#006 足踏み
「あ。そこに座ってて」
祐未さんは僕の手から花束を奪うと、ベッドの脇のイスを顎で指し、部屋を出て行った。
僕は彼女に言われたままにイスに腰を下ろすと、何もない部屋に視線を這わせた。
装飾品の類を一切排除した、白で統一された無機質な空間。本当に殺風景な部屋だ。
きっとこんな部屋じゃ却って落ち着かないんだろう。「燃えるような真っ赤が好きだ」ってよく言ってたし――。
「――ですよね?」
僕はベッドに向かって声を掛けた。当然答えが返ってくることはない。
そこには一弥君が眠っていた。
彼は目を固く閉じたまま、身じろぎ一つしない……もう三年くらいこの状態で眠り続けていた。
ベッドサイドに置かれたフォトフレームに手を伸ばした。
このあいだまで飾ってあった写真とは違っていたが、僕はこの写真に見覚えがあった。
そこには僕と祐未さん、そして一弥君の笑顔があった。僕ら三人の四年分だけ若い笑顔――。
フォトフレームを元に戻すと、立ち上がって一弥君の顔を覗き込んだ。
顔色はこの上なく悪い。
あんなに太かった腕も、いまでは形容する言葉がないくらいに貧弱になってしまった。
人ってこんなに変わるものなのか……ちょっと切なくなるくらいだ。
それでも突然目を醒まして「聖志、今日は箱根だ!」なんて言い出してくれそうな気がした。少なくともこのくらいのコトで「どうにかなってしまう」ほどヤワな男ではないと、僕は信じていた。
「なにしてるの?」
声に振り返ると、花瓶を抱えた祐未さんが怪訝そうな目で僕を見ていた。
「いえ、べつに……」
「言っておくけど、キスしたって起きないわよ」
何度か試してみたから――。
祐未さんは悪戯っぽく笑った。
「大丈夫です……そっちの気はないんで」
僕はため息を吐いて肩を竦めた。
武樋祐未さん……彼女は一弥君の恋人だった。
中学の頃から付き合っていると、僕が高校生の頃にそう紹介された記憶がある。
明るくハキハキとした人で、出会った頃の僕はよく「背中が丸まってる」と言って怒られた。
あまり人付き合いが得意ではない僕にとって、彼女との距離感を掴むには時間が掛かるだろうと思っていた。だけど僕らはすぐにうち解けた。気付いたときには僕は小柄で可愛い祐未さんのファンになっていた。
「ホントにいつまで寝てるつもりなんだろうね」
祐未さんはベッドを覗き込み、くすくすと笑った。その笑顔に誘われるように、僕も小さく笑った。
「寝る間も惜しんで走ってた人ですから……その分を取り返すつもりなんですよ、たぶん」
「かもね~」
彼女はまた笑った。
僕は言ってから気付いた。僕の発した言葉は「そのまま僕自身にも当てはまる」ということに。
しかも僕の場合は本当に眠りが浅く、起きているときと寝ているときの境目がだんだんなくなってきている。ずっと頭の中に靄がかかっているような……とにかく集中力がなくなっている。ただ、走ってるときだけは別みたいだったのだが。
「でも……ホントにそろそろ目を醒ましてくれないとね……」
いつまでも若くないんだし――。
祐未さんは声を出さずに笑った。
僕が初めて祐未さんに会ったとき、彼女は二十歳を過ぎていた。
一弥君より三歳年上だと言ってたから、いまは二十七か八。
あの事故がなければ、いまごろ二人は一緒になっていたはずだった。
***
「ココに来るのは今日で終いだな」
一弥君は、まるで他人事のように呟いた。
あの日も旭山のコーナーの待避所にはギャラリーが溢れていた。
コーナーの入口に近い場所で煙草を吹かす一弥君と、缶コーヒーを片手に傍らに立つ僕。
僕らはこの場所にクルマを停め、コーナーを攻める奴らを眺めていた。
そしてココのギャラリーたちは、そんな僕らをただ黙って遠巻きに見つめていた。僕らに声を掛けてくる奴はいなかった。
「……どうしたんですか。急に」
「結婚することにした」
そう言った一弥君は照れたように目を伏せ、「いつまでも待たせるわけには行かねえだろーよ」と煙草をつまんだ指先で鼻の頭を掻いた。
僕としては特別な驚きはなかった。
一弥君の答えは、僕が想像していたものと寸分のズレもなかった。
そして僕は二人のファンでもあったから祝福したい気持ちはあった。しかし僕の口をついて出たのは、そうした僕の気持ちとは違う言葉だった。
「KPは……どうするんですか」
「さあな――」
一弥君は空に向かって大きく真っ直ぐに煙を吐きだした。
「でも、売るっていってもなかなか厳しいだろ、ジッサイ」
そう言って寂しそうに笑った。
一弥君がKPにどれだけ思い入れがあるのか、僕はそれをわかっているつもりでいた。
そんな彼がKPを手放す――。
僕にはちょっと想像ができなかった。きっと手放すことなんかできやしない……どこか醒めた見方をする僕がいた。そして「パイクスピークに行くって約束は嘘だったのか」と問いつめたい気持ちもあったが、それを言葉にはしなかった。
「ま、今夜は走り納めっつーわけだ」
一弥君は独り言のように呟くと、煙草を地面に落としシューズの先で踏みつけた。
僕はいつものようにその吸い殻をつまみ上げると、空になった缶の中にそれを落とした。
不意に聞こえてきた甲高い排気音に振り返ると、目の前のコーナーを二台のAE86が競り合うようにして走り抜けていった。最近よく見かける奴らだ。
「お~お、気合い入っちゃってよ――。俺らも負けてらんねーぞ」
一弥君はそう言うとKPに乗り込んだ。僕はため息を吐くと、後を追うようにAA63のシートに身を沈めた。
大垂水峠の最速コンビの出動――。
僕らを遠巻きに見ていたギャラリーが左右に割れ、僕らはその花道の間を通ってコースに飛び出した。
いったん右に出ると、慣らし運転をするようにゆっくりとコーナーを回りながら、スタート地点にしている駐車場へと乗り入れた。
「聖志、ちゃんとついて来いよ!」
一弥君は窓から右腕を出し、親指を立てた。
同じように右手をつきだしてそれに応えると、KPはハザードを点けながらコースに躍り出た。続いて僕もコースに飛び出した。
KPは速度上げながら、最初のコーナーをクリアし、旭山のコーナーに突入した。
コーナーを豪快にテールを流しながら走り抜けると、ギャラリーが沸き立つ中、僕のAA63もそれに続いた。
速え――。
コーナー毎に遠くなるKPのテールに、僕は微かな焦りを感じながらも必死で食らいついた。
旭山を抜け、次のヘアピンもテールを流し、なかがみ屋、松山園と続くギャラリーコーナーでも華麗な高速ドリフトを決めて走り抜けていく――。
この日の一弥君の走りはいつもより静かだった。だけど、確実に今までで一番速かった。僕はテールに張り付くことさえできなかった。
峠を下りきった直線でクルマを路肩に寄せ、ハザードを点けた。
対向車線を走ってきた一般車をやり過ごし、この先のT字路ででUターンをする。そしてスタート地点の駐車場まで軽く流して戻り、もう一度下りのラインを攻める――という繰り返しだったのだが……。
「今日は終わりにしときます」
僕は一弥君にそう告げた。
「なんだよ! 具合でも悪いのか?」
「いえ。なんか替えたばっかのタイヤがいまいちなんで――」
一昨日、タイヤを四本とも入れ替えた。
以前よりグリップがいいという感触はあったが、替えて間もないと言うこともあって、いまひとつ挙動が掴めずにいた。ギリギリの走りをするには若干の不安があった。
「しょーがねーなー。じゃ、あと一、二本走ってくるから待ってろよ!」
「了解です」
一弥君に続いてUターンした僕は、AA63をなかがみ屋の駐車場に乗り入れた。
駐車場に入るとギャラリーたちが端に避け、僕のスペースを確保してくれた。
僕はクルマを降り、ギャラリーが屯するコーナーのガードレールに近付いた。ギャラリーたちは僕の動きに合わせるように場所を空けてくれた。
まるで腫れ物扱いだな――。
僕は声を出さずに笑った。
彼らが僕らに向ける視線の意味はよく理解ができない。
ココのコーナーを誰よりも速く駆け抜ける僕らに対する「尊敬」とか「畏怖の念」……それも少しくらいはあるだろう。
だけど、大半の奴らの目には「クレイジーな奴ら」という風にしか映っていないのだと思う。
奴らの好奇な視線は、僕らの走りに「べつな期待」を投げかけている。たぶん……ココで事故ったら面白れえだろうな、とか。
だけどココで事故る奴がいるとするなら、それは僕らではなくココにいるギャラリーの中の誰かなんだろうと思っていた。
僕らはココを知り尽くしていた。ギリギリの走りをしてはいたが、ある一線は越えていないつもりだった。ココが公道だということを、十分に理解しているつもりだった。
しばらくして、派手なスキール音と聞き慣れたKPの排気音が聞こえてきた。
一弥君の走りを間近で見ようと、僕はガードレールに近付いた。
僕が視線を向けた先で、S字を抜けてきたKPのヘッドライトが光った。
その刹那、鳥肌が立つようなスピードで突っ込んできたKPは、僕の目の前を芸術的とも言えるドリフトで駆け抜けていった。
ギャラリーたちは一弥君の残像に歓声を上げていた。
――すげえな、アイツは別格だよな。
――そりゃそうさ。アイツは『鬼神』だからな。
そんな声が後ろから聞こえてきた。
垂水の鬼神――。
いつのころからか一弥君はそう呼ばれるようになっていた。
他の奴らとは次元の違う彼の走りから付いた異名……赤い車体と大きなリヤスポイラーが、角の生えた赤鬼に見えたからなのかもしれないが。
僕らはココでは無敵だった。そしてあの日の一弥君の走りはその異名の通り、まさに神の領域に足を踏み入れたかのようで――。
そのとき、下の方で短い衝撃音がした。
「……?!」
さっきまで下の方で聞こえていた歓声が怒号に変わって……気が付くと僕は走り出していた。
駐車場にクルマを残したまま、走り慣れた峠道を全速力で駆け下りた。
思ったよりも遠かった。いつもなら一瞬で走り抜けてる道がこんなにも長いものだとは思わなかった。だけど僕の足は止まらなかった。ただ音のした方を目指して、がむしゃらに走り続けた。
やがて、息切れした僕の前に人集りが現れた。僕は無言でその人込みを掻き分けた。
「――――!」
そこにあったのは赤い塊だった。
原形を留めていない無惨なKPを前にして、僕は声を上げることもできなかった。
あの日の一弥君の走りは神懸かっていた。
しかし神に近付きすぎて峠の神の逆鱗に触れてしまったのか、或いは魅入られてしまったのか……。いずれにしても、一弥君はあの瞬間からいつ目を覚ますとも知れない深い眠りについてしまった。
そしてそれは紛れもなく、明日の僕の姿でもあるのだと、頭の片隅ではっきりと自覚していた。
***
「悪いんだけど、コレ食べてってよね」
祐未さんはそう言って僕が持ってきたラ・フランスを指で弾いた。
「せっかくだけどカズは食べないし――」
「あ……ですよね」
弾みでそう応えたが、さすがに一弥君に食べてもらおうとは思っていなかった。
はじめから祐未さんに食べてもらうつもりで買ってきた……というより、祐未さんと僕、二人で食べるつもりでいた。
いまの僕は、寝ているだけの一弥君よりも、寧ろ祐未さんの顔を見に来ているようなものだった。
いつか看病疲れで彼女が参ってしまうんじゃないかと、本気で僕は心配していた。
「これでつついたらびっくりして起きたりしてね」
祐未さんはナイフを片手に笑えない冗談を言った。
確かに何かの刺激を与えたら、飛び起きてくるような気がしないでもないが。
「でも、いま血が出ちゃうと血圧がどうとか、いろいろ問題があるんじゃ――」
僕が言い終える前に彼女はこれ見よがしに深いため息を吐いた。そして「冗談に決まってるでしょ」と醒めた声で呟いた。
「ねえ、聖志。冗談も通じないような人は、却ってバカに見えるわよ」
僕を諭すようにそう言った。
「はい。注意します……」
僕は肩を竦めた。
祐未さんがラ・フランスを切るあいだ、手持ちぶさたになった僕は、立ち上がって窓際に移動した。
ブラインドの隙間から外の様子を覗いた。
五階にあるこの部屋から、真下に広がる駐車場が見下ろせる。結構な台数が停まっていたが、そこから僕のクルマを探し出すのはそれほど難しいことではなかった。
それにしても景色がいい。
豊かな緑に囲まれたこの病院は、都心部からも割と近くて、医療施設としては申し分のない環境なんだと思う。
一弥君の入院先をココに決めたのは、一弥君の母親だという話を人づてに聞いていた。
だけど……たぶん一弥君の両親はほとんどココには来ていないのだろう、と僕は思った。
一弥君の実家は裕福だった。父親が何の仕事をしているのかは知らなかったが、かなり裕福な家庭だったことは間違いがない。
そして彼も僕同様……いや、僕以上に両親と上手くいってるとは言えなかった。
あの事故が起こる数年前から実家とは疎遠になっていたはずで、一弥君の両親はその原因が祐未さんにあると思っている……と、一弥君が憤っていたことがある。
そんな一弥君の両親も、一弥君がこんなことになったいまでは、すべてを祐未さんに任せている様子だった。
本来なら「自由になってもいい」ハズの彼女に面倒をすべて押しつけて――。
「――どうしたの?」
訝るような祐未さんの声が、僕を現実に引き戻した。
「また、怖い顔しちゃって。はい、どうぞ――」
彼女はそう茶化すように微笑むと、僕の鼻先に皿を突き出した。
ソコには楊枝の刺さったラ・フランスがてんこ盛りになっていた。
「うん。なかなか美味しいわ……」
祐未さんはラ・フランスを一口含むと、満足そうに二度三度と頷いた。
ラ・フランスは甘かった。
まだ時期的には早いかなとも思っていたのだが、果肉の弾力も十分だった。
僕はみずみずしいこの果物が好きだった。二個くらいなら瞬殺で胃袋に収められる自信があった。
「ほらほら――」
口いっぱいに頬張った僕に、祐未さんが手を伸ばしてきた。
彼女はその細い指先で僕の口元をそっと拭った。
「子供みたい」
そう言って微笑む祐未さん――。
僕は不意にその手首を掴まえたい衝動に駆られた……が、なんとか思いとどまった。
年上の兄弟がいない僕にとって、祐未さんは姉のような存在だった。
僕が彼女に抱く感情は、たぶん特別なものだった。恋愛感情とかそういう簡単なものではなくて、何というかもっと深いところにある……自分でもよく理解できていない。
ただ彼女は僕にとって神聖な存在だった。例え妄想の中だったとしても、決して近付いてはいけない存在――。
それでも、ときどき僕の中で頭を擡げる黒い塊はおぞましい考えを僕に吹き込む。
いまは僕の中の忠誠心にも似た理性が、それを必死で抑えつけている。だけど、いつかその黒い塊に「僕自身が取り込まれてしまうんじゃないか」という漠然とした不安が僕の脳裏にこびりついて離れてくれなかった。
「ねえ、聖志――」
僕は顔を上げた。
「いま、付き合ってる人は?」
祐未さんはじっと僕を見つめていた。その目元には微かに笑みが浮かんでいる……。
「……いませんよ」
僕は目を逸らし、静かに息を吐いた。
「ふ~ん。じゃ、好きな人は?」
「いませんよ」
矢継ぎ早な質問に僕は即、答えを返した。
彼女の質問の意図が読めなかった。
深い意味があってのことなのか、単に間が持たないから、思いついたことを口にしてみただけなのか――。
そっと彼女の顔を窺うと、それを待っていたかのように、口角をきゅっと上げた。
「今度……連れてきなさいよ」
「だからいません、て……」
僕はため息を吐いた。
しかし彼女は僕の言うことなどまるで信用していないかのようで、まともに取り合ってくれなかった。
「でも、ホントに連れておいで。悪い女じゃないか私が確かめてあげるから」
彼女はそう嘯くと、悪戯っぽく微笑した。




