#074 Theory of Constraints
「てめえ。何で黙って帰りやがったんだよっ!」
翌日、出勤早々に熊沢ががなり立ててきた。
充血した目を吊り上げ、下唇を突きだしているが……意味の分からない僕は何も応えずに首を傾げた。
「てめっ、コノヤロ――」
「まあまあ、社長――」
山田と吉岡が僕と熊沢のあいだに割って入ってきた。
熊沢は鼻息を荒くして僕に向かって手を伸ばしていたが、もがいているかのようなその腕が僕に届くことはなかった。
どうやら僕の態度が却って熊沢の神経を逆撫でしてしまったようだ。
熊沢は「僕が帰ってしまった」ということより、「いったん戻ってきながら事務所に顔を出さずに逃げるように帰ってしまった」ということに怒っていた。どうやら僕が一瞬戻ってきたコトに気付いていたらしい。
昨夜、例の話の長い客は午前二時までココに居座っていたらしい。
熊沢としては、僕が戻ってくれば「ソレをきっかけにして帰れる」と考えていたみたいだったが、僕が店に顔を出さなかったことで話を切り上げるタイミングを完全に見失ってしまったらしい。
客は石井という年配の人で、熊沢のかつての上司にあたる人だった。
小奇麗な身なりをした白髪の紳士で、いまは隠居しているようだったが、たまに電話をかけてきたり、型の古いセドリックに乗って突然あらわれたり……いずれにしても熊沢にとっては頭の上がらない存在のようで、それが理由というワケではないが、僕は石井という人物を好意的に見ていた。少なくとも彼がいるときの熊沢は僕にとって無害な存在なる……それだけは疑いようのない事実だった。
「――で、どうだったんだよ」
いくぶん冷静になった熊沢が呟いた。
相変らずの「主語」を含めた重要な部分を省略した台詞に、思わず首を傾げそうになったが何とか堪え、「どうとでも解釈できる」当たり障りのない言葉を返した。しかし熊沢はその答えに満足してくれなかったようで、昨日の出来事を事細かに詰問してきた。
熊沢は「僕と門田のあいだでどんなやり取りがあったのか」というコトが気になって気になって仕方がないといった様子だった……ちょっと面倒くさい。
しかし、門田とは何の話をしたのかあまり憶えていなかった。
天使が誰なのかを知っていると言うコトと、僕と同じようなコダワリを持っているということは知ったが、「天使」については勿体ぶって何も教えてくれなかったし、「コダワリ」については稲垣を経由しての話で直接聞いたわけではなかった。ただ一つ言えるのは、長居をしたワリには中身の薄い話しかしていない、という虚しい真実だけだった。
「――そういや門田に送ってもらったのか?」
熊沢が目を細めた。
僕は彼の目を見返したが、その台詞に特別な意味が込められているようには思えなかった。
「ええ、まあ……」
僕は曖昧に言葉を濁した。
稲垣の話題は口にしなかった。
特に理由があるわけではなかったのだが、敢えて彼の名前を持ち出す気分にはならなかった。
僕が確信していたように、環状線で祐二を振り切ったピアッツァ・ネロはやはり稲垣だった。
彼も白いFC3Sには憶えがあったようで「アレ、やっぱり北条くんの仲間だったんだ」と笑っていた。そこには祐二のことを完全に見下ろしているかのような妙な余裕が感じられた。
確かに門田の手で仕上げられたピアッツァ・ネロは速かった。
当然ソレを操る稲垣の腕も確かなようで……少なくともいまの祐二では太刀打ちできないということは疑いようがない。
そして彼は僕のことも知っていた。
もちろん会ったことなどなかったが、「アイスマン」という名前を耳にしたことがあるようだった。
彼もまた天使を捜しているといった。
彼女に挑むためにたびたび環状線を走っていた稲垣は、無線機のスピーカーからこぼれてくる会話を盗み聞きしているうちに「アイスマン」と呼ばれるスープラの存在を知った。そしてそれが熊沢や堤たちの仲間であるということも。
いつか会ってみたいと思ってたんスよね――。
稲垣は笑っていた。
深夜の首都高速に飛び交う無線から幾度となく聞こえてきた「アイスマン」という名前。
しかしアイスマン本人の声が聞こえてくることはまったくなく、稲垣の中では「アイスマンと呼ばれる人物」に対する興味だけが勝手に膨らんでいったらしい。
確かに無線のマイクを握ることはあまりない僕だったが、そのことで余計な疑問を抱いている人がいるとは思いもしなかった。
ま……だからといって急に饒舌になるなんてことは考えられなっかったが。
今度、一緒に走りましょうよ――。
別れ際に稲垣が言った。
その顔には敵意のない穏やかな笑みが浮かんでいた。ステアリングを握っていたときとはまるで別人のような表情で僕の言葉を待っていた。
僕はそっと稲垣の視線を切り、スープラのイグニッションに手を伸ばした。
キュルキュルというセルの回る音に少し遅れて、ため息のような低い排気音が響いた。
稲垣は僕の言葉を待っていた。
しかし僕は何も答えなかった。視線を落としたまま、アイドリング状態のエンジン音に耳を傾けていた。
***
仕事を終えた帰り道、青木橋を過ぎたとき時刻は九時半を回っていた。
僕の仕事はとっくに終わっていたのだが、帰り間際に熊沢に捕まってこんな時間まで拘束された。
間違いなく昨日の一件に対する意趣返しなんだろうが……早いうちに対策を立てておいた方がいいかもしれない。
今後、門田とクルマを仕上げていく過程で毎回こんな嫌がらせをされたら堪らない。ただでさえ時間的な制約があるというのに。
高島から東横線のガード沿いの直線に入った。
微かな空腹感を覚えていた僕はまっすぐ家には向かわず、桜木町を左折して山下町方面を目指した。
久しぶりに神藤たちの元を訪れてみようと思った。なんとなく健吾が作るパスタが食べたいような気分になっていた。
倉庫街の一角にある店先には、相変らず数台の単車が無秩序に停まっていた。
そのなかでもひときわ目を惹く白い車体――。神藤のVFRは入口のドアに近い場所にあった。
何度となく訪れているこの店だが、神藤が僕より先に来ていたというのは記憶にない。僕が健吾に絡まれているときに野太い排気音とともに現れる、というのがいつものパターンだったし――。
そんなことを考えながらドアを開けた。
その瞬間、店内の視線が一斉に僕に向けられた。
いつものことではあったが、いまだに慣れることはできなかった。僕は不躾な視線を避けるように小さく顎を突き出すようにアイサツした。
「北条さん、ちょっと待っててくださいね」
奥のボックス席から顔をのぞかせたのは神藤だった。
すぐに終わりますから――。
神藤は成沢兄弟たちと何かを話し込んでいた。
僕としては神藤に用事があったわけではなかったからそんなに急いでもらう必要はなかったが、彼の言葉に釣られるように中途半端な相槌を打ってしまった。そしていつものようにカウンターの一番端の席に腰を下ろした。
「連絡はコマメによこせよな」
健吾が僕の目の前に水の入ったグラスを置いた。
「死んじまったんじゃねーかと思ってたぞ」
あまりにも来やがらねーからよ――。
健吾は憮然とした表情で縁起でもない台詞を口にした。
「忙しかったんだ。何かと」
僕はこみ上げてきた苦笑を堪えて言った。
健吾と会うのは久しぶりだった。神藤とはバイトの件もあったからたびたび連絡をとっていたが、健吾とは完全に音信不通の状態で……だからといって僕から連絡を入れる義理などなかったのだが。
「そんなことより何か食べるものない?」
僕はカウンターに肘をついた姿勢で健吾の背後を覗き込んだ。
「炒飯でよけりゃスグできるけど」
健吾は即答した。
「いや……」
「あ。ピザもあったな」
「いや。できれば麺類の方が……」
「麺類? じゃあ焼きそばとか……あとはラーメンもあるぞ。ミソだけど」
「いや。パスタとか……ない?」
僕は遠慮気味に言った。
しかし健吾は怪訝そうに眉間に皺を寄せ、「だったらハジメっからそう言やあいいじゃねえか」とぶつぶつ呟きながら僕に背を向けた。
まったくまわりクドイやっちゃな――。
冷蔵庫を覗き込みながら僕に対するダメだしの言葉を並べ続ける健吾……僕は口を閉ざし、肩を竦めた。そして肘をついたまま、視線だけを店内に這わせた。
店内にいたのはいつもと同じ顔ぶれ……そう思ったところで少しだけ疑問が湧いた。
外に止まっていた単車と店内にいる人数が微妙に合わない。
ココには僕を含めて七人がいるが、外にあった単車はたぶん七台以上はあったはず――。
「どうかしました?」
僕の視線に気付いた神藤が言った。
彼は奥のボックス席を離れ、僕の方に向かって歩いてくるところだった。右手にはコーヒーカップを持っていた。
「いや、べつに」
僕はそう言うと、彼の視線から逃れるように水の入ったグラスに手を伸ばし、口をつけた。
神藤は僕の隣の席に腰を下ろした。
それとほぼ同時に奥のカウンター席いた成沢兄弟が立ち上がった。彼らは神藤の後ろを通り過ぎる際に短い言葉を交わすと、僕に向かって小さく手を振ってから店を出ていった。
成沢兄弟と言葉を交わすことなどほとんどない僕だったが、それでも一応は「常連客の端くれ」として認知されたということなのだろうか。
「――病院には行ってるんですか?」
不意に神藤が言った。
声に振り向いた僕は、言葉は何も発せずにその眼を見返した。
「あ……お見舞いですよ」
神藤は慌てたような素振りで言った。「あのKPの人、生き返ったんですよね?」
僕はため息を吐いた。
彼の耳の早さにはもはや呆れるしかない。
「……なんでもよく知ってるんだな」
皮肉を込めて呟いた。
「そうなんですよね……」
神藤は僕の皮肉を軽く躱すと小さく首を傾げた。
「いろんなトコロからいろんな話が入ってくるんですよ」
無駄に知り合いが多いせいですね、きっと――。
そう言って視線を落とすと大げさに肩を竦めた。
「いいじゃないか。トモダチが多いなんて」
僕は口元を弛めた。今度は彼に対する同情を込めて。
人付き合いの煩わしさ――。いまの僕にはまったく無縁だ。
熊沢の小姑ぶりには閉口させられることはあるが、それでもディーラー勤めの頃を考えれば十分に許容範囲内の出来事だと言えた。
「知り合いって言っても友達ばかりじゃないですしね。それに――」
神藤は言いかけてコーヒーカップを手に取った。
そして芝居がかった仕草で深く息を吐くと「聞きたくもない話の方が多いですしね、実際には」と僅かに首を傾げた。
僕は横目で神藤を覗った。
カップに目を落とした彼の口元には微笑が浮んでいた。
しかし、その醒め切った眼差しからは何の感情も窺うことができなかった。