#073 Meister
春日部へと続くバイパスは混雑していた。
珍しく定時で仕事を上がった僕は、堤のクラウンに乗って門田の元に向かっているのだが……どうやら完全に帰宅のラッシュと重なってしまったらしい。
都内の混雑は裏道を駆使して何とか切り抜けてきたが、土地勘のない埼玉県内ではそうもいかない。以前熊沢と来たときに通った農道も決して近道ではなかったし、そもそもその道がドコだったのかまでは憶えていない。僕は仕方なく、いつ解消されるともわからないバイパスをノロノロと北に向かった。
「――なんだ。今日はもう来ないのかと思ってたぞ」
遅刻した僕を出迎えてくれた門田は、以前会ったときと同じようにぶっきら棒に呟いた。
時刻は七時半を回っていた。約束の時間はとっくに過ぎていた。
「どうせすんなり上がらせてくれなかったんだろ?」
熊沢の奴はアレだからよ――。
「いえ、定時にはきっちり上がらせてもらったんですけど……」
言いかけたところで僕は口を閉ざした。
門田は僕の言葉を待つことなく、既に堤のクラウンに乗り込んでいた。
この世代の人間はせっかちなのかもしれない。少なくとも僕の知る限りではみんなそうだ。
門田がクラウンの車内を物色するあいだ、僕はさほど広くない工場内を見渡した。
このあいだは気付かなかったが、奥の壁の一角に写真が飾ってあるのが見えた。
色あせた写真は、それだけで古いものだということが窺える。僕は壁に近づき、写真を覗き込んだ。ソコに知っている顔があるような気がして悪戯心に似た興味がわきあがっていた。しかし、見るかぎりでは門田以外に僕の知っている顔はないみたいだった。
「こいつ、走らせてみたのか?」
声に振り返ると、門田はすでにクラウンの座席を離れていた。
そして彼の質問は「通常の試運転」という意味ではなさそうだった。
「走らせました。環状線を、ですけど」
「どうだった、コイツの足回りは」
門田は目を細めたが、僕が何かを言う前に「ま……答えは聞かなくてもわかるからいいか」と口元を弛めて頷いた。
「……自信満々なんですね」
僕は皮肉を込めて呟いた。
しかし門田は意に介す様子もなく「当然だ」と笑った。
「じゃなきゃわざわざオレのところに持ち込もうなんて思わんだろ」
わざわざ春日部くんだりまでよ――。
僕は苦笑いした。
確かに彼の言うとおりだった。足回りの調整を得意としている人は、僕の知る限りでもたくさんいる。しかし堤のクラウンを仕上げた門田の腕はその中でも頭一つ抜けているような気がした。そしてそれは試運転を繰り返す中で確信に変わっていた。
「で、堤はいつまでにと?」
門田は僕の方を見ることなく呟いた。
「さあ――」僕は首を傾げた。
「でもなるべく早くというのが僕の希望です」
「なんだ。あいつ、またドコかに行っちまってるのか」
門田は独り言のように言った。
「外国らしいです」
「ふん。優雅な身分だな」
鼻を鳴らした門田は呆れたように首を横に振った。
「ところでこれ、君が組んだのか?」
門田はクラウンのエンジンルームを指さしていた。
「ええ。熊沢さんと一緒にですけど」
「だろうな」
門田は腕を組んだまま大きく頷いた。
「熊沢はあんなナリだが、仕事は丁寧なんだよな」
褒めてるのか貶しているのかわからない口ぶりだった。
しかしその表情はどこか楽しげで、彼らの関係が僕が思うほど悪いものではないのだろうということを想像させた。
ひと通りクラウンを見まわした門田に促され、僕は店内に足を踏み入れた。
事務所を兼ねた狭い店内には、クルマ関係の雑誌やカタログなどが乱雑に積み上げられていた。
このあいだ来たときにはもう少し片付いていたような気がするが、今日の店内は「タバコの灰」を落としただけで、瞬く間に店ごと全焼してしまうのではないかと思うくらいに可燃物が散乱していた。
「そこいらに座っててくれ」
門田はそう言って窓際の二人掛けのソファーを指さすと、事務所の奥へと消えた。
僕は言われたままにかろうじて接客用だと認めることができるその場所に腰を下ろした。
窓を背にしたソファーにもたれ、店内に視線を這わせた。しかし興味を惹くものはなにもなく、テーブルの上にあった雑誌をぱらぱらとめくった。しかしそれもすぐに飽きてしまった。
ほどなく門田が戻ってきた。
「コレしかねえけど、いいよな」
僕の向かいに腰を下ろした門田は、そう言って左手に持っていた缶を僕に差し出してきた。
それは僕が嫌いな超甘ったるい部類のコーヒーだった。
しかしそうとも言えずに短い礼を述べて受け取ると、フタは開けずにテーブルの上に置いた。
「相変わらず首都高なのか、堤のやつは」
門田はそう言いながらタバコをくわえた。
そして同時にポケットを探りはじめた……またライターをさがしているらしい。
「あいつって堤さんのことですか?」
「ああ――」
門田はのっそりと腰を上げ、ズボンのポケットの奥深くに手を突っ込んだ。
「あいつはいまだに追いかけてるのか、アレを」
そう言って抜いた手にはライターが握られていた。
「アレって……ケンメリですか?」
「ああ。あの気色悪い絵のケンメリ……まだ走ってるのか」
門田はタバコに火をつけると細く長い煙を真上に向かって吐き出した。
「知ってるんですか、天使のこと」
「ああ。何度も会ったことがある」
とは言っても路上で、だが――。
門田は僕から視線を逸らすと、意味ありげに口元を弛めた。
それは天使の存在を「ただ知っているだけ」というワケではないように見える。ということは……。
「だったら……やっぱり知ってるんですよね」
僕は込みあげてきた笑みを隠さずに言った。
「何を、だ」
「堤さんがケンメリを追う理由です」
「ああ、もちろんだ」
門田は目を細め、煙を吐き出した。
「彼女が誰なのかも知ってる」
え……?
門田は何でもないことのように言った。
「……誰なんです?」
思わず僕は尋ねた。
しかし門田は「そんなこと聞いてどうする」と口元を弛めた。
「いえ、どうということはないですけど……」
僕は言葉が続かなかった。
天使が誰であるのか――。いままで考えたことすらなかった。
水曜日の環状線に現れる神出鬼没のケンメリGT-Rと、それを駆る正体不明の女。
芸術的ともいえるドライビングで、腕に自信のある奴らの挑戦を退けてきた彼女……僕もまた、彼女に翻弄された一人であったわけだが。
それはともかく「神憑り的な速さ」と「素性の知れない神秘性」が彼女を神格化しているのだろうと僕は思っている。そんな彼女がいったいどんな人物なのか知る手掛かりが目の前にある……僕じゃなくても興味を持つはず……ん?
低い排気音が僕の耳に飛び込んできた。
店は国道に面していたから、さっきからたびたび大音響のクルマが通過している。
しかしその排気音は僕の背後に留まっている気配があった。振り返ると、店の前の路上に一台のクルマが止まっていた。
「ああ。あれはウチの客だ」
門田はそう呟くと、億劫そうに立ち上がり、事務所の奥へと消えた。
僕はもう一度路上に目を戻した。
クルマは黒いピアッツァ・ネロ……降りてきたのはツナギ姿の背の高い男だった。
「ちぃ~す……あ!」
鼻歌まじりに店内に入ってきたツナギの男は、僕を見つけて目を丸くした。
僕としてはそんな風に驚かれるコトに違和感があったが、それを態度に出すことなく目を逸らしたとき、事務所の奥から門田が顔を出した。
「なんだ。今日は何の用だ」
手にはさっきと同じ缶コーヒーを握りしめていた。
「ほら、頼んでたデスビキャップ、そろそろ来て――」
「アレならまだ入荷ってねえぞ」
門田はにべもなく答えた。
「たぶん週明けになっちまうな」
「ええ~、二日で入荷するって言ってたじゃないすか」
「メーカーがそう言ってるんだから仕方あるまいよ」
男は不満そうに口を尖らせていたが、門田はまるで取り合おうとしなかった。
そして男は諦めたように口を歪め、門田に促されるままに僕の隣に腰を下ろした。
それはまるで僕と熊沢の日常を見ているようで、僕としては人知れずいやな気分になっていた。
「それにしても、めずらしいコトもあるもんすねえ」
男は缶コーヒーのプルタブを引き起こすと口元に笑みを浮かべた。機嫌はすっかりよくなったようだ。
「おれ以外にこんな店に来る人がいるなんて、ホントにあり得ない――」
「おまえよ、口は慎めよな」
門田は顔を顰めた。
「本当に客だったらどうすんだよ。知り合いんトコの社員だからまだいいが」
「知り合い? へえ……じゃ、熊沢さんトコの?」
男の言葉に僕と門田は顔を見合わせた。
「おまえ、熊沢のこと知ってたっけ?」
門田は男に視線を戻すと、怪訝そうに眉をひそめた。
「いや、会ったことはないすよ」
男は笑った。
「だけど、しょっちゅう出てくるじゃないスか、門田さんの話に」。
男の名前は稲垣貴裕といった。
埼玉県内の自動車ディーラーのメカニックで、門田の店の常連客の一人らしい。
年齢はたぶん僕と同じくらい。門田とは中学の先輩後輩の間柄だと言っていたが、年齢的にはずいぶん離れているのは間違いない。
色白でやや茶色いくせ毛と背が高いということ以外には取り立てて特徴のない男――。
それが僕から見た彼の印象のすべてだった。そして……僕は路上に止まった稲垣のクルマに目を向けた。
黒いピアッツァ・ネロ――。
以前、祐二が環状線で振り切られたのもピアッツァ・ネロだと言っていた。あのとき僕はそのクルマを見ていないが、それがこのクルマである可能性は低くないような気がした。
「珍しいクルマでしょ?」
不意に稲垣が呟いた。僕の視線に気付いたらしい。
「マイナー具合が気に入ってるんですよ。でも会社では肩身が狭いっすけどね」
稲垣は微笑した。
確かにピアッツァ・ネロは彼の勤めるディーラーでは取り扱っていないクルマだった。僕もディーラーにいた経験上、それが社内ではあまり好ましく思われてはいないだろうということは理解できる。
しかも目の前のピアッツァ・ネロはどうみてもノーマルではない。おそらくそのままでは車検も通らないはず……そんなクルマ、ディーラー勤めじゃなくても肩身が狭いに違いない。
「ところでよ、おまえはどうやって帰るつもりなんだ?」
不意に門田が呟いた。
その視線はまっすぐ僕に向けられていた。
「まさか、いますぐ仕上げろってわけじゃねえだろ。帰りのアシは当然用意してきたんだろな?」
「あ……」
すっかり忘れてた。
熊沢を振り切ることに集中してて、そこまで頭が回らなかった。
実は出発する直前まで、熊沢が同行することになっていた。彼が同行する意味はまったくなかったのだが、本人はヘンに乗り気だったのだ。
しかし出発直前に熊沢あてに来客があった。
その客は話が長いことで有名な人で、結局熊沢は同行することを断念した、というわけだったのだが……。
「ドコなんすか」
稲垣が呟いた。
僕と門田の視線が彼の顔に注がれた。
「あ、いや……ドコまで帰るんすか?」
稲垣は遠慮気味に僕を指さした。
「え……ああ、横浜だけど――」
「おお~。ちょうどいい」
突然、門田が声を上げた。
「送っていってやれよ、近くじゃねえか」
「はあ? ドコが近いんすか。おれんち大宮っすよ」
「近いだろ。細かい男だな」
「いや、細かくないでしょ、ぜんぜん――」
門田の稲垣のやり取りを僕は黙ったまま見守っていた。当然僕が口を挟める話でもなかったし……。
結局、稲垣が送ってくれることになった。
それはほとんど門田からの命令という感じだったが、彼は穏やかな表情のまま「遠慮はいらないっすよ」と言った。
「……んじゃ、取りあえず東京を目指して――」
稲垣はギヤを一速に入れた。
「いや、近くの駅でいいですよ」
「いやいやいや、遠慮はいらないっすよ。マジで」
稲垣はそう言って笑うと、サイドブレーキを下ろした。
急発進したピアッツァ・ネロは、一つ目の交差点でスピンターンをきめると東京方面に向きを変えた。
僕としては申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、「遠慮はいらない」と言ってくれた稲垣の好意に甘えることにした。
そして……過激なスタートを切った稲垣だったが、春日部の中心部に近付いたあたりからは一転して穏やかな走りを見せていた。
「あれって堤さんのクラウンすよね?」
不意に稲垣が呟いた。
「あのクラウンって速いっすよねえ。よくあんなクルマで――」
「堤さん、知ってるんだ」
僕は言った。
「……会ったこともありますよ、何度か」
稲垣は声を出さずに笑った。
その態度には微かな違和感を覚えたが、彼が堤を知っていることについては驚きはなかった。そして……祐二が環状線で出会ったのはやっぱり稲垣だったのだろう、とあらためて確信した。
やがてバイパスに入ると、ピアッツァ・ネロはスイッチが切り替わったかのように加速した。
僕はそっと運転席を覗ってみた……。
稲垣は無表情だった。
前方に現れるクルマを荒々しく躱していくピアッツァ・ネロとは対照的に、稲垣の表情からは何の感情も窺えなかった。ただ、対向車のヘッドライトに照らされた瞳だけが、ぎらぎらとした精気を宿しているようだった。
そして次の瞬間、僕の視線に気付いた稲垣はアクセルを緩めた。
「なかなかでしょ、コイツ」
稲垣は笑った。
「見た目は地味だけど……悪くないんスよ」
そう言って一瞬僕の方に視線を向けると、いとおしそうにステアリングを撫でた。
「……確かに」
僕は小さく頷くと、そっと車内を見渡した。
黒で統一された車内は、見事なくらいに殺風景だった。
本来はオーディオ類があるはずの位置にパーソナル無線機が埋め込まれている以外、走りと関係のないものは見当たらない。どことなくAA63に似ているような気がして懐かしい。
「……大事に乗ってるんだ」
思わず僕は呟いた。
「まあ、そうすね。手間は掛かってますから……あ。そういえばカネも掛かってました」
稲垣はそう言って笑うと「自分がいかに門田の店にとって上客であるか」ということを、時折肩を竦めながら語った。
僕は相槌を打つこともなく、黙って彼の話に耳を傾けていた。
そこには取り立てて目新しい話などなかったが、おそらくクルマ好きの人間にしか理解できないと思えるような油臭い日常があった。
たぶん稲垣は僕と同じ人種だ。というより門田も熊沢も堤も、そして祐二や富井も……まあ、中には亜種みたいな奴もいるけど。
「――で……最終的にはエンジンもボアアップして、なんて考えてたんすけど……だけど門田さん、そういうの嫌いらしくて」
稲垣はため息まじりに言った。
「そういうのって?」
稲垣の言葉に僕は思わず反応した。
「ああ――。なんだかエンジン本体に手を加えるのは嫌みたいですよ。邪道だとか言っちゃってさ」
まったく変わりモンですよね――。
稲垣はそう言いながら何かを思い出したように吹き出した。
彼の話を聞きながら、僕は頬が弛むのを感じていた。
変わり者……稲垣に言わせれば、僕もまたそう言うことになるのだろう。
とくに否定する気はないが、あんまり嬉しくはない。
ただ、門田に対する親近感がものすごい勢いで湧いてきているというのは疑いようがなかった。
「そういえば横浜のドコいらへんっすか?」
稲垣は不意に話題を変えた。
「あ……いや、家です。ケッコウ広いじゃないスか、横浜って言っても」
確かに稲垣の言うとおりだった。一口に横浜と言っても、その範囲はかなり広い。
僕は頭の中で目印になりそうなモノを思い浮かべてみたが……。
「あ……ごめん、やっぱり家じゃなくて会社までお願いします」
このまま家まで送られても明日の通勤の足がないというコトに気付いた。
***
葛西橋通りを横切り、左手には警察署が見えてきた。
「その信号の先を――」
僕が前方を指さすと、稲垣はミラーを一瞥してから「了解」と短く応えた。
まもなく見慣れた通りが現れ、照明の消えた看板が見えてきた。
僕が看板を指さすと、稲垣は頷いて速度を落とした。そして店先の駐車スペースにアタマから突っ込んだ。
「あれ。まだ営業してるんすか?」
稲垣が訝しげに呟いた。
看板の照明は消えていたが、店内には煌煌と照明が灯っていた。
ブラインドが下りているせいで中の様子は窺えなかったが、熊沢がまだいるのは明らかだった。
「悪い。このままウラに回ってもらっていい?」
僕は意味もなく小声で言った。
駐車スペースの一角には例の話の長~い客のクルマが停まっている……きっと近付かない方が無難だ。
「――ありがとう、助かったよ」
僕は簡単な礼を述べると、クルマのドアを開けた。
人気のない、真暗な駐車場には、ナンバーのないシビックと熊沢のマスターエース、そして僕のスープラしかなかった。
僕はスープラに歩み寄ると、ジーンズのポケットを探り、キーを取り出した。
「え。北条くんのクルマってソレ?」
声に振り返ると稲垣がスープラを指さしていた。
いつの間にかクルマを降りていた彼は、驚いたように目を見開いていた。
「……そうだけど」
僕は微かな戸惑いを隠しつつ、小さな声でそう答えた。
稲垣が何に驚いているのか僕にはまるで見当がつかなかったが、彼の方は何かに合点したようで、大きく頷きながら「なるほど――」と自分に言い聞かせるように繰り返した。
「つまり……アイスマンって北条くんのことなんだ」
稲垣は言った。
その顔には意味ありげな笑みが広がっていた。