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#079 last piece


 真暗な道はドコまでも続いていた。

 視界を閉ざす闇は深く、リトラクタブルヘッドライトから放たれる強い光でさえ霧のように掻き消され、たちまち漆黒のなかへと取り込まれてしまう。

 ステアリングにしがみついた僕は暗闇の先へと視線を向けていた。落ち着かない気持ちを抱えながら、出口の見えない闇の中へ目を凝らしていた。

 そのとき視界の片隅で何かが光った。

 遙か前方に小さな二つの光があるのが見えた。微かな赤い光は小刻みに左右に揺らめいている……。

 僕はアクセルを踏み込んでいた。

 真暗な闇のなかにようやく現れた目印。見失わないよう瞬きもせず、チカラのかぎりにアクセルを踏み込んだ。

 やがて目の前に迫った赤い光。

 ヘッドライトに照らし出されたのはKP61スターレットのテールランプだった。

 そしてその先へと続いているヘアピンカーブと見覚えのあるガードレールのキズ……このときになってココが大垂水峠だということに気が付いた。

 次の瞬間、KPのブレーキランプが僕の視界を真っ赤に染めた。

 急制動とともにスープラのノーズに急接近したKPは、車体をセンターライン方向に僅かに振った。そしてテールを滑らせながら左コーナーへ飛び込んでいくと、そのまま連続するS字コーナーを躍るように駆け抜けていった。

 S字を抜けて束の間の直線が現れるとKPはさらに加速した。この先には「なかがみ屋」のギャラリーコーナーが待ち受けていた。

 追い縋る僕を引き離すかのように加速したKPは、ギャラリーコーナーの手前でフルブレーキングを決めると、ど派手なスキール音をまき散らしながらテールを流し、そのままギャラリーの前を高速で駆け抜けていった。


 KPは速かった。

 コーナー毎に振り切られそうになりながら懸命にその背中に追いかけた。

 ぎりぎりの焦燥感と灼けたタイヤの匂い、そしてコーナーごとに跳ね上がるエンジン音と追いつきそうで追いつけないテール。そのすべてが無性に懐かしかった。

 思えばTZRで「緑山」を走りはじめた頃から、僕はずっとこの背中を追いかけてきた。

 単車から四輪、そして舞台は大垂水峠へと変わっていたけど、僕らのこの関係だけはずっと変わらなかった。彼は僕の憧れだったし、決して追いつくことのできない大きな存在でもあった。そしてその刹那的な速さに触れるたび、僕は「死」の存在を意識し、リアルな「生」に気付かされた。

 僕の前にはいつも彼が走っていた。

 僕の進むべき道の先には、いつでも彼が描いたコーナーリングラインが続いていた。




 真暗な道は相変らずドコまでも続いていた。しかし心細さはもうなかった。

 小さなコーナーが続く道には見覚えがあったし、僕の前にはKPのテールがあった。しかもいまではさっきまでのように振り切られることもなくて……

「……?」

 ふと妙な感覚が僕のなかに下りてきた。というより走りをセーブしている自分に気付いた。

 さっきからKPのテールに接近しすぎるたびにエンジンの回転数をキープしながら速度を落としている。相変わらず一定の車間距離は保っていたが、それをコントロールをしているのは間違いなく僕の方だった。

 逆に彼の走りには余裕が感じられなくなっていた。

 彼が描くコーナーリングラインが、僕の描くソレと少しずつズレ始めている。僕の走りは彼の走りを上回りはじめている。

 憧れていた背中――。

 その存在がいつのまにかストレスになりつつあった。



 ……あぶないなあ。



 不意に助手席からそんな声がしたような気がした。

 声に振り向こうとした瞬間、突然KPが速度を上げた。その甲高い排気音に呼応するように僕はアクセルを強く踏み込んだ。しかし――


 ……あれ?

 しかしスープラは無反応だった。

 シフトダウンしてもう一度アクセルを踏み込んでみたが同じだった。

 いつもなら即応してうなりを上げる7M-GTエンジンがいまは眠ったように沈黙している。

 そしてそんな僕を嘲笑うように、KPはさらに速度を上げていった。

 狂ったように加速していくKPのテールを睨みながら、僕は歯ぎしりをする思いで何度も何度もまるで手応えのないアクセルを踏みつけた。

 しかし僕らの距離はどんどん広がっていく一方だった。これ以上離されたら追いつくことなんてできなくなってしまう。追いつきそうだった背中が遠のいていく――


「――?!」

 暗闇の向こうでKPが跳ねた。

 赤いテールランプが音もなくバウンドした。

 そして次の瞬間、テールレンズは爆ぜるように砕け散った。

 粉々になって舞い上がったテールレンズがまるでスローモーションのようにゆっくりと闇に取り込まれていく――。

 やがて最後のひとかけらが闇の中に融け込んでいったとき、僕は我に返って何かを叫んだ。

 しかしその叫びが声になることはなかった。

 まるで音のない世界に嵌りこんでしまったかのようにどこまでも静寂が広がっていた。そして……沈黙にも似た漆黒が再び僕のすべてを閉ざしてしまった。



 ……あ~あ。だからいったのに。



 また声が聞こえた。

 振り向くと、助手席にはいつのまにか女が座っていた。

 暗がりのなか顔は見えなかった。だけどその声がわからないはずがなかった。彼女の声を僕が忘れるなんてありえなかった。彼女のことを忘れるはずなんて……








 ……ん?

 遠くで微かな電子音がなっていた。

 あたまの中に直接響き渡るような耳障りな音――それが電話の呼び出し音だと気付いたのは、部屋が沈黙を取り戻したときだった。

 いつの間にか眠っていた……らしい。

 顔を上げた僕は、目をこすり、焦点の合わない視線を巡らせた。

 ブラインドの隙間からは薄い光が射し込み、きれいに片付いたテーブルの上を照らしていた。

 キッチンに視線を伸ばすと、水切りカゴには二つのコーヒーカップがまだ水滴が残ったまま収まっていた。

 樫井を見送ったところまでは記憶があるのだが……きっと無意識のうちに片づけをしてから寝入ってしまったのだろう。几帳面さには我ながら感心するほかない。


 結局、樫井は明け方までココに居座った。

 半ば無理やりといった感じで上り込んできた彼は、とくに話が盛り上がったワケではないのになかなか帰ろうとはしなかった。たった一杯の冷めきったコーヒーを片手にいつまでも居座り、他愛のない話題を次々と並べたてていった。

 そんな彼が重い腰を上げたのは、窓の外が白みはじめた頃になってからだった。

 急にスイッチが入ったかのように立ち上がった樫井は「じゃ、またな」といって慌ただしく帰っていった。呆気にとられる僕を振り返ることもなく、彼のAE86は爆音を響かせてガス山通りを駆け下りていった。



 そんなこともあっていつもより早く身支度が整った僕は、出勤時間を少し早め、本牧通り沿いのコンビニに立ち寄った。

 スープラを路上に残して店内に駆け込むと、烏龍茶とカロリーメイト、そしてレモン味の飴をつまみ上げてそそくさと会計を済ました。そして行き交うクルマの間隙を縫って素早くスープラに乗り込みエンジンを掛けると、ウインカーを灯すのとほぼ同時にアクセルを踏み込み、流れの悪い車列の隙間へと滑り込んだ。


 麦田をすぎ、トンネルを抜けると正面の信号が黄色に変わったのが見えた。

 すぐ前を走っていたクルマが慌てたように速度を上げたのを冷ややかに見送った僕は、停止線ぎりぎりにクルマを停止させた。そしてスピーカーから流れてくる交通情報に耳を傾けながらカロリーメイトの封を切った。


 県内の一般道には目立った渋滞はない、無機質な声はそういっていた。

 僕はカロリーメイトをくわえながら、頭の中で「今日の通勤ルート」を組み立てていた。

 国内有数の渋滞区間を通過しなければいけない関係上、僕は常に複数の通勤ルートを用意し、その日の渋滞状況に応じて使い分けている。

 そんな僕にとっては「渋滞がない」というのは「全線渋滞」と同じような意味を持っていた。選択肢が無数に広がって、却って判断に迷う厄介な状況だともいえたのだ。


 信号が青に変わった。

 隣のクルマがフライング気味に飛び出すと、少し出遅れた僕は乱暴にアクセルを踏み込んだ。

 暴れかけた後輪のトラクションを抑えてシフトを上げていく。

 伸びやかな加速を見せたスープラはすぐにフライングしたクルマのテールを捉え、難なく躱した。そして左車線に移ると、横浜スタジアムの脇からクランクを抜けて桜木町方面へと向かった。

 直線道路に入ると、目の前を行くバンを躱してさらに乱暴にアクセルを煽った。

 レスポンスを確認したい、そんな衝動に駆られていた。どういうわけか無性にアクセルを踏みつけたい気分だった。

 そんな意味もなくメリハリの利いた走りは紅葉坂の交差点で赤信号に捉まるまで続けられた。


 紅葉坂の交差点で停止すると、ヘッドレストに頭を押しつけ、大きく息を吐いた。

 さっきからなんだか頭が重い。

 ココのところ寝つきの悪い夜が続いているから、それが原因のひとつだというのは容易に想像がつくが……たぶん今日にかぎってはそれだけではないような気がしていた。


 僕はコンソールボックスに手を伸ばした。

 そしてさっき買ったばかりの飴を手に取ると、片手で封を切り、一粒を口に放り込んだ。

 コンソールボックスに飴を戻すと、後ろから聞こえたクラクションに急かされるようにアクセルを踏み込んだ。いつのまにか信号は青に変わっていた。


 昨夜……いや、つい数時間前、樫井が帰ってからの僅かなあいだに僕は浅い眠りにおち、そしてたぶん夢を見た。

 内容までは憶えていなかったが、なんだか懐かしいようなそうでもないような……とにかく何も憶えてはいないのに、妙な後味の悪さだけが頭の片隅に残っていた。

 なんとか思い出せないものかとさっきから無駄な努力は続けているが、イメージがカタチになる気配はまるでなく、それどころか夢の断片に触れようとするたび胸の奥が鈍く疼いた。

 それはまるで思い出そうとする僕を拒絶しているかのようで、それこそが「ロクな夢ではない」ということを暗示しているようにも思えたのだが……。


「……ん?」

 僕はコンソールに戻した飴をもう一度手に取った。

 見慣れたパッケージはいつもと同じものだった。もう何年もこれ以外の飴は口にしていないから間違えるはずもない。

 しかし口のなかに広がったレモンの酸味がいつもより強く感じた。そして苦い後味を残していた。




***


 会社に着くと既に工場のシャッターは全開だった。

 エアコンプレッサーの駆動音が響くなか、ツナギ姿の熊沢が修理車のエンジンルームを覗き込んでいるのが見えた。 

 その隙だらけの後姿は「僕の存在にはまるで気付いていない」様子で、僕のなかに眠っていた悪戯心を揺り動かしたが……首を振ってそれを自重した。


「おはようございます」

 僕は少し離れたところから声をかけた。

 ゆっくりと振り返った熊沢は僕の姿を認めると「おう」と右手を掲げ「無事に帰れたか?」といつも以上にハスキーな声でいった。

「とりあえずは、無事ですね」

 僕は曖昧に首を動かすとアクビを噛み殺していった。

「なんだよ、眠そうだな」

「そうですね」

 僕は他人事のように呟いた。

 あきらかに調子がいいとはいえない僕とは対照的に熊沢の表情は溌剌としていた。

 髪の毛は寝ぐせがバッチリだったが、目元はいつもよりもパッチリしている。かなり腹立たしいくらいだ。


 昨夜、熊沢はココに泊まった。僕がココまで送り届け、そのまま彼は夜を明かした。

 近くで飲んだときなどにはたびたびそうしているらしいのだが、この事務所のドコに眠れるスペースがあるのか僕には見当がつかなかった。

 一応、接客用のソファはあるが、大人が眠るには明らかにサイズが足りない。スペース的には「床」という選択肢もあるが、それもちょっと考えにくいし――。


「そういやあ、さっき松井清和から電話があったぞ」

 熊沢が呟いた。

「松井、ですか」

 僕は思わず眉をひそめた。

 奴とは先週から何度も顔を合わせていた。言われたとおりに試運転にも同乗させてたりして。

 それはともかく月曜日の朝イチで耳にはしたくない固有名詞だった。

「今度はなんの用ですか」

 僕は不信感を隠さずに言った。いったいこれ以上なにをしろと――。

「例のモノが出来上がったってよ」

 熊沢は僕の心を見透かしたように笑った。「ヒマだからあとで届けてくれるってよ」。


 例のモノ――。

 ロムが出来上がった。

 走りを変える松井のロム。それは天使に勝つためにどうしても必要な最後の1ピースだった。


「あ。そういえば、そろそろ帰ってくるみてえだな」

 なにかを思い出したようにそう言った熊沢は、軍手を脱ぎ捨て工場を出て行った。

 程なく戻ってきた彼の手は届いたばかりの朝刊が握られていた。




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