくれ」と言った。そして「もう一人合流する」と……。
「もう一人……?」
僕は嫌な予感がした。
「べつにヘンな奴じゃねえよ」
そんなに警戒するなよ――。
祐二はそう言って苦笑いした。
「誰?」
僕はそう訊きながら心の中で構えていた。そして呼び出されるままにココに来てしまった自分に呆れていた。
「富井さ。このあいだ会っただろ?」
「富井?」
ああ……なんだ、あいつか。
僕は彼の名前を口にしてから思い出した。
このあいだ箱根で会った背の高い男。あまり話はしていないが、まあまあ感じのいい大人しそうな奴だった。
しかし僕は富井に用はない。彼も僕に用などないはず……まあ、AE86からAA63に乗り換えたいからアドバイスを――、という話なら考えなくもないが。
「あ。富井! コッチコッチ!!」
不意に祐二が叫んだ
さっきから入口付近を気にしていた彼は、ひょろ長いツナギ姿の男に向かって手を振った。富井だった。
富井は背を丸め、襟足の辺りを頻りに掻きながらゆっくりと僕らのテーブルに近付いてきた。
「じゃ、取りあえずこれで揃ったな――」
祐二は富井が座るのを見計らい、店員に声を掛けた。
やがてテーブルにはジンジャーエールのグラスが二つと、ジョッキに入ったビールが運ばれてきた。
僕と祐二はジンジャーエールに手を伸ばし、少し遅れて富井がジョッキに手を伸ばした。
僕はもともと酒を飲む習慣はないが、祐二は仕事が終わってからクルマで直接きたので「今日は止めとく」と言っていた。
しかし富井はいったん家に帰って、電車に乗ってココまでやってきたのだと言った。
彼の家は大曽根にあるらしい。大倉山駅までなんとかギリギリで歩けるところだと嬉しそうに説明してくれた。
それにしても……よく食いやがるな、コイツは――。
僕は富井の食いっぷり、そして飲みっぷりに目を奪われていた。
テーブルに料理の小鉢が並び始めたとき「誰がこんなに食えるんだ?」と不安になったが、富井はそんな僕の心配を余所にテーブルに並んだ料理を両端から順に片づけていった。
あまりの食いっぷりを見せつけられ、僕は少し胸やけがしてグラスに手を伸ばした。
「凄いだろ、コイツ」
祐二はにんまりとした。
「コイツの食欲は半端じゃない。酒も半端じゃなく飲むよ、ビール限定だけどな――」
祐二は呆れたような視線を富井に向けていたが、富井は気にする様子もなく、一瞬だけ僕を見て口元を弛めただけで、いまは追加注文の為のメニューを広げている。
一時間ほどすると、周りの席の客が入れ替わり始めた。
僕らのテーブルも料理の皿はきれいに片付いていた。しかし富井の飲むペースはあまり落ちていないように見える。僕と祐二は酒を飲まなかったから、富井の酒量の多さは際だっているように思えた。そしてその表情は、飲みはじめる前とだいぶ変わってきているような気が……まあ、気のせいであってくれればいいのだが。そんなことより――。
「で……話ってなんだよ」
一向に話を切り出す気配のない祐二に、僕は抗議の意味を込めて強い視線を向けた。
「おお――」
祐二はグラスに伸ばしかけた手を引っ込めると「すっかり忘れてた」と笑みを浮かべた。
忘れんなよ……。
僕は思ったが口にはしなかった。代わりにこれ以上ないくらいに大きなため息を吐いた。
「富井――」
祐二は富井をアゴでしゃくった。すると富井はもぞもぞとポケットに手を突っ込み、何か紙のようなものを取りだした。
祐二は富井の手からそれを奪うと、そっと僕の前に置いた。
短冊状の紙に見えたのはステッカーだった。
Racing-Team 九蓮宝燈――。
ステッカーにはそう描かれている……。
僕は嫌な予感がしてこの場を立ち去りたくなった。
「なかなかよくない? それ」
祐二はいつものキラースマイルでそう言った。
「なにが……?」
「ネーミングだよ」
彼は満足そうに言ったが、僕には田舎の暴走族の名前にしか見えなかった。
それに九蓮宝燈なんて縁起の悪い……和了したら死ぬって言われてる"役"だったはずだ。少なくとも峠を攻める奴らが付ける名前じゃない、と思う。
僕はステッカーを手に取って一瞥すると、少し首を傾げながら祐二に手渡した。
「で……これが、なに?」
「何って、おれたちのチームだよ。な――」
祐二はそう言って富井の肩を叩いた。
富井も赤い顔をしたまま大きく頷いている。
僕はさっきより大きくなっている嫌な予感に気付かぬふりで、氷しか入っていないグラスを手に取った。そして「……おれたちって?」と上目遣いで彼らの顔を窺った。
「おれたちって……おれたちだけど」
祐二は不思議そうな顔で、僕と富井の顔を順に見渡した。
僕はため息を吐いた。
もともと僕は連んで走ることが苦手だった。他人のペースに合わせることに苦痛を感じることすらあるくらいに。
「あとはこのあいだ一緒だった湊、それから稲尾って……おれたちと同期の奴なんだけど……憶えてるか?」
僕は首を振った。
「ま、他にもいるから追々紹介するよ。北条を入れて全部で十四人いるからよ」
「十四……?」
僕は思わず聞き返したが、祐二は満足そうに頷いた。
よくもそれだけヒマな人間を集めたものだと感心する。
しかし祐二って奴は交友関係の広い男だったから、これくらいの人を集めることなんて、わけのない話なのかもしれない……だとしたら尚更僕がそこに加わる理由はない――。
「聞くだけ聞いておいて悪いが……止めておく」
僕は言った。曖昧な態度で期待を持たせるのも悪いと思ったから。
「え……なんでよ? べつに会費があるわけでもないし……まあ、おまえにカネの話をしても意味ないけど」
祐二の笑みに、僕も付き合うように薄い笑みを浮かべた。
「一人が性に合ってるんだ。大した理由じゃ――」
「黙って入りゃあいいんだよ!」
突然の大声に、一瞬店内が静かになった。
声を上げたのは富井だった。
店員も心配そうに顔を覗かせたが、祐二は彼女に向かって「モスコミュール、大至急で」と、呑気にオーダーを入れた……。
この状況でカクテルを注文する彼の心境が僕には理解できない。というより豹変しちゃったけど……なんなの、コイツは。
「北~条――」
「……なんだよ」
「同期の人間の一人として、おれは言わせてもら~う――」
富井は肩を揺すりながらテーブルに身を乗り出した。
しかし右手に握ったジョッキは決して離そうとはしなかった。
「いいか、よ~く聞け。おまえって奴はよ――」
富井は時折視線を宙に彷徨わせながら、鼻の穴を膨らませながら、満足そうに演説をぶちはじめた。
しかし、彼の話は僕にとって目新しいモノではなかった。
以前、誰かに指摘されたことであったり、僕自身が自覚しているモノばかり……。ただ、普段は人当たりの良いこの男の「僕に対する本音」を垣間見たようで、少しだけ嫌な気持ちになったのは確かだった。
「よ~しよしよし! わかった、わかった――」
祐二は宥めるように富井の肩を叩くと、テーブルに運ばれてきたばかりのモスコミュールのグラスを富井の口元に押しつけた。
「おまえの話はよ~くわかったから、取りあえずコレを呑め」
完全に目が据わった状態の富井だったが、素直に祐二からグラスを受け取ると、一息にそれを飲み干した。
そして……間もなく富井はテーブルに突っ伏した。
同時に鼾が聞こえてきて……富井は麻酔が効いたかのように寝入ってしまった。
「なんなんだよ、コイツ……」
僕は寝息を立てる大男に醒めた視線を送った。
「おお、笑っちまうだろ」
祐二は富井の頭に乗せた掌を二、三回バウンドさせた。
「コイツってさ、ビールはいくらでもいけるんだけど、なぜか他の酒はダメなんだよ。だからああいうふうに悪酔いしてるときには寝かせちまうのさ」
唇の左端をきゅっと上げて微笑する祐二――。
さながら猛獣使いのようだ、と僕は思った。
富井が寝てしまったこともあって、僕らは散会した。
祐二が富井のポケットを探り、彼の財布を取り出すと、そこには千円札が一枚しか入っていなかった。
彼が電車で来たということを考えると、おそらく帰りの電車賃に充てようとしていたことは間違いないのだが……。
結局、富井の財布から札を抜き取り、残りを僕と祐二で割った。
富井を両脇から抱えた僕らは、店から五〇メートルほど離れた時間貸しの駐車場に向かった。
「コイツはおれが送っていくよ」
どうせ通り道だからよ――。
祐二は仕方がないと言った表情で言った。
「そうだな……頼むよ」
言いながら、なぜ僕が「頼む」必要があるのかよくわからなかったが。
「あ、おれのクルマ、こっちだから」
祐二は左の路地をアゴで指した。
富井を抱えたまま路地を入っていくと、そこには十台分ほどの駐車場があった。たぶん半年まえにはなかったように思う。
祐二のAE86は、その駐車場の真ん中あたりに停まっていた。
「ちょっと待ってな」
祐二はポケットに手を突っ込み、キーを取り出すと助手席のドアを開けた。
僕らは富井を助手席に押し込むと、四点式のベルトでシートに括り付けた。
泥酔している富井は大人しいモノだった。
声を上げることも、暴れることもなく、ただ静かに寝息を立てている……いい気なものだ。
「サンキュ。助かったよ。さすがに一人じゃキツいしな」
ムダにデカいからな、コイツは――。
祐二は助手席に収まった富井を見て笑った。
「取りあえず……今度の土曜日、チームの初顔合わせだから。また時間とかは連絡するよ」
「いや――。だからさっきも言ったが――」
僕は言いかけて言葉を呑み込んだ。
「そんなに構えるなって。べつに特別な縛りがあるわけじゃないし……軽い気持ちで参加してくれりゃあ、それでいいんだ」
祐二は柔らかい笑みを浮かべてそう言った。
「それに毎回参加しろとも言ってない。十四人もいるから毎回全員が揃うこともないだろうし」
まあ、確かに……。
「北条は北条の都合で参加してくれればいいんだよ。仲間が多い方が絶対に楽しいしさ」
祐二は僕の顔を窺うと、意味ありげに口元を弛め、運転席のバケットシートに身を沈めた。
AE86のエンジンが掛かり、大きな排気音が響き渡る――。
「なあ、北条」
運転席の窓が下がり、祐二が顔を出した。
「おれは北条のAA63が結構好きだからさ……他の奴らにも見せてやりたいんだ、おまえのAA63の走りを」
じゃ、またな――。
爽やかな笑顔を残し、祐二のAE86は夜の街へと走り去った。
「なんなんだ、あいつ……」
僕はバツの悪い気持ちに包まれていた。
祐二と話をしていると、いつでも自分の幼さを思い知らされる。自分の言動や態度が、ただのわがままのようにも思えてくる。
だから……僕は祐二が苦手だった。
彼と一緒にいると、自分の至らなさが際だつようで自己嫌悪に陥ってしまう。僕の中にある「理由のない劣等感」を祐二の存在があぶり出すような気がして――。
僕は今さらながら、今日、ココに来たことを後悔していた。




