#075 癇に障る男
神藤たちと別れ、家に着いたのは日付が変わる少し前だった。
ガレージにスープラを停め、途中のコンビニで買い込んだミネラルウォーターの入った重いビニール袋をぶら下げて階段を上りきると、真っ暗なダイニングでは留守番電話の赤い点滅が僕の帰りを待っていた。
メッセージを確認するまでもなく、電話は祐未さんからのはずだった。
最近の僕と彼女の連絡手段はもっぱら留守番電話。
用件を伝えるだけの味気ないものではあったが、いまの僕らを繋ぐ唯一のコミュニケーションツールだと言えた。
祐未さんからのメッセージは「何曜日の何時ごろに一弥君の病院に行く」といった予告のようなものだった。
しかしそれは「一緒に行こう」という誘いの意味ではなく、おそらくお見舞いに行く日が「絶対に被らないようにしよう」という意図があってのものだと僕は理解している。だから僕がお見舞いに行くことがあるとすれば「祐未さんの指定した日以外の日に」ってことになる。
僕は壁に留めたカレンダーに目をやった。
カレンダーはスケジュールの書き込めるタイプのモノだったが、確認するまでもなくカレンダーには何も書かれていない――
「……?」
日付と曜日を目で追っていた僕は、微かに違和感を抱いた。しかし……すぐにその正体に気付いた。
月めくりのカレンダーはまだ九月だった。
「いったい何ヶ月経ってんだよ……」
僕はため息を吐くと、カレンダーに手を伸ばし、二枚まとめて引きちぎった。
しかし、今度はカレンダーを留めていたピンが弾け飛んでドコかに行ってしまった。
「ふざけんなよ……」
僕は宛てのない呪詛を呟くと、カレンダーの切れ端を手にしたまま床に這い蹲った。
しかしはじけ飛んだピンはどこにも見当たらなかった。
ったく……横着はするもんじゃないな――。
僕はもう一度ため息を吐いた。
そしてカレンダーの切れ端を丸めてくずかごに投げ入れると、行方不明になったピンのことは頭の中からキレイに消し去ることにした。
***
翌々日、僕は一弥君の元を訪れていた。
金曜日の今日は当然仕事があったのだが、熊沢に理由を話すと意外なくらいにあっさりと「午前中だけ」休みをくれた。
僕がこの場所を訪れるのは、一弥君が目を醒ましてからは三度目だった。
祐未さんに促されていやいや訪れた最初のときとは違い、いまではそれほど気構えることもなくなった。
ただ、彼の置かれている立場を考えると何を話していいのか判らなくなるときがある。
それは言葉を選ぶとかそう言う類のモノではなく、僕らの関係にとってもっと根本的な――
「お。来てたのか」
声に顔を上げると、車いすに乗った一弥君の姿があった。午前中のリハビリが終わったようだ。
「いつも悪いな」
彼は僕に向かってそう微笑むと、車いすを押してきた若い看護婦に向かって短い礼を述べた。
そして看護婦が病室を出て行くと、彼は口元を弛め、半身の姿勢からダイブするようにしてベッドに潜り込んだ……回復具合は順調のようだ。
「ムリしない方がいいですよ」
「忙しいんじゃないのか?」
彼は僕の言葉を完全に聞き流すと、すっかり血色の良くなった腕をさすりながら微笑した。
「べつに……忙しくなんてないですよ」
僕は首を傾げると、小さく息を吐いた。
「それにいつもって言われるほどは来てないですけど」
「そうだっけか?」
一弥君は否定も肯定もする気がなさそうな口ぶりで答えた。
彼の回復ぶりには驚かされる。
さすがに自力での歩行はいまだにかなわないようだったが、この数年間昏睡状態だったことを考えれば仕方のないところなのだろう。
「順調みたいですね、リハビリ」
僕は何の感情も込めずに呟いた。
「ああ。いつまでも寝てるワケにもいかねえしな。おまえの方も順調なんだろ?」
質問の意図が読めず、僕は僅かに身構えた。
「……ジムカーナ」
そう言って一弥君は笑った。
「ソコソコの成績は残してるんだろ、当然」
なんだ、ジムカーナの話か――。
僕は動揺を隠し、敢えて少しの間を置いてから口元に笑みを浮かべた。
「まあそうですね」
僕は曖昧に首を傾げた。
「でもあんまり面白くはないんですよ。やっぱり同じトコロをぐるぐるっていうのが――」
「そりゃ仕方ねえだろ。そういう競技なんだから」
一弥君は僕の話を最後まで聞かずに笑った。
「ま、どっちにしても準備は着々ってところか」
来年にはグループAで走ってるのかもな――。
「……かもしれないですね」
僕は呟いた。
「なんだよ、他人事みたいだな」
「そうですね」
僕はもう一度呟いたが、一弥君は不思議そうに首を傾げた。
「夢っていうか……目標なんじゃないのか? いまの」
「さあ……でもそこまで入れ込んではいないですよ」
それがいまの僕の偽らざる気持ちだった。
グループAの舞台で走ってみたいという気持ちはないわけではない。だけどそれは「機会があれば」という程度で、べつに夢というほどの大袈裟なモノではない。
熊沢に唆されて「何となく」そんな気分になっているだけで、見方を変えれば「業務命令のひとつ」だとも言えた。
そんなことより、一弥君は目を醒まして以来「パイクスピーク」という言葉を口にしていなかった。
長いこと寝ているうちに忘れてしまったのであればそれはそれで良かった。だけど、口にしない理由が他にあるのであれば、僕にはそれを素直に受け入れることができそうもない。
一度の事故くらいで走ることを辞めてしまうようなヤワな人間ではないと思うが、もし僕に対して何らかの気遣いがあるのだとしたら、それは却って迷惑な話だった。
僕らの関係が以前のようなカタチに戻ることはあり得ないが、僕の中には「パイクスピークを走る」という夢は生き続けている。
もし彼がもう一度「パイクスピークを目指す」と言ったとしたら、たぶん僕は何の疑いも持たずにそれに同調するのだろう。
しかし……彼がそれを言い出す機会は永遠に来ないのだろうという確信がいまの僕にはあった。
「最近は行ってないのか……大垂水には」
不意に一弥君が呟いた。
僕は一弥君の表情を窺った。
言葉の意図を読み取ろうとしたが、彼は視線を落としたままで、それはまるで僕と目を合わせることを拒んでいるかのようだった。
「――行ってないですね、そういえば」
僕は一拍おいてから醒めた声で言った。
しかし彼は小さく頷いただけで、相変わらず僕の方に目を向けることはなかった。
そして……僕の胸を過ぎったのは、そんな彼に対する苛立ちではなく、言いようのない寂しさだけだった。
***
北部市場前の交差点を左折すると、そのすぐ先に東名川崎インターが現れた。
このまま出勤するには東名高速道路に乗った方が早いのだが……僕は目の前に近付いた信号が青になるのを確認するとアクセルを踏み込み、そのままインターの入口を素通りした。
つい十五分くらい前、重い空気に耐えかねて一弥君の病室を後にした僕は、病院の一階のロビーから熊沢に電話を入れた。
病院を出る前に電話しろ――。
熊沢にそう指示されていた為だったが、この時間に熊沢が電話に出ることはまずない。おそらく九割以上の確率で経理の松本さんが出るはずで――
『はい。ベアーズオートサービス――』
ツーコールで電話に出たのは、僕の予想に反した低い声……出るはずのない熊沢の声だった。
「あ……北条です、けど」
不意をつかれた僕は動揺して思わず上擦った声を出した。
しかし熊沢はそんなことはまったく気にも留めていないようで「ちょっと遣いを頼まれてくれや」と能天気に言った。
そして……僕はいま、パインモータースに向かっている。
用件は知らされていないが、取りあえず熊沢のオツカイで松井清和のもとへ。
松井と顔を会わすことについては正直言ってあまり気乗りがしない。しかし僕としてもそう遠くないうちに彼とコンタクトをとる必要性については考えていた。
進んで会いに行きたい相手では決してないが、より高いレベルの走りを求める上で彼の能力は必要不可欠なような気がしていた。
まあ、そう言う意味ではいいキッカケなのかもしれなかったが――。
「へえ~、コレが噂のターボAかあ……」
僕のスープラを見た松井は間の抜けた声でそう言った。
不自然に血色のいい左右の頬が微かな殺意を掻き立てたが、それを表情に出すことなく「噂って?」と努めて抑えた声で言った。
「城戸君から聞いてたからね、北条君がスープラに乗り換えたって」
祐二……。
よりによって松井と内通していたなんて……富井同様あいつも信用のならない奴みたいだ。
横浜市内の外れ、まるで農村のような景色の中に佇むパインモータース。
広い工場の奥には松井の自宅があり、その自宅と工場のあいだには八畳ほどの広さのプレハブがある。それが松井の仕事場だった。
松井に促されて足を踏み入れたその場所は、几帳面な松井らしく整理整頓が行き届いていた。
しかし壁際に備え付けられた作業台の一角には「作りかけのクルマの模型」があって、コイツの仕事に対する向き合い方が窺い知れた。
「それにしても、堤さんのクラウンをいじってるなんて知らなかったよ」
熊沢さんに聞いて驚いたよ――。
松井は笑った。
どうやら祐二の他にもスパイはいるらしい。
「エンジンにも手を入れてるの?」
「ターボを組んだ。スーパーチャージャーは残したままだけど」
僕は無愛想に呟いた。
「ふ~ん、残したんだ」
松井はナニカ言いたげに首を傾げた。
まあ、何が言いたいのかはだいたい想像がつく。
「でもそれじゃ高回転はきついんじゃない?」
「だからシーケンシャルを組んだ」
僕は予め用意しておいた答えを告げた。
「なるほど……シーケンシャルね」
松井は僕の言葉を反芻すると、腕を組んだ姿勢で二度三度と頷いた……その態度の全てがいちいちカンに触る男だ。
熊沢の用件は堤のクラウンのこと……つまり僕の用件でもあった。
だったらはじめからそう言ってくれればいいのだが、どうも熊沢というヒトはそういう大事なことは何も告げてくれないという厄介なクセがあるようだ。
「一度見たいんだけどな」
松井は独り言のように呟いた。
「仕上がりの状態確認しておき――」
「いまはない」
僕は松井に最後まで喋らせずにそう告げた。
「ないって?」
「人に預けてある。足回りの調整で――」
「ああ、門田さん?」
今度は松井が僕の言葉を遮った。まるでさっきの仕返しのように。
「門田さん、知ってるのか?」
「うん、何度か仕事を頼まれたことがあるね」
松井は当然といったふうに答えた。
松井が門田を知っていることについては特に不思議はなかった。
コイツが変態だったとしても「一芸に秀でている」というのは確かなようだったし、この世界ではソコソコ名を知られているみたいだったし。
「じゃあ、稲垣って知ってるか? ピアッツァに乗ってる奴」
僕は何となくその名前を口にした。
もしかしたら稲垣のピアッツァ・ネロのチューニングに松井が関わっているんじゃないか……そんな気がしたのだ。
しかし松井は首を傾げた
「稲垣……」
斜め上に視線を漂わせた松井の呆けた顔は、稲垣という名前にもピアッツァ・ネロにも「まるで心当たりがない」といった表情だった。
「聞いたことないけど、誰?」
「いや。知らないならいいんだ」
僕はそう言って話を切ると、まだ話し足りなそうな松井に気付かないふりをして立ち上がった。そして「クラウンが返ってきたら連絡する」と早口で告げると、呆気にとられる松井を残してプレハブをあとにした。
結局、まったくの無駄足だったな――。
スープラのシートに深く身を沈めた僕は自嘲気味に口元を歪めると、暖機中のエンジンの鼓動に耳を傾けながらの左手の時計に目をやった。
時刻は十二時半を回っている……というより長針は「8」と「9」のあいだを指していた。
なるほど、昼休みか……。誰とも会わないわけだな――。
僕は妙に納得したような気分になって頷くと、運転席の窓を下ろした。
ここパインモータースにも僕と顔見知りの人間が何人かいる。それほど親しいわけではなかったが、それでも顔を合わせていながら無視というわけにもいかない。
だけどいまの僕にとって、そういう意味のない他人との関わりが何よりも煩わしくて――
「アイドリングは安定してるみたいだね」
声に振り返ると、そこには松井が立っていた。
どうやら暖機をしているあいだに背後をとられたらしい。
「手を付ける気はないの? このクルマ」
松井は不躾な視線を僕のスープラに向けていた。
僕は微かな苛立ちを覚えたが、敢えてそれには触れずに「いまのところは」とまるで興味がないとでも言うふうに呟いた。松井の言葉にいちいち反応して「隙」を与えるようなことはしたくない。しかし――
「そっか……残念だな」
松井はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「せっかくの面白い素材なのにな――」
「素材?」
僕は思わず口を滑らせた。
そしてその瞬間に松井の口元に浮かんだ笑みが、僕の迂闊さをあざ笑っているように見えて……僕は反射的にクルマを飛び降り、松井の尻に蹴りを入れた。