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#071 Deep Green Engine


「――はい。ああ、それはべつに……ええ、じゃ、それで……はい、よろしくお願いします」


 僕は丁重に礼を述べると、静かに受話器を置いた。


「なんだって、宇野は?」

 待ち構えていたように熊沢が声をかけてきた。

「あるみたいです。午後には届けてくれるそうで――」

「だろ?」

 熊沢は僕に最後まで喋らせず、満足げな笑みを僕に向けてきた。宇野への電話は彼の指示だった。

「ただ、おっそろしく程度が悪いらしいですけど」

 僕がそう付け加えたのは熊沢に対するせめてもの抵抗からだったが、受話器の向こうの宇野の声色を思い出し、僕はそっと口元を弛めた。とりあえずこれで部品取り用の1G-GTエンジンの目途がついた。


 工場の一角には、ボンネットを外したクラウンがエンジンを降ろした状態で置かれていた。

 いまだに天使と会えないでいる僕だったが、クラウンのチューニングにはすでに取り掛かっている。

 手を付け始めないとなんだか落ち着かなかったということもあるが、そろそろ作業を開始しないと堤が帰ってくるまでに仕上がらない可能性があった。

 シーケンシャルのイメージは、既に僕の頭の中ではっきりとしたカタチになっている……とはいってもほとんどは熊沢の意見を採用したと言ってもいいくらいだったが。

 そして天使についても、やはり熊沢のチカラを借りることにした。

 出張中の堤を除いた「いつものメンバー」に加え、今回は「ブラッドリーたちにも招集を掛ける」と熊沢は言っていた。

 彼らと無線を通してコミュニケーションをはかる自信が僕にはなかったのだが、熊沢はとくには気に留めていないみたいだった。

 というわけで、とりあえずは「天使の捜索」と「クラウンのチューニング」を同時進行で進めていくことにした。



 宇野がやってきたのは、午後二時を回ったころだった。

 白い軽トラから降りてきた彼はいつものスーツ姿ではなく、色あせたブルーのツナギを着ていた。

「めずらしい格好ですね」

 僕が茶化すようにいうと、宇野は首を横に振りながら「ナニを着せても似合うだろ」と自嘲気味に微笑み、軍手をはめながら軽トラの荷台の方に回った。

「さっきも言ったけどよ、本っ当に汚えーからな」

 見て驚くなよ――。

 宇野は口元を歪めると、言い終えるより前に荷台を覆っていたブルーシートをはぎ取った。


「――?!」

 僕は一瞬声を失った。

 目の前に現れた1G-GT型エンジン。見慣れたはずのそのエンジンは、僕が知っているソレとは明らかに違うものだった。汚いとは聞いていたが……まさかこれほどだとは思っていなかった。

 見える範囲のいたるところに蜘蛛の巣が張り巡らされ、ご丁寧に無数の虫の死骸がトッピングされている……。

 しかもヘッドは深緑色をしていた。

 塗装してあるのかと思うほど、びっしりとヘッドを覆った濃い緑色のコケ――。どういう保管の状況だとこれほど見事にコケが生えるのか不思議で仕方がなかったが、現にこうして隙間なく埋まったコケを見てると――


「うへぇ……。噂に違わぬ程度の悪さだな、コイツは……」

 振り返ると、いつの間にか熊沢が立っていた。

 軽トラの荷台を覗き込んだ彼は、僕と目が合うと何か言いたげに首を傾げた。

 それはともかく、まずはコケを落とさないと作業には入れないことは確かなようだ……。




「……ん? なにおっ始めんのよ?」

 熊沢は僕の手元を指さし、怪訝そうに眉をひそめた。

「ああ。コケでも落とそうかと」

 僕はタワシと洗剤の入ったバケツを顔の高さにまで掲げた。

 早いところ目障りなコケを落としてしまいたいと思ったのだが……

「なんだ。そんなのあとにしろよ」

「……なんでですか」

「宇野がアイスを買ってきてくれたんだ。おまえも食うだろ?」

 熊沢は事務所の方を親指でさし、口元を弛めた。

 そして、有無を言わせずに連行された事務所には山田と吉岡もいた。


「なんだ。抹茶しか残ってねえな」

 コンビニのビニール袋を覗き込んだ熊沢は、無感動な声で呟いた。

「抹茶でいいです」

 僕も熊沢以上に感情のこもらない声で呟くと、ビニール袋に残っていたカップのアイスを手に取った。

 汗をかいたアイスのカップは若干やわらかくなっていた。

 僕は宇野に礼を述べると接客席から少し離れた地面に腰を下ろした。そしてそそくさとフタを開けてアイスを口に含んだ。融けかかったアイスは程よいやわらかさだった。僕は少し大きめにすくった塊を口に放り込んだ。そしてやや遅れてこめかみを襲ってきた鈍い痛み――


「――なんだかすごいらしいな」

 不意に宇野が呟いた。

 僕はこめかみを指で押さえたまま周りを見渡してみたが……どうやら僕に向かって言ったみたいだが、彼も熊沢同様に端折りすぎる癖があるようだ。

「すごいって……コケの繁殖力ですか」

 僕は惚けて首を捻ると、茶化すように言った。


 まあそれもあるが――。

 宇野はまったく動じることもなく微笑んだが、宇野の向かいに座っていた熊沢が顔をしかめた。

「おまえよ。コケの話なんかするわけねえだろ」

 呆れたように熊沢は言ったが、僕は惚けてもう一度首を傾げた。

「ジムカーナに決まってんだろ? それ以外におまえがスゴイって言われることなんかあるもんかよ」

 まったくこういうカワイゲのねえことを言うヤツなんだよな――。


 熊沢は息をつく間もなく、僕をこき下ろす言葉を並べはじめた。

 苦笑いを浮かべた山田と宇野が宥めなかったら、きっとまだまだ続いていたのだろう。

 しかしそんなときでも経理の松本さんだけは「まるで何も耳に入っていない」かのようにマイペースでアイスのカップをつついている。実に不思議な人だ。

 それはともかく、宇野の言うとおり、ジムカーナ競技会の成績は順調すぎるほど順調だった。僕と富井は上位入賞の常連だったし、ココに来て祐二が調子を上げてきている。

 コースが憶えられずに難儀していた祐二も、ジムカーナのコースレイアウトの規則性に気付いたようで、最近はようやく完走できるようになってきた。もともと技術が低いわけではなかったので「完走=好成績」という図式が出来上がっている。実際にこのところは三戦続けて入賞を果たしている。


 三人が表彰台を独占する日もそう遠くはない――。

 そんな予感はたぶん僕だけのモノではないように思えた。


「そういや、門田さんもだいぶ感化されてたみたいだな」

「門田が?」

「ああ」

 宇野は頷いた。

「熊沢にばっかりいい思いをさせるわけにはいかねえ、ってな」

「バカじゃねえの。なにいってやがるんだ、あいつは」

 熊沢は鼻で笑った。


 門田――。たぶん春日部のチューニングショップの親父のことだろう。一度しか会ったことはないが、確かにそのときの会話の中に「熊沢への対抗心」が見え隠れしていたような気がする。

 それにしても、宇野が門田と顔見知りだとは知らなかったが。


「でも門田さんが本気で参戦するんだとしたら……ちょっと脅威だろ?」

 宇野は何か含みを持たせるような口ぶりで言った。

「べつに」

 熊沢はまるで興味がないかのように怠そうに首を捻った。

「まあ、足回りのセッティングに関しちゃ、ウチよりも上かもしれねえが――」

 言いかけて口元を弛めた。「だけど、あいつんところにはドライバーがいねえだろ」


「だったらひとり貸してやればいいじゃん」

 三人もいるんだから――。

「やだよ」

 熊沢は首を横に振った。

「なんでよ。あ! 北条、おまえなんかどうよ?」

 宇野は僕を窺ったが……

「ふざけんなよ、てめえ」

 熊沢は口を尖らせた。

「苦労してようやくここまで育てたっつうのによ」

 育てたという言葉を強調するように熊沢は言ったが……育てられたという覚えは僕にはまったくない。

「それにコイツはウチのメカでもあるんだぞ。ウチ以外のチームで出たいわけがないだろ……な?」

 熊沢はそう言って僕を窺ってきた。しかし……。

「というかジムカーナ自体に興味はないんですけど」

 できればもう走りたくないというか――。

 僕は気を逸らすように肩をすくめた。

「まだそんなこと言ってんのかよ」

 熊沢は呆れたように両手を広げると、宇野と顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、おまえはナニを目標に走ってるんだ?」

 怒らないから言ってみな――。

 そう言って僕に向き直った。

 目標と言われたとき、脳裏をよぎった「言葉」はひとつしかなかった。

 だけどそれを口にすることなく首を傾げたのは、熊沢がいつになく真面目な顔をしていたから……なのかもしれない。




 それから数日後、エンジンは無事組み上がった。

 クラウンのエンジンルームに収まった1G-GT改……いや、元のスーパーチャージャーをベースにしているから1G-GZ改という方がきっと正しいのだろう。


「お。ようやく終わったか」

 熊沢が工場に顔を出した。

 口元に薄い笑みをこびりつかせて近づいてきた熊沢は、両手に軍手をはめながら横目で僕を一瞥するとエンジンルームを覗き込んだ。


「ほお。なかなかきれいに収まってるじゃねえか」

「ええ。とりあえずカタチにはなりました」

 僕が答えるより先に山田が言った。

「まだ微調整は必要な感じですがね」


 今回エンジンを組むに当たっては、いちいち山田の指示を仰いでいた。

 エンジンを組むのは初めてではない僕としては、途中途中で作業を止めて山田にチェックしてもらうということに少なからず抵抗があった。

 しかし社長の命令とあっては仕方がなく、僕は渋々ながらそれに従った。それがなければきっと「半日」くらいは早く仕上がっていたはずだ。


 そんな僕の気も知らない熊沢は、エンジンルームに手を伸ばして何かを確認するようにいじくり回していた。

 いつになく真剣な目をした彼だったが、彼が表情が真剣であればあるほど、それが却って「きっと粗探しをしているのだろう」というふうにしか見えず、僕としては嫌な気分になった。しかしそうとも言えず、熊沢の後姿をただ黙って眺めていた。


 やがて熊沢は顔を上げた。

 相変わらず真顔の彼は何かを確認するように二度頷くと、僕に向き直った。


「あとは……実際に走らせてみるしかねえだろ」

 そう言って意味ありげに微笑した。


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