#069 Farfetched Excuse
目の前の信号が赤に変わった。
停止線の手前にクルマを止めた僕は、ウインカーを右に出し、少しだけ運転席の窓をおろした。
夏の陽はまだ高く陽射しも強い。
しかし強すぎる夏の陽射しと反比例するように僕の気分は下がっていく一方だった。
仕事を早退した僕は、一弥君のいる病院へ向かっていた。
東名高速道路を川崎で下り、登戸方面に向かってクルマを走らせる。何度となく通い詰めたこの道だったが、一弥君が意識を取り戻してからは一度も通っていなかった。
本来ならもっと早く会いに行くべきだったのだろう。だけど正直言っていまはあまり気乗りがしない。彼と会って普通でいられる自信が僕にはなかった。
とは言え、いつまでも逃げ回っているわけにはいかないというのは疑いようがなかった。
昨夜、僕の部屋を祐未さんが訪ねてきた。
正確に言えば、僕が家に帰ると既に部屋で待っていた、ということなのだが。
突然の訪問ではあったが、まるっきり予期していなかったわけではない。
彼女からは何度も何度も電話をもらっていた。だけど僕はずっとそれを無視し続けていた。
だから彼女が訪ねてきたのは「痺れを切らして」ということなんだろうが、それについて彼女はなにも言わなかった。
僕を責める素振りはいっさい見せず、ただ薄い笑みを浮かべて「おかえり。遅かったね」と小さな声で言った。
「……ただいま」
目を合わせることなく呟いた僕に、彼女は「仕事、忙しい?」と微笑みかけてきた。
遠慮がちに呟いた意味のなさそうなその言葉。彼女が僕の仕事に興味を持ってるとは思えない。
僕は「任されてるクルマが仕上がるまでは忙しいですね」と面白味もなにもない答えを返すと、彼女をダイニングに残したままバスルームへと向った。
祐未さんが訪ねてきた理由など聞くまでもない。だけどそれがわかっているからこそ素直になれない気持ちもあった。
彼女と冷静に話をするためにはほんの少しの時間的な猶予が欲しかった。
バスルームから戻ると、彼女はさっきと同じ体勢のまま僕を待っていた。
まるでまったく動いていなかったんじゃないかと思うくらいに。
「……何か飲みますか?」
僕は彼女の方を見ることなく呟くと、冷蔵庫を覗いた。
「と思ったんですけど……何もなかったです、すみません」
冷蔵庫は空っぽだった。
思わず二度見をしてしまうほど、見事なスカスカ具合だった。
「ホント。何もない」
呆れたような祐未さんの声が聞こえた。
後ろから覗き込んできた彼女は、振り返った僕と目が合うと、ようやくほっとするような笑みを見せてくれた。
同時に吸い込まれそうなその瞳に思考が停止してしまいそうな気がして――
「あ……じゃ、ロックでいいですよね?」
僕は慌てて目を逸らした。
「氷だけはたくさんあるんで」
そう言って彼女の視線を掻い潜り、アーリータイムスのボトルに手を伸ばした。
……。
ロックグラスの氷がカラリと軽い音を立てた。
テーブルを隔てて座った僕らだったが、グラスの氷が解けるころになっても会話がなかった。
僕にとってはそれが苦痛になることはなかったが、状況としては不自然だと言わざるを得なかった。
そんなことより……コースターくらい出しておくべきだったと思った。
汗をかいたグラスの周りは水浸しになってしまっていた。
僕と祐未さんのあいだに横たわる不自然な間より、いまはグラスの周りから徐々に広がりつつある水たまりの方が気になっていて……。
僕は何も言わずに立ち上がるとキッチンに向かった。
布巾と布製のコースターを手にして戻ると、テーブルとそれぞれのグラスの底を拭ってからコースターの上に乗せた。
そして――
「用事があって来たんですよね?」
立っていたついでに僕は口を開いた。少しだけ笑みを浮かべて。
僕の作業に見入っていた祐未さんは、一瞬の間を置いてから小さく頷いた。そして僕に促されるように重い口を開いた。
彼女は、一弥君が僕を待っていると言った。一向に姿を見せない僕を「どうしたんだ?」と逆に心配しているのだという……まあ、当然だ。
「やっぱり不自然ですもんね……」
僕はワザとらしく顔を顰めると、視線を彼女を通り越した壁に伸ばした。
「明日にでも顔出してみますよ。いつまでも逃げ回っているわけにはいかないし」
彼女に聞かせるでもなく呟くとグラスをかたむけた。その刹那、視界の端に映った彼女は小さく頷いていたような気がした。
信号が青に変わった。
ギヤを一速にいれ、ゆっくりとクラッチをつなぐ。そして対向車が捌けたのを確認すると、LSDを利かせながら交差点を右に曲がった。
このまま浄水場通りを北へと向かえば、一弥君のいる病院まではまもなくだった。
しかし、病院に近付くにつれて緊張感がつま先からせり上がってくるような気がした。
ココに来たことをいまさらになって後悔しはじめていた。
***
「よお……」
一弥君はそう言って右手をあげた。
僕は軽く右手を掲げてそれに応えると、真っ白で無機質な部屋を見渡した。
祐未さんは部屋の隅で、まるで僕からの視線を避けるかのように小さくなっていた。
「まったく……全然来ねえから心配してたんだぞ」
一弥君は口元を弛めて呟いた。
そんな彼の表情には、先日まではなかった精気のようなモノが宿っている気がした。
「――何言ってんですか」
僕は大袈裟に顔を顰めた
「心配してたのはコッチの方ですよ」
何年も寝っぱなしで――。
「まあそういうなよ」
一弥君は微かに目を伏せると右手を差し出してきた。
血管の浮き出た細く白い腕……。
手の甲だけが妙に大きく見えて違和感があったが、僕は何も言わずにその手に右手を合わせた。
僕は不思議な感覚にとらわれていた。
ココに来るまでの緊張感が嘘だったかのように、いまの僕はリラックスしていた。
一弥君と話をするのはあの事故があった日の大垂水峠以来だった。それ以降は眠っている彼の元に一方的に会いに来ていただけで、当然コミュニケーションを図る手段はなかった。しかし、その数年間の空白は微塵にも感じなかった。
たぶん、ずっとこの瞬間を待ち続けていた。もちろん可能性が低いというコトはわかっていたのだが、それでも彼が目を醒ます日を待ち続けていた。
あの大事故の直後、僕は昏睡状態となった彼をずっと見守り続けることを決めた。どんな結果を迎えるとしても、最期まで見届ける覚悟が僕にはあった。だけど――
僕は右手をそっと下ろした。そして目を伏せ、微笑した。
実際に僕が見守っていたのは祐未さんだったのだと思う。
早く一弥君が目を醒ましてくれないと彼女の方が参ってしまう。僕が心配していたのはそれだけだった。
だからいまにして思えば、僕が待ち続けていたのは必ずしも「ひとつの結末」ではなかったのかもしれない。
そしてそれは、僕と彼女の関係が劇的に変化したあのときを境にはっきりと意識するようになっていた。僕の中では「もうひとつの結末」を求める気持ちが日に日に強くなって――
「――祐未ぃ。ちょっと席はずしてくんねえ?」
一弥君が呟いた。
のんびりとしたその声が僕の中の悍ましい考えを一瞬にして掻き消した。
祐未さんは怪訝そうに眉をひそめていた。そして「どうして?」と小さく首を傾げた。
「おまえさあ……男同士でする話なんて下ネタ以外にねーだろ」
一弥君は悪戯っぽく笑った。
祐未さんは肩を竦めた。
そして困ったような微笑を浮かべて息を一つ吐くと、そそくさと部屋を出ていった。結局この部屋にいるあいだ、僕と彼女は一度も目を合わせることはなかった。
部屋のドアが閉まると、なぜだか息苦しさを覚えた。
一弥君と一緒にいても気を使うことなんて何もなかったはずなのだが、それでもいまの僕は以前と同じような態度ではいられないような気がした。
僕は窓際に移動すると窓を薄く開いた。
そして落ち着かない気持ちを悟られないように、大袈裟なくらいにゆったりとした所作でベッドサイドの丸椅子に腰を下ろした。
「なんだか老けたんじゃねえか、おい」
一弥君が口を開いた。
僕の心中を察したような軽口の先制パンチに、少しだけ僕の心は和らいだ。
「お互い様ですよ。鏡持ってきましょうか?」
僕がそう言って立ち上がると、彼は苦笑いを浮かべて両手でそれを制した。
「それより思ったよりもカラダが動かなくってな」
参ったぜ、まったく――。
「でもよかったじゃないですか、そのくらいで済んで。一歩間違えりゃ死んでたんですよ?」
「まあな。でも何かと不便で仕方ねえ。せめて松葉杖が使えるようになりゃ、祐未にも迷惑かけないんだがな」
彼の口から出た祐未さんの名前に僕の心はざわめいたが、それを悟られないように小さく頷いた。
「ところで、おれのKPってどうなった?」
「ああ――」
僕は窓の外に視線を伸ばした。「完全なスクラップ状態でしたよ」
他人事のように努めて軽い口調で言った。
「なにしろ解体屋が潰す手間が省けたって喜んでたくらいですから」
「……だろうな」
そう言って一瞬顔を顰めた一弥君だったが、何かを思案するような表情を浮かべて小さく首を振った。
「で……おまえの方はどうよ?」
一弥君は窺うような視線を僕に向けてきた。
意味がわからず小さく首を傾げると、「まだ走ってるのか?」と補足するように言った。
「ああ……走ってますよ」
僕は頷くと、いまはスープラに乗り換え首都高速を走っていること、ジムカーナの大会に参加していること、などを掻い摘んで話した。そして――
「――グループAに参戦しようと思ってます。ま、いつかは、ですけど」
僕は言った。
まるでそれが自分自身の目標であるかのように。
「そうか……」
一弥君は大きく息を吐き出した。
「目指すものがちゃんと見つかったんだな」
彼はそう言うと何度も小さく頷いた。
そんな彼の態度に、僕も居心地の悪さを感じて意味もなく立ち上がった。
「なんか暑いな――」
誰に言うでもなく呟きながら立ち上がると、さっき開けたばかりの窓を閉めた。
熱い外気を遮断した部屋は、エアコンのおかげですぐに元の涼しさを取り戻した。
やっぱりこのくらい不健康に冷えてる方がいかにも病室らしくて――
「ウチの親とは会ったか?」
不意に一弥君が呟いた。
彼は視線を落としたまま、僕の方に目を向けることはなかった。
「一回だけ会いました」
僕もまた彼の方を見ずに答えた。
「入院してすぐのときですけど……話はしてませんけどね」
そうか――。
一弥君はそう言うと小さく首を振った。
そして「まったく情けねえ話だな……」と絞り出すような声で言った。
「……?」
僕は首を傾げた。
そんな僕を一瞥した彼は、薄い笑みを浮かべて話し出した。
「おれんちの親子の関係なんてとっくに破綻してるってのによ、いまこうして生きていられるのは親のカネのおかげだっつうんだからな」
彼は口元を歪めると、空調の利いた部屋を見渡して、また二度三度と小さく首を横に振った。
確かに皮肉な話だった。彼と彼の家族の関係――、それは僕もわかっているつもりでいた。
彼の両親が見舞いに来ることはほとんどないということは祐未さんからも聞いていた。それでもこの環境で治療を続けてこられたのは親のおかげだというのは疑いようがなかった。そしてそれが「親に反発して家を出た」一弥君にとって耐えがたい屈辱だということは、彼の性格をよく知る僕にはよくわかっていた。
「まったく、いまさら親の世話になるなんてな……」
彼は首を振りながらのんびりとした声で呟いた。「死にたくなってくるぜ、マジで――」
「馬鹿なこと言わないでください」
僕は静かに口を開いた。
一弥君は目を丸くしていたが、僕は構わず言葉を続けた。
「みんなホントに心配してたんですよ? 祐未さんだって毎日のようにここに来て……勝手なコトばかり言わないでくださいよ」
思っていたよりも強い口調になってしまった理由はわからなかった。
ただ彼が「死」を口にしたとき、それを許せないという気持ちと何とも言えない居心地の悪さとが僕の中で綯交ぜになっていた。
「……そうだったな」
悪かったよ――。
一弥君は僕に向かって軽く頭を下げてきた。
それは彼をよく知る僕にとっては意外な行動に思えた。
長いこと入院をしているあいだに心まで弱くなってしまったのか――。そう考えると、いま僕の目の前にいる彼は、既に僕の知る一弥君ではないような気がした。
「……そろそろ祐未さん呼んできますよ」
僕はそう告げると、この場から逃げるように立ち上がった。
いずれにしても、居心地の悪い思いをしたのは僕だけではなさそうだった。
祐未さんが部屋に戻ってきてからの数十分、僕はほとんど言葉を発することもなく、また彼らの会話に参加することも耳を傾けることもなかった。
ただ、部屋の隅にあるキャスター付きのチェストの上に置かれた時計の針を眺めていた。
針はまもなく七時になるところを指している。僕は薄暗くなりかけた窓の外に目を向け――
「……よな? 聖志ならわかってくれるだろ?」
声に振り返ると、そこには一弥君の満面の笑みがあった。
そして祐未さんは相変らず視線を落としたまま、僕と目を合わせようとはしなかった。
「すみません――」
僕は口元を歪めた。
「ぼーっとしてて聞いてませんでした」
「なんだよぉ」
一弥君は口を尖らせた。
「まったく、聖志らしくもねえ。どっか調子でも悪いのか?」
「いえ……というか、そろそろ帰りますね」
そう告げると僕は立ち上がった。「じゃ――。祐未さん、行きましょうか」
祐未さんは弾かれたように顔を上げた。
その顔には戸惑いが浮かんでいたが、目にだけははっきりとした抗議の色が浮かんでいた。
「送っていきますよ。ついでですから」
僕は構わず続けたが、祐未さんは何も応えてくれなかった。
そして僕もまた、続く言葉は出てこなかった。
お互いに押し黙ったままの膠着状態……僕にはそれがとても長い時間に感じられていた。
「おお。それがいいじゃんよ――」
一弥君が口を挟んできた。
そして能天気な彼の声が、絡みついていた見えない縛めから僕を解放してくれたような気がした。
「悪いけど送って行ってやってくれよ。こんな時間に一人で帰らせるんじゃ、おれだって心配だしよ」
一弥君の言葉に、僕は彼の方を見ることなく小さく頷いた。
「……こんな時間って、まだ七時なんだけど」
ようやく祐未さんが口を開いた。縛めが解けたのは彼女も同じだったようだ。
「七時だってなんだっていいんだよ。将来の嫁を心配すんのは普通だろ。なあ?」
一弥君は笑いながら僕を覗ってきたが、それには応えず「ま……ついでですから」と素っ気なく呟いてから一足先に部屋を出た。
病室の外で待っていると、遅れて出てきた祐未さんは僕に目を留めることもなく、エレベーターホールに向かって歩き出した。
僕は小さく息を吐き、彼女の背中を追いかけた。
一階に降りても祐未さんは口を噤んだままだった。
そんな彼女が口を開いたのは、駐車場からでてすぐの交差点で止まったときだった。
「なんであんなこと言ったの?」
赤信号を睨みつけながら祐未さんは口を尖らせた。
「あんなコトって?」
僕は惚けて首を傾げた。
「送って行くなんて、あんなところで言わなくてもいいのに」
ついで、ついでって――。
彼女はきつい視線を僕に向けてきた。
「ああ……。せっかくだから少しでも一緒にいたいと思っただけなんですけど……ダメでした?」
僕は彼女の視線をやんわりと躱すと軽薄なふりをして戯けてみた。
「勝手ね。さんざん電話をしても無視してたくせに」
「べつに……無視してたワケじゃないですよ」
僕は苦笑いしたが、彼女は首を横に振った。
「聖志って意外と性格が悪いのかもね」
「そんなことナイでしょ?」
僕は首を横に振ったが、つい最近、誰かにも同じことを言われたような気がする……もっとも僕にその自覚はないのだが。
「それにたまにすごくキツイものの言い方をするし……きっと周りを見下してるところがあるのかもね」
彼女が続けた言葉は、あながち否定できないモノのような気がした。