#070 Observation Tower
浄水場通りを抜け、たどり着いた北部市場の前の信号は赤だった。
停止線ギリギリにクルマを停めた僕は助手席を横目で窺ったが、陽が落ちた車内はすっかり暗くなっていて祐未さんの表情までは確認できなかった。
あれから彼女は口を開いていない。
しかし口を開くことはなくても、ピリピリとした雰囲気はこちらにまで伝わってくる。
確かに彼女の言うとおり、僕の一言は余計な一言だったのかもしれない。少なくともあの場所で言うべきことではなかったような気もする。
だけど、僕としても冷静さを欠いて勢いで口走ったというわけではなく、むしろいつも以上に彼らの顔色を窺っていて……つまり、十分に言葉を選んでのことだった。
僕らの関係はまだ一弥君の知るところではなかったが、僕としてはいつバレても構わないという、開き直りに近い気持ちがあった。
しかし……ソレを僕の口から伝えるイメージはなかった。
いつか祐未さんから伝わるのだろうという安易な考えはいまだに持ち続けている。
つまりは、なんだかんだ言っていやな役回りを彼女に押付けているだけで……そう考えると、自分がとてもズルい人間に思えて気分が凹む。
信号が青に変わった。
交差点を左折すると東名・川崎インターはすぐそこだった。
「メシって食べました?」
僕は真っ直ぐに前を見たまま言った。
「食べるヒマなんてあったと思うの?」
間を置かずに返ってきた醒めた声に、僕は肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
しかし彼女の答えを「食事の誘い」に対する肯定と受け取った僕は、川崎インターから東名高速道路に入り、上り方面にクルマを走らせた。とくに頭に浮かんだ店があるわけではなかったが、とりあえず都心方面を目指すことにした。
東京料金所を通過し、用賀で一般道へと下りた。
行き先のイメージがまったく決まっていない状況では、一般道を走った方が選択肢が広がるような気がしていた。
「ドコに向かってるの?」
環八を右折したところで祐未さんが呟いた。
僕は首を傾げると「何か食べたいものってあります?」と逆に質問した。
しかし彼女からの返事は「べつにない」というツレナイもので、僕はそっと肩を竦めた。
国道二四六号線と交差する瀬田に近付くと、途端にクルマの流れが悪くなった。
交差点に近付くに連れ、ムリな割り込みをするクルマが現れて熾烈な車線争いが勃発したが、僕は頑なに真ん中の車線をキープした。
やがて瀬田を過ぎるとクルマの流れはスムーズになり、この頃には僕の中でも行き先が固まりつつあった。
取りあえず自由が丘に行こうと思った。以前、誰かに連れて行って貰ったことのある、駅のそばの洋食屋が頭に思い浮かんでいた。
等々力不動前を左折して目黒通りに入ると、東急の線路を越えたところで赤信号につかまった。
僕はコンソールボックス開け、中から飴を取り出し、パッケージの封を切った。
「いります?」
僕は飴を持ったまま助手席を窺ったが、祐未さんは小さく首を横に振った。
「そうですか……美味しいんですけどね」
言いながらレモン味のする飴を口に放り込んだ。
そのとき、信号待ちをする僕の目の前を赤いルノーが軽快に走り抜けていくのが見えた。
「あ……」
僕は思わず声を漏らした。
そして祐未さんの視線が僕の方に向いた。
「あ、いえ……」
僕は彼女の視線をやんわりと躱すと、何事もなかったかのように視線を前に向けた。
そういえばあの洋食屋はもうなかった。
何年か前に行ったときには既に閉店していたんだっけ――。
行き先を見失った僕は、再び頭の中で検索を始めた。
しかし目ぼしい名前が浮かび上がることはなく、結局は駒沢通り沿いに見つけたファミレスの駐車場にクルマを乗り入れた。
***
ファミレスで質素な夕食をすますと、駒沢通りを中目黒方面に向かった。
中目黒駅前を過ぎると、恵比寿の先から明治通りへと抜け、天現寺方面にステアリングを切った。
祐未さんは黙り込んだままだった。
クルマに乗ってから一言も言葉を発していない。もっともファミレスでも必要最低限の言葉以外は口にしていなかったが。
彼女は時々こういうことがあった。
もともと口数が多いという印象はなかったが、暗いという印象はもっとない。普段の彼女はとても明るく、笑顔を絶やさない人だった。
それでも時々こうして押し黙り、窓の外を見ていたりすることがある。
彼女の目に映るものがなんなのか僕にはわからない。だけどそこに僕が映っていないと思えるのは「気のせい」や「物理的な問題」だけではないように思う。
天現寺橋を過ぎたところで、僕はそっと助手席を窺った。
しかし彼女は僕がそうすることがわかっていたかのようにじっと僕の方に目を向けていて、僕はバツの悪さに思わず顔を背けた。
いつのまにか頭上には首都高速が走っていた。
その首都高速道路を追いかけるように新一の橋へと抜け、赤羽橋の交差点を左に曲がる。芝公園を右手に見ながら500メートルくらい進み、プリンスホテルの前の交差点を左折して坂を駆け上がると、そこには天を衝くような電波塔が赤く光っていた。
東京タワーの広い駐車場にクルマを乗り入れると、僕は誘導してくれたおじさんの指示を無視して、タワーの足元にスープラを停めた。駐車場には車は数えるほどしかなく、ドコに停めても問題はなさそうだった。
「ちょっと、寄っていきません?」
助手席に向かってそう告げると、返事を聞く前に僕はスープラのドアを勢いよく開けた。
そして僕より少し遅れてクルマを降りた祐未さんは、赤く光るタワーを真下から見上げていた。
「昔、来たことがありましたよね?」
後ろから彼女に近付いた僕は、細い肩に手を回した。
「そうね」
彼女は言いながら僕の手を軽く叩いたが、僕は気に留めることもなく彼女を抱き寄せ、真上に聳えるタワーを見上げた。そしてそのまましばらくのあいだ立ち尽くしていた。
「あ……そうだ」
僕は彼女の肩に回していた左手を解いた。
祐未さんはその意味を探るように僕を見上げたが、僕は口元を弛めると「まだやってますよ」と左手にはめた時計を指先でつついた。
「せっかくだから行ってみません?」
そう言った僕の視線は東京タワーの遥か高い部分に向いていた。
僕らは閉館が迫った展望台へと上がった。
見下ろした夜の街――。そのなかに首都高速があるのを見つけた。
ヘッドライトが切れ目なく流れる都心環状線は、僕らが活動している時間とはまるで違う表情を見せていた。
ビルとビルのあいだを縫うように走る環状線を眺めていると「普段の僕らの走り」がこの場所からはどう見えているのかということに興味が沸いた。環状線のあっちこっちで繰り広げられるバトルが、ここからはどう見えるのか……まあ、たぶん臨場感も何もない、取るに足りない夜景の一コマという感じなんだろうけど――。
ふと我に返った僕は、隣にいる祐未さんの顔を窺った。
まっすぐに遠くを見ていた彼女の横顔が不意にほころんだ。
「……?」
僕は彼女の視線を追うように南の方向に目を凝らした。
しかしその夜景のなかに「面白い」と思えるものを見つけることはできなかった。
「……なにかありました?」
僕は彼女の方を窺い、小さく首を傾げた。
彼女は眼だけを僕に向けると「ええ。いろいろと」と冷めた声で言った。
しかしその表情はさっきよりも幾分やわらかくなっているような気がした。
そういえば、以前にココに来たときも祐未さんは機嫌が悪かった記憶があった。むくれた彼女をなだめるのに僕らはずいぶん苦労したような気がする。僕らが調子くれて話しかければかけるほど、彼女は顔を背け、頑なな態度を貫いていた。
困った人だな――。
あのとき僕は心の中でそう呟いていた。しかし次の瞬間、まったく別の感情が僕の心に入り込んできた。
東京タワーを見上げた祐未さんの表情、子供のように無防備な笑みが広がっていくのを目にしたとき、僕は自分の顔が熱く紅潮していることに気づいた。そして彼女に対してそれまでとは明らかに違う感情を抱いていることに気づいた。
もっともあのころは、いまの僕らがこうなっているとは思いもしなかったが……。
「――好きなんですね」
僕は微笑しながら祐未さんを窺った。
彼女は僕の目をみたまま小さく首を傾げた。
「東京タワーですよ」
僕が続けると、彼女は僕から目を逸らし「そうかもね」と口元をほころばせて言った。
「そういえば、以前にきたときも祐未さんがはしゃいでて……」
「はしゃいでないわよ」
「いや。一般的にはああいうのをはしゃいでるって言うんですよ」
僕は笑ったが、彼女は納得いかないと言った表情で僕を睨んだ。
「だって、あのときは展望台まで来てないもの」
「そうでしたっけ」
僕は惚けて首を傾げた。
「そうよ。途中で迷っちゃって……着いたときには閉まってたじゃない」
「ああ……そうだったかもしれないですね」
僕は笑った。
そういえば、あのとき祐未さんの機嫌を損ねたのは、ココの営業時間に間に合わなかったせいだった。
道路がひどい渋滞だったというのもあったが、助手席にいた僕の道案内もよくなかった。近道だと思って教えた道がけっこう狭くて、途中で立ち往生したりして……。だけど当時クルマの免許を持っていなかった僕らは、ビビりまくる運転手を見守ることしかできなかった。そして何とか抜け出して東京タワーについたのは、展望台が閉まってからしばらくしてのことだった。
「でも……数年後に祐未さんと二人で来るとは思ってなかったです」
僕が首を捻りながら言うと、彼女も同じように首を傾げた。
「私も思わなかったわ。でも――」
「でも……?」
僕は彼女を窺った。
「ココには絶対に来たかったの」
彼女ははっきりとした声で言った。
しかしその理由については教えてくれる様子はなかった。
もっとも大した理由なんてないのかもしれないが。
閉館ぎりぎりまで展望台に居座ってから駐車場に戻ると、そこには僕のスープラだけがぽつんと停まっていた。
広々とした駐車場――。
それはジムカーナ場を連想させた。だけどこんなときにまで「そんなこと」が思い浮かぶなんて少し嫌な気分になる。頭の奥の方まで熊沢たちに毒されてしまったような気がして何とも言えない不安が――
「――ありがとう」
不意に祐未さんが呟いた。
意味がわからず曖昧に頷くと、彼女は「へんな気を遣わせちゃったみたいでごめんなさい」と僕に向かって頭を下げた。
ああ――。
僕は合点して頷いた。
「べつに気なんか遣ってないですよ」
そんなことはどうでもよかった。
「ただ、ちょっと反省はしてます。本当に少しだけですけど」
少しだけ、を強調して微笑すると、彼女は口を尖らせながらも微笑み返してきた。
そして僕の首に両腕を回すと、強く引き寄せ、そっと唇を重ねてきた。
それは一瞬の出来事で、次の瞬間には悪戯っぽく微笑む祐未さんと目が合い、僕は戸惑って思わず口元を歪めた。
「念のため、言っておくけど――」
祐未さんは笑みが残った顔で僕を見上げた。
僕は彼女の瞳に吸い込まれそうな錯覚に囚われながら、続く言葉を促すように小さく頷いた。
「カズのところに戻ろうなんて考えてないから」
そう言って口角をきゅっと上げた。
僕は彼女の視線から逃れるように首を振ると、呆れた素振りで口元を弛めた。
「べつにそんな心配はしてないですよ。ただ……」
「ただ……?」
彼女は首を傾げた。
「しばらく構ってあげなかったから欲求不満になってるんじゃないかと……いまのキスで確信しました」
僕は嘯いたが、彼女は笑いながら「ないない――」と僕をあしらうように手のひらを翻した。