#077 Advantage
「いっつも思うんだけどさ……」
慣熟歩行の足を止めた祐二は腰を屈めた。そして路面を指先で撫でると「ほんっとにひでえよな。ココのコースって」と呆れたように言った。
東京ベイサイドの路面はいつも以上に荒れていた。
晴天続きで乾燥しきっているようで、アスファルトはひび割れ、ところどころ砂利が浮いていた。
「調子こいてサイドなんか引いちまうとコースアウトしちまうんじゃね?」
荒れるな、今日は――。
いつも以上に饒舌な祐二は、僕と富井を見上げると他人事のように苦笑した。
週末のジムカーナ。
コース上にはコース図を手にした参加者たちが溢れるお馴染みの光景。
ソコには上位入賞の常連組も、初めて見る顔もあったが、それぞれにコース攻略の糸口を求めて歩き回っていた。
「やっぱ、コイツをどうクリアするかが一番のポイントだよね」
富井が呟いた。
目の前のパイロンを足先で指した彼は、その軽い口調とは裏腹に深刻そうに眉間に皺を寄せていた。
確かにスタートから三つ目にあたるこのパイロンは「コース攻略のカギ」になりそうだった。
僕の考えるブレーキングポイントと路面の凹凸が微妙に重なっている。
進入ライン……若しくはブレーキのタイミングをずらせばいいのかもしれないが、次のターンへのつながりを考えるとそれほど簡単な話じゃないのは間違いない。
過去にはアバウトなアプローチをしてパイロンタッチを連発したコトもあったし……。
「つってもよ、結局は何とかしちまうんだろ? おまえら二人は――」
祐二は口元を歪めて言った。
「表彰台の常連だもんな、オレと違って」
「確かにそうなんだけどさ」
間髪入れずに富井が答えた。
ナニも考えていない富井は、祐二の皮肉にまったく気付いていない様子だった。
「だけどさ、なぜか北条君には勝てないんだよな」
富井は不思議そうに首を傾げた。
「そりゃ仕方ねえよ」
祐二は白けたような笑みを浮かべた。
「ちょっと特別だからな、北条の速さは」
な――。
そう言って僕を覗ってきたが、僕は何も言わずにそっと顔を背けた。
祐二に言われるまでもなく「速い」ということについては自覚している。しかしそれが「特別」なのかと問われれば首を捻るしかなかった。
僕が高校生の頃、緑山にも大垂水峠にも、僕より速い人なんてゴロゴロしていた。一弥君をはじめとして、僕の周りはいつでも「速い人たち」であふれていた。
あの頃の僕は幾度となく彼らに勝負を挑み、そしてイヤと言うほど背中を見せつけられた。振り切られずに後をついていくのが精一杯。彼らは正真正銘の実力者たちだったのだ。
そんな「実力者」たちも、僕が四輪に転向したころには見かけなくなった。
まるで示し合わせたかのようにヤマを下りていった理由については、僕としても気付いていないわけではなかった。しかしそれを口にする機会もなく、彼らがいなくなった峠で彼らの幻影を追いかけてきた。決して追いつくことのない背中をイメージしながら……。
それはともかく、「なぜか勝てない」という富井の台詞には違和感を覚えた。
タイムトライアルであるジムカーナは、いままで走っていた「公道」とは違って競り合う相手がいない。強いて言えば時計の針と競っているようなモノだった
だから表彰台に立っても「勝った」という実感はあまりなかった。時間を計測しているぶん「何よりも明確な勝敗」がソコにはあったのだが……それは僕の思う「勝ち負け」とはずいぶん違っているような気がしていた。
ひととおりの下見を終えて周囲を見渡すと、コースの人だかりはだいぶ掃けていた。残っているのはよく見る顔……上位入賞の常連組だけだった。
僕は左手に嵌めた時計に目をやった。
八時四十五分か――。
ブリーフィングまではまだ少し時間があった。
僕は折りたたんだコース図をもう一度広げ、辿ってきたコースを俯瞰した。
無数に配置されたパイロンを眺めながら、コースをクリアしていく自分をイメージして――。
「――富井も自分のクルマで出ればいいじゃんよ」
不意に祐二が言った。
「ダブルエントリーはきついだろ。ゴマカシがきかねえし」
彼はそう続けると意味ありげな笑みを僕に向け「比べられるのもストレスになるしな」と肩を竦めた。
「確かにねえ……」
富井は諦めたようにため息を吐いた。
「結局、北条君に勝つにはクルマの性能に頼るしかないってコトか――」
僕と富井、そして祐二の実力差――。おそらくそれは僅かなモノでしかなかった。
しかしソレは決して埋まることのない差だと僕は確信している。
僕にあって彼らにないモノ。いや、逆に僕が持ち合わせていないモノ……たぶんそれはスピードに対する恐怖心。それこそが僕の走りの源泉だと言えた。
そしてその小さな差がある限り、僕が彼らに負けることはないような気がする。少なくとも彼らがそれに気付かないかぎり、クルマの性能を上げたトコロで何も変わらないのだろう。
ま……とは言っても十分すぎるほどの安全マージンが設けられた「競技会場」なんかではそのアドバンテージが活かされているとは言い切れないのだが……
不意に門田の顔が脳裏を掠めた。
つい数日前に言われた言葉がよみがえってきた。
それじゃ勝てないだろ――。そう呟いた彼の本意がドコにあるのかはわからない。
ただ、もしかしたら彼には見えていたのかもしれない。
僕が天使に勝てない理由、僕と天使の実力差、天使にあって僕にないモノ……何も語ってはくれなかったが、僕と彼女の両方を知る彼にはそれが見えているのかもしれない。僕が気付いていない「彼女との差」が――。
「……ん? ナンか言ったか?」
無意識にこぼれた言葉に祐二が反応した。
「いや、べつに」
僕は首を横に振ると、祐二の視線を遠ざけるようにコース図に目を落とした。
そして競技会を走り終えた日曜の夜……。
いつもならとっくに解散して家でくつろいでいる時間だったが、今日は熊沢たちに連れられ錦糸町駅にほど近い居酒屋に来ていた。
ココの店主と熊沢は顔なじみのようで、熊沢は店に入るなりカウンター内の店主に向かってブロックサインのようなモノを送った。すると店主は無言で店の奥を指さした。
奥には座敷があった。
中央にテーブルを配した横長の畳部屋に入ると、熊沢は各人が座る位置をいちいち指定した。そして全員が席に着くのを見計らってから、独断で飲み物のオーダーを入れた。
「いやあ、今日の走りはナイスだった!」
熊沢はそう言って富井、祐二そして僕の頭を順番に掻きむしった。
そのテンションを嫌って僕は僅かに背を向けたが、熊沢はまるで気付いていないかのように僕の隣に腰を下ろした。そして上機嫌で僕の首に腕を引っかけると、突然頬ずりしてきた……あまりにも不快だ。
今日の競技会で僕は三戦連続となる優勝を果たした。
最近の安定した好成績の理由は、ジムカーナという競技に慣れたというコトより、CR-Xの細かい挙動をようやく掴んだというコトの方がより大きかった。
それはともかくとして、今回の優勝は熊沢にとって大きな意味を持っていた。
「花沢専務がすっげえご機嫌でさ、『いいじゃないか、あの24番』とか言っててよぉ――」
上機嫌な熊沢はトリシマリヤクの声色を真似て戯けた。
花沢専務というのはタイヤメーカーのお偉いさんだった。
今日の大会は主催者であるタイヤメーカーの取締役が見に来た御前試合ともいえる大会だったのだ。
そしてゼッケン「24」を付けた僕は、一本目、二本目ともに参加者トップのタイムを叩き出した……つまりは完全優勝だった。
「で、来年は全面的にウチをサポートしてくれるってよ!」
「ホントかよ?!」
吉井が眼鏡を光らせた。
他の人たちも熊沢の顔を覗き込んでいた。
「ホントホント。専務直々にだぜ? イエ~イッ! イエッ、イエッ!」
熊沢は何度もこぶしを突き上げた。
こんなにはしゃいでいる熊沢を見るのは初めてだった。
いい歳してナニが「イエイ」だ――。
烏龍茶のグラスに口をつけながら、僕は醒めた気持ちでソレを聞いていたが、見渡した限りではそんな事を考えているのは僕だけのようだった。みんながそれぞれに「熊沢の言葉の意味」を受け止めているように見えた。
タイヤメーカーの全面サポート……つまりは待望のスポンサーを掴まえたということにほかならない。そしてそれはそのまま熊沢が考える「次のステップ」へとつながることを意味している。
グループAへの挑戦という熊沢の野望。ソレが現実味を帯びてきた。
僕の意志とは関係なく盛り上がっていくまわりの空気に少しだけ息苦しさを覚えていたが、声を上げて反発するほどの意思など僕は持ち合わせていなかった。
それはともかく、いつのまにか僕自身が「将来の自分の姿」として「それ」を思い浮かべていることに戸惑いと若干の気まずさを感じていた。
「ま、というワケで、取りあえず酔っぱらう前に聞いてくれ」
熊沢は急に声のトーンを落とした。
そしてジョッキを手にしたまま立ち上がると僕らの顔を見渡した。
「今後のスケジュールについてなんだが……来月のアタマの東京ベイサイド。今シーズンはそいつがラストになる。で……来シーズンいっぱいはジムカーナに専念して、あとひとつ、なんとしてもスポンサーを掴まえる」
熊沢はそういうと拳を固めた。「そして再来年――。今度こそグループAに殴り込みをかける」。
今度こそ……?
僕は首を傾げた。
「そうか。やっとチャンスが来たんだな」
伊豆見が呟いた。
「ついに、か。長かったな」
吉井が目を細めた。
「おお。ついに、だ」
熊沢はそう呟くと顔をうずめるようにジョッキを呷った。
盗み見たその横顔は目元が潤んでいるようにも見えて、僕はそっと目を逸らした。
感慨深げな彼らの表情を前にして、僕の疑問は行き場を失った。
***
迎えのタクシーがやってきたのは日付が変わる少し前だった。
「あ~と……おまえも四つ木方面だろ」
さっさと乗れや――。
熊沢は吉井の尻を蹴飛ばし、タクシーの後部座席に押し込んだ。
赤ら顔で呂律の回らない酔っぱらいたち――。熊沢はそれを店先に横付けされた二台のタクシーにテキパキと振り分けると、財布から札を取り出してそれぞれの運転手に渡してクルマを送り出した。タクシーが一つ目の交差点を曲がって見えなくなると、ようやく僕らの方を振り返った。
「悪いが富井君はよろしく――」
熊沢は祐二に向かってそう言った。
視線の定まらないながらも至福のその表情は、熊沢自身もまた「正気を保つのが精一杯」だというコトを表しているようだった。
そして、たぶんそのことに気付いているのは素面である僕と祐二だけだった。
「了解です。慣れてますんで」
祐二は少し余裕のある笑みを浮かべると、足元にへたり込んだ富井に視線を落とした。
富井も泥酔していた。
毎回自分では制御できないくらいに酔ってしまうのになぜ自制することができないのだろう……僕にはそれが不思議で仕方なかった。
今日に限っては、なるべくかかわらないよう微妙な距離をキープしていたから絡まれるコトはなかったが、それでも自力で歩けないほどに酔っている大男なんて面倒な存在以外のナニモノでもない。
しかし祐二はそんな富井の腕を肩に回して担ぎ上げると、目の前のコインパーキングに停めたRX-7の助手席に詰め込んだ。
「じゃ、お先に失礼します」
祐二は爽やかな笑顔とクラクションの余韻を残して去っていった。
僕はため息を吐いた。
祐二のの人の良さには感心を通り越して呆れてしまう。とてもじゃないが僕にはマネできない。
「あ。領収証――」
突然、熊沢が声を上げた。
その視線はタクシーが走り去った交差点のあたりを彷徨っていた。
「あいつら忘れずにちゃんともらってくっかなあ」
僕はもう一度ため息を吐いた。
酔っていても「領収証」だけは絶対に忘れないというところはいまさらながらに感心させられる。
だけどそれについても僕にはマネできないと断言ができた。
祐二のRX-7を見送ると、熊沢は当然のように僕のクルマに乗り込んだ。
一瞬「家まで送らされるのか?」と気が重くなったが、「今日は事務所に泊まる」という熊沢の台詞に胸を撫で下ろした。
もっとも熊沢の自宅を僕は知らないのだが。
「ふぅぅぅぅ……」
熊沢はシートに深く身を沈めると同時に大きく息を吐きだした。
その無駄に大きな動きに、反射的にリバースを警戒して僕は身を固めた。
しかし覗き見た熊沢の表情は、タクシーを見送ったつい数分前よりも人間らしさを取り戻しているようにみえた。
「珍しいですね、ため息なんて」
イグニッションを回した僕は、低く響くエンジン音に耳を傾けながら言った。
「まあな」
熊沢は左の掌を目元に当てたままヘッドレストに頭を押しつけた。
「ここまではオレの目論見通りにコトは進んでいる、順調すぎるくらいにな。だがチームの編成上、難しい問題がいくつか出てきてな……例えばドライバーだ」
「ドライバー、ですか」
「ああ」
熊沢は頷くと、窓の外に視線を伸ばした。
「一人目はオマエで決まりだが、もう一人をどっちにするか……悩みどころだ」
「祐二でいいじゃないですか」
他人事のように僕は言った。
「城戸君なあ。顔はいいんだけどな……安定感がない」
熊沢は薄ら笑いを浮かべると、大袈裟に首を捻った。
「じゃ、富井でいいんじゃないですか」
「まあな、成績だけならな……でも華がねえよな、華が。あれじゃスポンサー受けが悪い」
熊沢はそういって肩を竦めた。
確かに――。
のっぺりとした富井の顔を思い浮かべ、思わず僕は口元を弛めた。
「考えてもみろよ。おまえと富井君じゃ絵にならねえだろ」
「……は?」
「とてもじゃないが表彰台が映えねえ。おまえも相当に地味なタイプだしな」
走りにはインパクトがあるのによ――。
熊沢は僕に口を挟む隙を与えずにそういうと、不思議そうに首を傾げた。




