#068 Mentalism
スープラのイグニッションキーを抜くと、七分に設定したターボタイマーの液晶表示がカウントダウンをはじめた。
ソレを確認した僕はエンジンが掛かったままドアをロックし、自販機コーナーへと歩き出した。
自販機の前に立った僕は、ジーンズのポケットに手を入れて指先でコインを探り、そしてディスプレイの銘柄を眺めてみた。
僕はコーヒーが飲みたかった。
苦くて濃いコーヒーが飲みたい、そう思っていたのだが、目の前の自販機には僕の欲求を満たしてくれそうなモノはなかった。
僕は仕方なく隣の自販機にコインを投入し、コーラのボタンを押した。
そして車止めのコンクリート柱に腰を預け、プルタブを引き起こそうとして、僕はその手を止めた。
コーヒーを飲むつもりでいたせいか、思わず缶を振ってしまった……。
僕は車止めのコンクリート柱に腰を預けたまま、焦点の合わない目を駐車場の方に向けていた。
脱力感に包まれながら、缶の中身が落ち着くのを待っていた。
芝浦パーキングはまもなく水曜日を迎えるところだった。
しかし、僕の仲間たちがやってくる気配はない。
当然、待ち合わせの時間は経過していたが、集合場所に指定したココに祐二と富井の姿はなかった。
彼らが時間通りに来ないのはいつものことだったから驚きはしないが、それでもいいかげんにしろよと言いたくもなるときもある。
熊沢のように時間にうるさい人間も面倒だが、祐二たちのようにルーズな男もそれはそれで困る。
そんな彼らと一緒にいると、僕という人間が実はすごく真っ当な人間なんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。もちろんそんなはずはなかったのだが。
僕はふと、缶に耳を当ててみた。
当然なんの音もしない。しかし、だからといって炭酸が落ち着いているのかどうかまでは断言できない。
周囲に人影はなかったが、炭酸が吹き出した缶を片手に慌ててる自分の姿は、想像するだけで酷く嫌な気分になる。
しかし喉の渇きが限界に近付いていた僕としては、そんなことで迷っている時間的な猶予はなかった。
僕は意を決し、缶のプルタブ側を外に向けて勢いよく引き起こした――。
しかし炭酸が吹き出すことはなかった。
慌てて缶を口に運んだ僕としては、なんだか拍子抜けしたような気分になった。もっとも炭酸が吹き出すことを期待していた、というワケではなかったのだが。
駐車場の奥に止まっていた白いセドリックがパーキングを出て行った。
パーキングの駐車場にあるのは僕のスープラだけになってしまった。
この場所には幾度となく来ているが、こんなにクルマがないのは記憶にない。閑散としたパーキングにはスープラの排気音だけが低く響いている。
僕は左手に持ったコーラの缶を呷った。
脱力感はさっきより二割増しくらいになっていたが、喉を通り抜ける炭酸のピリピリとした刺激が妙に心地よかった。コーラにしたのは正解だったのかもしれない。
そう言えばアイツもいつもコーラだったような――。
ふと頭を過ぎったのは神藤の姿だった。
彼もいつでもコーラを飲んでるイメージがある。
そして、別れ際にコーラのグラスを傾けながら呟いた彼の台詞を思い出した。
僕が彼に対して天使の話をしたことはない。もっとも首都高速を走っているというコトも僕から直接彼に話したことはなかった。
ただ、僕が首都高速に行くきっかけは「TZRを見た」という神藤の話からだったから、勘のいい彼がソコにたどり着くというのは頷けないことではない。
だけど……何となく腑に落ちない気分だった。
神藤の口ぶりは、僕が天使に会うために環状線に向かうというコトを知っているように聞こえた。
彼がいったい僕の何を知っていて、何を知らないのか。そして何のために僕に近付いてくるのか……とは言っても僕にとって「彼の存在」は決してマイナスにはなっていないのだが――。
「……ま、どうでもいいや」
僕は投げやりに呟くと、コーラを一気に飲み干した。
そして小さく振りかぶり、空き缶入れに向かって缶を放り投げた。
駐車位置に戻ると、スープラはまだエンジンが掛かった状態だった。
僕はドアロックを解除すると、運転席に深く身を沈め、イグニッションにキーを挿した。
そしてシートベルトのバックルをはめ込むと、もう一度時計に目をやった。
さっき見たときから針はほとんど動いていなかったが、もうずいぶん長い時間待たされたような気がしている。我慢はそろそろ限界だった。
僕はパーキングの入口に目を向けた。
進入してくるクルマがないことを確認するとシフトを一速に入れ、ゆっくりとクラッチをつないだ。これ以上待つのは意味のないことのように思えた。
芝浦パーキングを出た僕は右車線に入り、徐々に速度を上げながら環状線を目指した。
今日も内回りに行こうと決めていた。
特にコレと言った理由はなかったが、たぶん内回りの方が僕は好きなんだと思う。
やがて浜崎橋ジャンクションに差し掛かった。
左から走ってきたタクシーを躱して環状線に合流すると、僕は右車線をキープしたままアクセルを強く踏み込んだ。
僕の前にクルマはなかった。
平日深夜の首都高速環状線はいつ来ても交通量は少ない。しかし前方に走ってるクルマがまったくないというのは珍しい。しかも静かだった。
スープラの甲高い排気音と、扁平タイヤが拾うロードノイズが車内に響くだけで、他車の気配はまったく感じられない。
しかし、この環状線のどこかに天使がいるような気がした。
今夜も環状線を流しながら、誰かの挑戦を待っているのかもしれない――。
そう考えると、アクセルペダルに乗せた右足に自然とチカラが入った。
万年橋をくぐったところで、祐二たちのことを思い出した。
彼らもそろそろ芝浦に到着してて「北条がいない!」なんて騒いでるのかもしれない、と。または「ばっくれた!」なんて憤っている可能性だってある。
僕にしてみればそんなことを言われる筋合いは当然ないのだが、僕が待ち合わせ時間にソコにいたという証言をしてくれる人はいないのだからそれを証明することは難しい。つまり、適当な人間との付き合いはつくづく面倒、ということのようだ。
それにしても、なぜ今日に限っては待っていることができなかったのかと考えると、首を傾げざるを得なかった。もちろん遅刻してきたあいつらが悪いのは間違いなかったが、それでも大人げない自分……いや、少し苛立っている自分に気付いてため息がこぼれた。
僕は徐に無線機の電源を入れてみた。
そしていつも使っている五桁の群番をセットしてマイクを握った。
「チェック――」
僕は呼びかけてみた。
自分から呼びかけるコトなんて普段はしないが、いつも祐二がやってるようにマイクに向かって話しかけた。
しかし……ドコからも反応はなかった。
何度かマイクに呼びかけてみたが、スピーカーは沈黙したままで、車内には甲高い排気音とロードノイズが響き渡るだけだった。
僕としては少しバツの悪い思いを抱えながらマイクを置いた。そしてそっと無線機の電源を落とした。
***
一般車のいない深夜の環状線は、ソコが公道であるというコトを忘れさせてくれた。
乱暴にアクセルペダルを煽って、オーバースピードでコーナーに突っ込んではテールをバタつかせることもあったが、頭の先から爪の先まで痺れるような爽快なスリルを味わったのは久しぶりのような気がした。
ノンストップで駆け回った環状線を離れ、首都高速一号羽田線を横浜へと向かう。
多摩川に架かる都県境の橋を渡り大師の料金所を過ぎるころには、環状線を走っていたときの興奮はすっかり消えていた。
結局、今日も天使に会うことはできなかった。
彼女が同じ時間に首都高速にいたのかどうかでさえ定かではない。狭い範囲だとは言っても一周すれば約十五キロある。自由気ままに動いているもの同士が偶然出会える可能性は結構低いのかもしれない。
つまり、本気で天使を捜すには単独行動では限界があるというコト……まあ今日だってはじめから「単独で」というつもりではなかったのだが。
それにしても祐二たちはあてにならない。アイツらは肝心なときには本当に役に立たないということがあらためてわかった。
そう考えると、やはりココは熊沢のチカラを借りるしかないみたいだ。
彼に頼んでオジサン方を総動員してもらうのが一番の近道だと言えそうだった。
新山下で首都高速を下り、見晴トンネルへと抜ける。
途中にある細い路地を、いつもと同じように覗き込んだ。
そこはさっきまで単車が所狭しと並んでいたのだが……さすがにいまでは一台もなかった。どうやらコドモたちはもう家に帰ってしまったようだ。
時刻はまもなく三時になるところだった。
僕ももうすぐ家に到着する。
帰宅後のルーティンを順番にこなしていっても、たぶん三時半にはベッドに入れそうだ。
とは言っても、いまはまだあまり眠気を感じていない。というより最近はまた寝不足気味だった。
眠くないわけではないがとにかく寝つきが悪い。だから寝起きの気分も当然悪いし、日中に突然睡魔に襲われることもある……仕事柄、それはとても危険なことでもあったのだが。
だけど「眠らなければ」と強く思えば思うほど、より意識がハッキリとしてしまう。
そうするうちに「慢性的な睡眠不足」と「それを何とかしなければならない」という強迫観念の入り組んだ無意味なスパイラルに突入して……。
考えてみれば、少し前の僕がまさしくその状態だった。
祐未さんと付き合うより少し前の僕……あの頃の自分には戻りたくなかった。そしてその意識は常に僕の中にあった。
やがて現れた本牧通りと交差する信号がちょうど青に変わった。
僕は反射的にアクセルを踏み込んで交差点を横切ると、すぐに現れるT字路の手前でブレーキを踏み込んだ。そして左右を確認すると再びアクセルを煽り、クランクを抜けてガス山通りの坂を駆け上った。
家が近付き、僕はご近所への配慮から、心もちアクセルを踏む右足のチカラを緩めた。そしてウインカーを灯すと、家の前へとつながる細い路地に入る――。
路地を曲がった瞬間、僕は思わず顔を顰めた。
駐車場から見上げた僕の部屋の窓には、まるで僕の帰りを待ち詫びているかのように煌々と明かりが灯っていた。
こんな時間の来客……思い当たる顔はひとつしかなかった。




