#078 真夜中の追跡者
熊沢を送り届けた僕は、永代通りを都心へと向かっていた。
時間的にも「首都高速に乗って帰ろう」と思っていたのだが、気が付いたときには塩浜の入口を素通りしていた。
高層ビルの居並ぶ都心を抜け、第一京浜の直線へと入る。
遙か前方にはバスが走っているのが見えた。
僕はそれをぼんやりと遠目に眺めていたが、いつのまにかすぐ目の前まで迫っていた。
制限速度を少し超えて走る横浜ナンバーの観光バス。
いつもなら考える間もなくぶち抜いているはずだったが、なぜだか今日にかぎってはそんな気分でもなかった。
僕はあえて追い越すことはせず、やや速度を落として車間をあけた。
今日の僕は少しだけ穏やかな気分だった。理由らしい理由は見当たらなかったが……いつもとは違う自分に首を傾げたくもなる。
ジムカーナを走った日の夜、普段の僕は決まって首都高へと向かっている。
いったん家には帰るモノの何となく落ち着かない気分に囚われ、気が付くとスープラのアクセルを踏み込んでいる。溜まりきった日中のフラストレーションを吐きだすように真夜中の環状線を駆け回っている。
しかし今日はなんだかまったりとした気分になっていた。
まさか「いいタイムが出たから」なんてことはないのだろうと思うが……とりあえず、今日の僕にはクールダウンなど必要ないみたいだった。
六郷橋を過ぎ、競馬場前の高架を通過した。
まもなく川崎駅前だったが、ここまでは渋滞に遭うことも、信号に捕まることすらもなかった。
いつもこんな感じなら本当に助かるのだが……
あれ……?
不意に目の前の景色が変わっていることに気付いた。
さっきまで一緒だったバスの姿がない。鈴ヶ森を過ぎたあたりまでは間違いなく前を走っていたはずなのだが……忽然と姿を消してしまっていた。
僕は首を傾げた。
あんな大きなモノが目の前から消えても気付かないなんて普通じゃあり得ない。
しかし現実にさっきまで前方を塞いでいたバスはいなくなっていた。いまでは遙か先の信号が青に変わったことまで確認できるくらいだ。
僕はため息を吐いた。
最近よくこういうことがあった。意味のない考えごとをしている時間が以前よりも飛躍的に増えている。
とくに悩みを抱えているという意識はないが……まあ、あるとすれば祐未さんと会う機会が減ったということくらいか。
一弥君が目を醒ましてから約半年、彼女とは以前ほど頻繁に会っていない。連絡は毎日のように取りあっているが、お互いに一方通行のやり取りが続いている。
だからと言ってべつに一人でいることは苦痛ではなかった。少なくとも実家にいた最後の数年間と比べれば精神的な負担はゼロみたいなものだ。
だけど彼女と会えない夜、僕は突如として感情のバランスを崩すことがあった。眠りにつけない夜がまた増えてきている。
そんなときにはアルコールに寄り添うか、ステアリングを握って環状線に繰り出すか……いずれにしても何かに依存していないと無事に朝を迎えられないような気分になる。
ま……仮に「本当に朝を迎えることがなかった」としても、僕自身が困ることなど何もなかったのだが。
そんなことを考えているウチに鶴見川に架かる橋を越えた。
それにしても真夜中の第一京浜はガラガラだった。まるで貸し切りのような状態だ。
いつもなら僕の走りを邪魔する信号も次から次へと青へと変わっていく。まるで僕の走りをサポートしてくれるかのようだ。
生麦を通り過ぎたところでミラーに目をやった。
ソコには突然脇道から現れた一台のクルマがあった。
ミラー越しでは車種までは分からなかったが、軽い排気音からライトウェイトクラスだということは推測できた。
そのクルマは僕を追い越すこともなく、わざわざ僕の背後にぴったりと張り付いている……なんだか感じが悪い。
僕は軽くアクセルを煽ると右にウインカーを出した。
スープラは反応よく加速したが、背後のクルマもまるで予期していたかのように加速して車間を詰めてきた。なかなか好戦的のようだったが……。
僕はアクセルを弛めると再び左車線に移った。速度を落としてやり過ごすことにした。
しかし背後のクルマは同じように車線を移り、再びぴったりと僕の後ろに張り付いてきた。しかも執拗にパッシングを浴びせてきて――。
「……なんなんだよ」
僕はため息を吐いた。
繰り返しになるが、今日の僕はそんな気分ではなかった。しかし……やる気満々の追跡者にこのまま家の前まで付いてこられても却って迷惑だし――。
僕は右にウインカーを出すと、シフトを落としてアクセルを踏み込んだ。
背後のクルマはさっきと同じように後ろに張り付いてきたが、7M-GTの咆吼が響くとその差は瞬く間に広がった。
速度をキープしたまま警察署の前を通過し、青木橋の緩やかなクランクに飛び込む――。クランクの出口でテールが若干流れたが、アクセルワークで立て直すとさらに加速した。
そして「そごう」の横から出てきたタクシーを躱すと左車線に入り、テールをスライドさせながら高島町の交差点を桜木町方面へと向かった。
東横線沿いの直線に入ったところでようやくアクセルを弛めた。
ミラーを窺ってみたが、ソコにはもう追跡者の姿はなかった。
ったく、手間かけさせやがって――。
僕は跳ね上がるエンジン音に耳を傾けながらシフトを落としていった。正面の信号は黄色から赤に変わっていた。
そのとき、スープラのエンジン音にノイズが混じった。それは後方から聞こえてきた甲高い排気音だった。
もう一度ミラーに目をやった。ソコには猛スピードで迫ってくるヘッドライトが見えた。
あっという間に差を詰めてきたそのクルマは赤信号で停止した僕の隣にピッタリとつけてきた。
「――ったく、しつこいなあ……」
僕はため息を吐くと、隣りに止まったクルマを一瞥した。
クルマはAE86レビンだった。何の変哲もないよくある白黒ツートンで――
……ん?
運転席の人物が手を振っていた。
その刹那、対向車のヘッドライトが視界を横切った。
照らし出された運転席……男の耳元にはピアスが光っていた。
***
「おまえ、トバしすぎ。捕まっちまうぞ、マジで」
樫井は呆れたように呟いた。
生麦のあたりからずっとくっついてきていたのは彼だった。
「パトカー程度なら振り切れるさ」
白バイは微妙だけど――。
僕は戯けて嘯いたが、樫井は真顔で「だろうな」と面白味のない台詞を口にした。
樫井はなぜか僕の部屋に上がり込んでいた。
紅葉坂の信号待ちで言葉を交わした後、彼はあまりにも自然な空気をまとって僕の後についてきた。
そしてそのまま家の前までやってきた彼は「だって立ち話もなんじゃん。それに寒いし」と僕の都合を確認することなく、AE86のエンジンを切った。
「それにしてもずいぶん遅くまで仕事してるんだな」
樫井は見当はずれな言葉を口にした。
「まさか」
僕は首を振った。
「さすがにこんな時間まで仕事はしないよ」
コーヒーでいいだろ――。
「おお、悪いな。じゃ、走りに行ってたのか?」
「いや。じじいのお守り」
僕は鼻で笑った。
樫井もすぐに意味がわかったらしく「そいつは難儀だったな」と苦笑した。
樫井がこの部屋に来るのは僕がココに越してきた日以来だった。
あの日ココに集まった奴らのうち、いまでも会う機会があるのは祐二と富井くらいだった。
樫井とも最近は顔を合わせる機会がない。僕が「丸蓮宝塔」の走行会に参加していないというのもあるが、彼も僕らの走行会に積極的に参加してくる様子がなかった。
その「丸蓮宝塔」も最近ではほとんど活動していないらしい。
樫井と湊はいまでも箱根あたりを走っているようだったが、それ以外の奴らが参加することは稀で、伊藤と日野に関しては完全に音信不通の状態になっているらしい。
そして樫井の愛車はトレノからレビンに変わっていた。彼の自慢だった「燃えるようなオレンジ色」のトレノは、箱根の旧道の七曲がりで側壁に激突して横転し、本当に燃えてしまったらしい。幸い怪我人はなかったが、旧道が一時通行止めになるほどの騒ぎだったそうだ。
「そういや、なかなかの活躍らしいじゃん」
樫井の言葉に僕は顔を上げた。
彼は僕と目が合うと口角を上げたが、僕は「何のことだかわからない」とでもいうように小さく首を傾けた。
「ジムカーナだよ」
樫井は少し焦れたように言った。
「ああ……」
僕はわざとらしく頷いた。
「毎回、上位なんてすげえじゃん。結構巧い奴もいるんだろ?」
「まあね」
「それにスポンサーも付きそうなんだろ」
「誰に聞いたんだよ」
もう知ってんのかよ――。
「え? あ、ああ……富井とか堤さんとか……」
「……堤?」
僕は首を傾げた。
「あ、いや、え~と……と、とにかくだ。次の大会は見に行くから。他の連中も誘って絶対に見に行くから」
身を乗り出してきた樫井は矢継ぎ早に言った。
そんな彼の勢いに圧された僕の疑問はその行き場を失ってしまった。
「そういえばさっきからなんか光ってるけど」
樫井が僕の背後を指さした。
視線の先には電話があった。留守電の着信を知らせる再生ボタンが赤く点滅している……きっと祐未さんから、だった。
「ああ、どうせ実家だよ」
僕は肩を竦めながら無関心を装って言った。
「ふ~ん。いいのか、聞かなくて」
「ああ。聞かなくても内容はわかってる」
いつもの生存確認さ――。
僕は無関心を装い背を向けたが、口元には苦い笑みが浮んだのがわかった。
「そういや、北条んちってレストランだったよな」
樫井が呟いた。その台詞に僕はあからさまな態度でため息を吐いた。
「以前にも言ったけどレストランってわけじゃ――」
「似たようなモンなんだろ」
樫井は首を傾げて僕の言葉を遮った。
「継がないの?」
立て続けに言ったが、今度は僕の方が首を傾げた。
すると樫井は「親の仕事だよ」と興味深そうな目で呟いた。
「ああ――」
僕は合点して頷いた。
父の後を継ぐ……まったく考えたことがなかったわけではない。
父が手がけたレストランは幼い頃の僕にとっては自慢のひとつだったし、僕自身が「厨房に立つ」ということに興味を持っていた時期もある。
だけどそれは、僕が「父の仕事」をなにひとつ理解していなかった頃までの話だった。
「……考えたこともないね」
不意に浮かび上がってきた憎悪を抑え、僕は静かに呟いた。
「ふ~ん、なんでよ」
樫井は能天気な声を出した。
「だって放っておいても社長になれるんじゃねえの?」
そういって不思議そうに首を捻った。
その邪気のない表情に僕の心は少しだけ軽くなったような気がした。
「さあ、どうだろ。父はそう思ってないかもしれないし」
僕は笑みを隠さずに言った。
「仲、悪いのか?」
「よくはないね」
残念ながら――。
僕は肩を竦めると「樫井の方はどうなんだよ」と逆に問い返した。
「は?」
「親。仲はいいのか?」
一瞬呆けたように目を丸くした樫井だったが、やがてその口元には薄い笑みが浮かんだ。
そして少し考え込むように視線を落とすと「もう忘れた」と何の感情もこもっていない声で呟いた。