#076 Sympathy
パインモータースを出て中原街道を上り方面に向かった僕は、武蔵小杉駅のさきから丸子橋を渡り都内へと入った。
やがて現れた田園調布警察署の立体交差は若干渋滞していた。
仕方なく車列の最後尾に付けた僕は、ヘッドレストに頭を押し付けそっと息を吐いた。
右足の甲にはまだ微かな痺れが残っていた。さっきからアクセルを強く踏み込むたびに鈍い痛みが走っている……。
ちょっと強く蹴りすぎたかもしれない――。
僕は若干の自己嫌悪に陥っていた。
松井という男は確かに腹の立つ奴ではあったが、仮にも仕事の依頼先の人間をいきなり蹴り飛ばすというのは大人としてどうだったんだろうと思わなくもない。
しかし不思議と彼に対しては「申し訳ない」という気持ちにはならなかった。
松井には僕に蹴られるだけの理由がある……僕の中ではそう確信していた。もっとも理由なんてモノはあってもなくてもどっちでもよかったのかもしれないが。
それはともかく、松井が話していた「スープラ改造計画」は僕の興味を惹いていた。
ロムを換えるだけでフィーリングが変わる――。
松井はドコか怯えの混じった得意げな顔で言った。
エンジンそのものにはほとんど手を加えることのない彼のプランは、確かに僕にとっても受け入れやすいモノではあった。そしてロムチューンを施したMZ20ソアラをドライブしたときの強烈な印象は、いまでも僕の記憶の中に焼き付いていた。
やがて渋滞の車列が動き出した。
僕はクラッチをつなぎ、前を走る車のテールを追いかけた。
立体交差点を切り抜けると、いままでの渋滞が嘘だったかのようにクルマの流れがスムーズになった。洗足池をかすめて平塚橋を過ぎるまで目立った渋滞にはぶつからなかった。しかし五反田駅の手前で合流した第二京浜はガッツリとクルマが列をなしていた。
僕はあまり考えずに左にウインカーを灯すと、合流してすぐの路地を左折した。
この辺りの裏道はあまり詳しくなかったが、何となく走っていればドコか知ってる道に出るような気がした。そしてその勘は見事に的中した。
狭い路地を走り抜けて品川プリンスホテルの横から顔を出したソコは、見覚えのある第一京浜だった。
第一京浜に合流すると、右側の車線に移り深くアクセルを踏み込んだ。
7M-GTエンジンはいままでの鬱憤を晴らすかのように呻りを上げ、スープラは荒々しい加速を見せる。
街乗りでは十分すぎるほどの加速性能。むしろ通勤のアシ程度では持て余し気味だといえなくもない。
僕は大きく息を吐くとアクセルを弛めた。
たぶん松井の手に掛かれば僕の走りは変わる。
それは自分でもよくわかっていた。きっといままでとはまったく違う景色が見られるはずだというコトも。
だけど……やっぱり素直にソレを受け入れるのは躊躇われる。
信用の置けない人物にクルマを預ける気には、いまはまだなれそうになかった。
裏の駐車場に到着したのは午後二時を少し過ぎた頃だった。
とくに寄り道をしたわけでもないのにこんな時間……定時までの時間を考えればまるまる休みをくれてもよかったんじゃないかとも思うが、そんな理屈は熊沢には通用しない。
仮にそんなコトを口にしようモノなら、「遅刻した分だけ働け」とワケのわからないことをいわれて日付の変わる頃までコキ使われるに決まっている。そんなことになったら今度こそ僕は労働基準監督署に――
「え……」
店の前まで来たところで僕は絶句した。
工場の前にはガンメタのクラウンがあった。それは確認するまでもなく堤のGS131だった。
「――おう。来てたのか」
声に振り返ると、ソコには熊沢のニヤけた顔があった。
「ずいぶんノンビリしてやがったな、てめえ」
「あの、コレって……」
僕は絡みつくような熊沢の視線をかいくぐると、挨拶もソコソコにクラウンを指さした。
すると熊沢は満足げな表情で「朝一番で持ってきてもらった」といった。
彼の話によれば、昨夜遅くに門田から電話があったらしい。
クルマが仕上がったから取りに来い――そんなような内容だったらしいが、図々しい熊沢は「忙しくて取りにいけねえから、暇なときに持ってきてくれよ」と告げて電話を切ったんだそうで……。
「あいつの工場は狭えからな」
大方、置き場所にでも困ったんだろうよ――。
熊沢は嬉しそうに大口を開けて笑っていた。それはまるで「気を利かせてやったオレに感謝しろ」とでも言いたげだった。
冗談だろ……。
僕は納得のいかない気持ちでため息を吐いた。
同時にいまさら何を言っても仕方がないということは理解していたので何も言葉にはしなかった。
熊沢はいつもこんな感じだったから何を言っても無駄だった。いまの僕は彼に対して「あきらめに似た感情」しか抱かなくなっている。
しかし、門田に対しては少しガッカリしていた。
あれだけしつこく「足回りの調整には立ち会いたい」といっておいたのに。ちょっとクドいな、と自己嫌悪に陥る寸前まで念を押しておいたハズなのに……。
まあ、熊沢を含めたアノヘンの人たちは「ヒトの話をまったく聞いていない」ということだけは疑いようがない。
「で、なんだって?」
不意に熊沢がいった。「なんて言ってた? 松井清和は――」
なぜいつもフルネームなのか……首を傾げたくなったが、何とかその気持ちを押しとどめると、「クラウンの仕上がりを確認したいそうです」と感情を込めずに呟いた。
「なるほど……ま、そりゃそうだな」
熊沢は独りで納得したように頷いた。
「じゃ、いつ見せにいく?」
「は?」
「コイツだよ。いつお披露目に行くんだ?」
熊沢はクラウンを親指で指すと口元を弛めた。それはとてもおぞましい笑顔にも見えた。
「いえ……まだ決めてませんけど」
僕はイヤな予感を振り払うように曖昧に首を傾げたが、熊沢は「だったらすぐに連絡入れろ」と事務所の方に向かってアゴをしゃくった。
「これから見せに行く。どうせなら早い方がいいだろ」
やっぱり、そうきたか――。
思わずため息がこぼれそうになった。
松井の顔なんて一日に二回も見たくないんで――。そんな台詞を熊沢にぶつけてやりたくなった。
しかしそんな理由が熊沢に通用するハズもないし、今後のコトを考えるとソレをきっかけに意図的にイヤな思いをさせられそうで怖い……というかきっとそうなる。
僕は平静を装い「でも、いま行ってきたばかりなんですよね」と拒否の姿勢をみせた。やんわりと、なるべく刺激しないように――。
「なんで? 構わねえだろ、べつに」
熊沢は不思議そうな顔でそう言った。
そして「いま行ってきたばかり」という僕の台詞には一切触れずに「早い方がいいだろ」という言葉を繰り返し何度も何度も使った。
なぜ、そんなにもセッカチなのか――。
僕はため息を吐いた。僕にしてみればよっぽどそっちの方が不思議に思えるのだが……どうやら僕と熊沢のあいだには埋めようがないくらいの考え方のギャップがあるらしい。
しかしそれと同じくらいに埋めようのない立場の違いってモノもあって……。
「……わかりました。電話してきます……」
そう言い残すと僕は仕方なく事務所に向かった。
そしてドコか腑に落ちない気持ちを抱えながら受話器を掴んだ。しかし……
「あ、そうなんですか?!」
その瞬間、僕は受話器を耳に当てたまま右の拳を小さく突き上げた。
向かいにいた経理の松本さんが不思議そうな視線を僕に向けてきたが、すぐにその意味を悟ってくれたようで、笑みを浮かべたまま視線をデスクに戻した。
松井は外出中だった。
電話に出た女の人は「今日は帰りが遅いと思います」と申し訳なさそうな声で言った。
「いえ、約束をしていたわけではないので……また電話します、コチラから」
僕はこれ以上ないくらいの穏やかな声で告げると受話器を置いた。
「出掛けてるんじゃ仕方ないよな……」
僕はこぼれる笑みを堪えて呟いた。
そして無意識に右の拳を強く握りしめていた。
***
「――というわけで、たまにはメシでも食ってかねえか?」
山田がいった。
僕と吉岡の顔を順番に眺めた山田は「たまにはオゴるぞ」と満面の笑みを浮かべていた。
めずらしくココに熊沢の姿はなかった。
五時になる少し前に掛かってきた宇野からの電話を切った後、あわてて仕事を切り上げ、そそくさと会社を出て行った……たぶん悪い遊びに行ったに違いない。
「焼き肉なんかどうだ?」
「いいすね~」
山田の台詞に吉岡が反応した。
「じゃ、おれクルマ出しますよ。北条、運転は任せてもいいか?」
吉岡は今までに見たこともないような笑みを僕に向けてきた。
しかし――
「すいません。ちょっと今日は……」
僕は顔の前で手刀を切った。
「なんだよ。ノリが悪いな」
吉岡はクチを尖らせた。
さっきまでの満面の笑みが嘘だったかのように渋い表情になっていた。
「そういうワケじゃないんですけど……すみません」
僕は二人に向かって頭を下げた。
予想より早く仕事を終えた今日、僕は門田の元を訪れるつもりだった。
彼には言っておきたいことがあったし、何しろ今日はいつも邪魔ばかりする熊沢がいない。こんなチャンスは滅多にあるものではない。
「ま、用事があるんじゃ仕方ないな」
山田はそういって頷いた。
「週末だし、若い奴は何かと忙しいんだよな、俺たちと違って……な?」
山田は意味ありげな笑みを吉岡に向けた。
「いえ、全然そういうワケじゃ――」
僕は言いかけて口を閉ざした。
吉岡の顔からはすでに表情が消えていた。ただ能面のような顔を僕の方に向けていた。
そういえば吉岡という人は「生涯独身を貫く」と宣言していたくらいに寂しい私生活を送っていた。奴の前では絶対にオンナの話はするんじゃない、と熊沢からも言われていたんだっけ……。
「ホントにすみません。次は必ず――」
僕はそう言い残すと、そそくさとスープラに乗り込み逃げるようにしてその場を離れた。
誤解されたままなのは気がかりだったが、いまは何を言っても言い訳のように聞こえそうで……やっぱり逃げておいてよかったような気がした。
そしてKSガレージに着いたのは六時半を過ぎた頃だった。
僕は路上にクルマを停めると、国道をゆくクルマが途切れたのを見計らい、スープラの運転席を離れた。
出迎えてくれたのは、僕が想像していたよりもずっと無愛想な視線だった。
「……まだ仕事してるんですね」
僕はムリに笑顔を作って言った。
しかし門田は僕の方を見ようともせずに「見りゃわかるだろ」と不機嫌そうに呟いた。
工場はまだ絶賛稼働中だった。
彼はリフトで上げたS13シルビアの下にもぐり、黙々と作業に取りかかっていた。
見た感じでは素ノーマル……ウチに入庫するクルマとはちょっと客層が違うようだ。それにしても……。
僕は工場を見渡した。あらためて見ると熊沢が言っていたように工場はずいぶん狭い。一台しか入らない工場は、縦長ながら詰めれば二台入る僕の家よりも狭く、道幅の広い国道に面しているぶん、余計にその狭さが際だつようで――。
「なに突っ立ってやがんだ」
門田は剣呑な視線を僕に向けてきた。
その得体の知れない迫力に背筋が反射的に強ばった。
「もうすぐ終わるから中で待ってろ」
そう言ってスパナを持った右手を払った。
工場から追い出された僕は、仕方なく言われるがままに店内に足を踏み入れた。そして息を呑んだ。
「それにしてもひどいな……」
相変わらず散らかり放題の店内は、まるで「事務所荒らし」にでも入られたんじゃないかと思えるくらいだった。いや、たぶん事務所荒らしでもココまで容赦なく散らかすコトはないんじゃないかと――。
ため息をひとつ吐くと、僕は足元にあった雑誌を拾い上げた。
「――悪い。待たせたな」
しばらくして門田がやってきた。
彼は油染みのついた軍手を外すと、くるくると丸めてツナギのポケットにしまった。
「こちらこそすみません。お忙しいときに……」
僕は皮肉を込めていったが、門田は鼻で笑うと「べつに忙しかったわけじゃない」と、胸のポケットから取りだした煙草をくわえた。そして例によってポケットを探りはじめた。
「あの……ライターならソコに」
僕は門田の背後にあるカラーボックスを指さした。
おお、サンキュ――。
門田は表情を崩すと、煙草の先に火をつけ、ライターは右の胸ポケットにしまった。
「で……もう走らせたのか?」
門田は煙草をくゆらせながら呟いた。その口元には笑みが浮かんでいる。
「いえ……」
僕は首を振った。
「まだこれからです。明日には走らせてみようかと……あ、環状線は週明けですけど」
「なんだよ。急いで仕上げてやったのによ」
しかも納車までしてやったっつうのに――。
「それは助かったんですけど……」
「けど……?」
「作業に立ち会いたいって言いましたよね?」
諭すような静かな口調で言った。
すると門田は「あ」といってポンと手を打った。
そして「そういや、タイヤのウチ減りが激しかったな」と惚けた声で言った。
……何の話なんだ?
僕は首を傾げた。
「それについちゃあ、若干ハの字切ってるから仕方ねえところだが……ま、堤に会ったら言っておいてくれ。それから――」
僕はため息を吐いた。
門田はナニカに取り憑かれたかのように一方的に捲し立てるように喋り続けた。完全に惚けているというか……どうやら僕の質問に対する応えは期待できないらしい。
僕は問い質す気も失せ、彼の言葉に適当な相槌を打った。
「――で、相変わらずやってんのか? ジムカーナは」
門田は急に話題を変えた。
僕は小さく頷くと「明後日もあるみたいですね」と他人事のように答えた。
「なるほどな。休みの度に駆り出されてるっつうわけか」
気の毒なハナシだな――。
門田は鼻を鳴らした。
彼に言われるまでもなく、一カ月の休みのうちの一度か二度は走行会に出走させられている……当然、休日出勤扱いにはなっていないが。
だからはじめの頃は迷惑以外のナニモノでもなく、その場に駆り出されることに強い抵抗があった。
しかし、いまでは寧ろありがたく思うこともある。
以前と違って週末のスケジュールに空きが目立つ最近では、ジムカーナは運転技術の向上と気晴らし、そしてスケジュールの穴埋め程度の役割は十分果たしてくれていると言えた。
「ところでよ――」
門田は窓の外に目を向けた。「ジムカーナにはアレで出てるのか?」
その視線の先にはスープラがあった。
「まさか」
僕は肩を竦めた。
「CR-Xです。熊沢さんのですけど」
「ああ、あのポンコツか」
まだ走ってんだ、あのクルマ――。
門田は声を立てずに笑った。
「あれはもともとアイツのカミさんが乗ってたんだ」
「え……熊沢さん、結婚してるんですか?」
「いまはしてねえんじゃねえか……たぶん、な」
門田は大きく煙を吐きだすと、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
熊沢がいったいどういう生活をしているのか――。そんなモノにはまったく興味がなかった。もっとも熊沢に限らず、他人の私生活にはまったく興味がないのだけど。
だとしてもそんな気配すら感じ取ることができなかったのは自分でも意外な気がした。
熊沢という男はもともと生活感のない人間だった。少なくとも僕の中では「家庭」という言葉とは対極にいるようなイメージを持っている。
それは家庭を顧みないという冷たさなどではなく、本質的にひとりでいることを自ら選択するという生き方とでもいうような。
僕はそんな彼にある種のシンパシーを抱いていた。
その粗暴さに辟易としながらも熊沢の元にいるのは、僕と彼の価値観が根底ではつながっているように感じていたからなのかもしれな――
「――あれはホンモノか?」
不意に門田が言った。
僕は顔を上げ、小さく首を傾げた。
「ナンチャッテじゃなくて本物のターボAなのか?」
門田の視線は再び僕のスープラに向けられていた。
「一応、本物です……たぶん、ですけど」
不意に宇野の胡散臭い笑顔を思い浮かべて肩を竦めた。
「環状線にはコイツで行ってるわけか」
僕は頷いた。
「ノーマルか?」
「はい。ただ、足回りとマフラーは少しイジってますけど」
僕は「少し」という言葉を強調して言った。
しかし、交換しただけのマフラーはともかく、足回りに関しては僕なりに最大限のセッティングを施しているつもりだった。もっともソレを門田に向かって言えるほどの自信はなかったのだが。
「ふ~ん。他には?」
門田はそういうと、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。
「いえ、特にはなにも」
僕は短く応えた。
「なるほど、特には何も……か」
門田は独り言のように呟くと、煙草をくわえたまま再び見当違いのポケットをさぐりはじめた。
僕は無言で彼のツナギの胸ポケットを指さした。
おお、サンキュ――。
ライターを探し当てた門田は、表情を崩すと煙草の先に火をつけた。
そして一息吐いたように大きく煙を吐き出すと、「でも……それじゃ勝てねえだろな」と独り言のように言った。
僕は無言のまま彼の顔を見返した。
彼はスープラを一瞥すると、意味ありげな笑みを僕に向けてきた。
「いまのまんまじゃどうやっても勝てない……わかってるんだろ? 本当は」
そう言って火をつけたばかりの煙草を灰皿に押付けた。