#063 目ざめの日
「……で、その場合はインジェクションのキャパをだな――」
ツナギ姿の熊沢が言った。
ソアラのエンジンルームを覗き込むその横顔は、昨夜の疲れなど何も感じていないかのように溌剌としていた。
「――つまり、エンジンに手を加えずにターボだけをでっかくすると――」
それに引き替え、僕は気分が乗っていなかった。
昨夜……いや、数時間前の興奮が嘘だったかのように重い気分を引きずっている。
自分自身に手応えを感じた首都高速での走り――。
あのときの昂揚感すら忘れてしまいそうなほどだった。
「――つうわけで対処としては、カムシャフトの……おい。聞いてんのか?」
熊沢は僕を振り返り、眉間に皺を寄せた。
「……聞いてますよ」
僕は醒めきった声で言った。そう訊かれて「聞いてない」と答える奴はあまりいない。
しかし熊沢はまったく信用してないというふうに口元を歪めると、首を横に振りながらソアラのボンネットを閉じた。
「まったく、ぼけっとしやがって」
熊沢は吐き捨てるように言った。
しかし目元は怒っているような感じではなかった。むしろ僕を労るような優しげな雰囲気で、「ま、寝不足の責任はおれにもないとは言えないか」と自分に言い聞かせるように呟いた。
彼に言われるまでもなく寝不足だというのは疑いようがない。なにしろ昨夜は一睡もしていないのだから。
だけどまったくと言っていいほど眠気は感じていなかった。いま僕の気を散らしているのはそんなことではなかった。
「……もう一回だけ言っておくぞ。エンジンに手を入れずにタービンだけを換えると、圧のかかりだしが高回転側にシフトしちまうわけで、結局はヘッドチューンが必要になってくるっつうわけだ」
熊沢はそう言ってエンジンのヘッドを指さすと、「大事なところだからちゃんと憶えておけよ」と満足げに微笑した。
午前中の日課でもある熊沢のチューニング講習。
仮にもカリスマチューナーを自称してるだけあって彼の技術は高かった。そして当然その知識も。
そんな彼が直接指導してくれるこの時間は、僕にとって貴重で有益なものでもあった。
しかし……今日に関してはまったく頭に入ってくる気配がなかった。彼の言葉のほとんどは僕のなかに留まることなく素通りして――
「社長――」
事務所へとつながるドアが突然開き、熊沢を呼ぶ声がした。
顔をのぞかせたのは経理の松本さんだった。
彼女は軽く握った拳を耳に当てると「イシイさんからです」と意味ありげな微笑を口元に浮かべると、顔を引っ込めた。
――ちっ。
熊沢は舌打ちすると「しつけえなあ」と顔を顰めた。
そして頭を掻きながら事務所へと姿を消した。
イシイという名前に聞き覚えはないが、どうやら熊沢にとっては歓迎したくない相手のようで……。
歓迎したくない電話、か――。
僕は小さく息を吐いた。そして昨夜の電話を思い出していた。
祐未さんが電話に残したメッセージは、僕にとって待ちわびていた報せだった。それは祐未さんにとっても同じだったはずだ。
しかし僕ら二人にとってはあまり歓迎できないニュースでもあった。
昨夜、一弥君が目を醒ました。
大垂水峠での大事故以来、ずっと眠ったきりだった彼が奇跡的に意識を取り戻した……らしい。
本来なら嬉しいはずのニュースだったが、いまの僕には気分を重いものにする以外のなにものでもなかった。
***
一弥君が目を醒ましてから三日くらい経った頃、仕事を終えて帰宅した僕を意外な人物が待ちかまえていた。
家の前に停まった見覚えのあるハイエース―― 鍵屋の徹二さんだった。
僕はステアリングに顔をうずめて深くため息を吐いた。
いまは誰とも話をしたくない気分だった、特に昔から僕を知る人たちには。
僕はスープラのエンジンを止めた。
それを待っていたかのようにハイエースのドアが開き、徹二さんが飛び出してきた。
もう一度僕はため息を吐いた。
彼はいい人間だが、少し空気が読めないところがある。
きっと僕の気持ちになんて配慮することもなく、一方的に喋りだすはずだった。
徹二さんはドアの前で僕を待ちかまえていた。
そんな彼を焦らすように、僕はゆっくりとドアを開けた。それはせめてもの抵抗のつもりでもあったが、彼に対しては無意味な行為にも思えた。
「一弥、目ぇ醒ましたらしいぞ――」
徹二さんは開口一番でそう言った。
僕は舌打ちしそうになるのを堪えて笑みを作ると「らしいですね」と他人事のように呟いた。
「なんだ、もう知ってたのか」
徹二さんは少しふて腐れたように唇を尖らせた。
僕はそんな彼を和ますようにもう一度笑みを浮かべた。
一弥君が意識を取り戻したというニュースは、あっという間に高校時代の仲間に広がっていた。
僕の実家にも何人かの奴から連絡があったと由佳里から電話があった。もっともその何人かのなかには僕の記憶にない名前もあったのだが。
そんなこともあって、徹二さんのハイエースが目に留まったとき間違いなくそのことで来たのだろうと悟った。
そう言う意味では彼の台詞は予想通りだった。
そして徹二さんは本当に心の底から喜んでいるようで……その顔に広がった満面の笑みを正視できず、僕はそっと視線を逸らした。
「やっぱりアイツは不死身だったなあ……」
灰皿くれ――。
徹二さんはしみじみと呟くと、僕が手渡した灰皿を片手にタバコの煙を細く吐きだした。
彼は当たり前のように家に上がり込んできた。
徹二さんがこの家にくるのは三回目。二階にあるこの部屋に足を踏み入れるのは初めてだった。
しかしダイニングのローソファーに身を沈めた彼は、まるでココが自宅だと勘違いしてるのではないかと思えるくらいにリラックスした表情だった。
「そっちの方が似合ってますね」
彼の向かいに腰を下ろした僕は彼の方を見ずに呟いた。
今日の徹二さんは、黒い長袖のTシャツにカーキ色のカーゴパンツといういつもの見慣れた作業着に戻っていた。先日会ったときに感じた「胡散臭さ」はそこにはなかった。
しかし彼は「そんなことねえだろ?」と、僕の率直な感想を軽く受け流した。
徹二さんの風貌は、僕の記憶の中にある高校時代の彼と何も変わらない。
だから彼とこうして向き合うとき、その瞬間だけ僕は高校生だった頃に戻ったような気分になる。
あの頃の僕らは集まればいつでも「単車」の話で盛り上がっていたっけ――。
僕が徹二さんと知り合ったのは高校に入ってからだった。
中学の先輩だった一弥君を追って神奈川県内の工業高校に入学したとき、すでに彼らは数人で単車のチームを結成していた。
程なく誕生日を迎えて二輪免許を取った僕も、そのチームに加わるのは必然だったと言える。
当時、そのチームには一弥君、徹二さんのほかに、ハイジマさん(どういう字を書くのかはもう覚えていない)という人がいた。
そこに僕を加えた四人で緑山を拠点に活動していた。
無鉄砲にアクセルを煽っては「走りを極める」なんて息巻いて……あれはあれで楽しかった。
いまにして思えば、あのときが一番走りを純粋に楽しんでいたんじゃないかと思う。確かにピリピリとした緊張感は常に持ち合わせてはいたが、それでも彼らに続いて峠を走るとき胸に抱いていたワクワクとした感情はいまでも思い出すことができる。
しかし僕が高校二年になってしばらくして、チームは解散した。四人で集まることはもう永遠になくなってしまったのだ。
その後一弥君は四輪に転向し、僕も後を追うように四輪へと転向して大垂水に舞台を移していった。
しかし徹二さんはそれに逆らうように二輪に固執していた。やがて高校を卒業すると同時にその二輪も降りてしまった彼にとって、いまではクルマなんて単なる移動手段でしかないのだろう。
そういえば、ちょうどその頃には一弥君と徹二さんは折り合いが悪くなっていたのだが……いつの間にか彼らの仲は修復されているみたいだった。
「あれ……そう言えば今日はいないんだな?」
徹二さんは部屋を見渡した。その小指はぴんと立っている。
その古臭さすら感じる仕草に微かな嫌悪を覚えたが、僕は平然とした表情で「今日は来ません」と早口で告げた。
祐未さんが来る予定はなかった。
一弥君が目を醒ましたあの日以来、僕は彼女と会っていない。何度か電話で話はしたが顔を合わせることはなかった。
彼女は一弥君の病院に通い詰めている。もちろん彼女の優しさ故の行為だった。
僕としては素直にそれを受け入れられない気持ちが強かったが、彼女を強く引き止めることもできずにいた。
彼女は僕らの関係については、自分から一弥君に伝えたいと言った。ただその時期については「もう少し先」としか言わなかった。
いずれにしても、彼女の意思に委ねるしか僕には選択肢がなかった。というより、僕の気持ちを押し通すことで「僕らの関係」が壊れてしまうのが怖い……という方が正しいのかもしれなかったが。
「もう長いのか?」
徹二さんは僕の方を見ることなく言った。
彼の視線は吐き出した煙を追っていた。
僕は少し考えるふりをしてから「一年くらいですかね」と他人事のように答えた。
「そうか……一年か」
徹二さんはさっきとまったく同じ姿勢のまま僕の言葉を反芻した。
「結婚するのか?」
「いえ。そこまでは……」
たぶん、それはないような気がした。
僕自身に家庭を持ちたいという願望はなかった。そしておそらくそれは祐未さんも同じだった。
「ま、どっちでもいいが、大事にしてやれや」
徹二さんはそう言って目を細めた。
説教がましい口調がなんだか鼻につくが……。
「感じのいい娘だったしな。まあせいぜい幸せにしてやれ……ん? なんだよぉ」
「いえ……」
僕は思わず吹き出していた。
女難続きの徹二くんから「幸せにしてやれ」なんて言葉がでてくるとは思わなかった。彼と付き合ってた女たちは、僕の知る限りではもれなく不幸になっていたはずだし、彼自身もその都度「痛い目」に遭っていたことは周知の事実だ。
そんな彼の口から出た「似つかわしくない言葉」に、僕としては苦笑いするしかなかった。
「ところで、見舞いには行ったのか?」
徹二さんは僕を窺った。
タバコをくわえた彼は、背筋を伸ばすようにしてソファに背中を預けていた。
僕は曖昧に首を傾げると、「いまは却って迷惑になると思うんで」となんの感情もこめずに呟いた。
「な~に言ってんだよ。そんな気を使う仲かよ」
兄弟みたいなもんだろが、おまえらは――。
徹二さんは能天気に呟いたが、僕は何も応えなかった。
話が一頻り終わっても、彼は腰を上げようとはしなかった。
煙草を吹かしながらときどき部屋を見渡しては、僕が淹れたコーヒーに手を伸ばした。
「なんか食うもんはないのかよ?」
彼がそんなことを言いだしたのは、四本目の煙草が灰に変わった頃だった。
僕は仕方なく冷蔵庫を覗き込み、奥にあった豆腐を取り出した。
「これしかありませんけど」
そう言って豆腐を見せると、徹二さんは眉間に皺をよせ「そんなもんが腹の足しになるかよ」と言いながらも手を伸ばし、醤油と箸を催促した――。
「そういや、一弥が目ぇ醒ましたのって火曜の夜だったよな」
徹二さんは静かな声で言うと豆腐に箸を入れた。
切り出された煉瓦のような豆腐は、あきらかに醤油のかけすぎで、見るからに塩辛そうだった。
「そうですね」
僕はあまり考えずに応えた。
しかし火曜日で間違いないとは思う。
僕が知ったのは水曜日の明け方だったが、祐未さんから電話が入ったのは火曜日だった。
「その日って何の日だか憶えてるか?」
徹二さんは右手に箸を持ったまま言った。
彼らしくない「謎かけ」のような質問に違和感を覚えたが、それを言葉にすることなく僕は首を傾げた。
「……なんでしたっけ?」
しばらく考えたふりをしてからそう答えた。
まったく心当たりはなかった。
しかし徹二さんは「そうか」と言っただけで、その答えを教えてくれる様子はなかった。
ただ一瞬、彼の目の奥に仄昏いなにかが過ったような気がした。




