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#062 goodnews ≒ badnews


 北の丸トンネルを過ぎ、千鳥ヶ淵の急カーブに差しかかった。

 車体の重いスープラではあったが、3L・DOHCターボのパワーはコーナーの立ち上がりでもストレスを感じさせない。むしろ車体が軽かったAA63よりも軽やかな立ち上がりを見せてくれていた。


 そして首都高速は静けさに包まれていた。

 交通量の少ない真夜中の環状線は、昼間の喧騒が信じられないくらいに穏やかな空気に支配されている。

 しかし、この環状線のどこかに天使はいるはずだった。

 荒々しい本性は隠し、挑戦者が現れるときをじっと息をひそめて――



//――ガガガガッ……カッシーニです――//



 けたたましいノイズに紛れて聞こえてきたのは樫井の声だった。



//――いま、竹橋を通過……ガガッ……けど見かけないピアッツァネロが走ってますね――//


//――ガッ……ピアッツァネロですか……渋いねえ。まくっちゃってくださいな――//


//――了解で~す!――//



 樫井と吉井の短いやり取りが終わると、車内にはまた静けさが戻ってきた。


 僕らは現在、霞が関のカーブを過ぎたところだった。

 樫井が竹橋というコトは、祐二と富井もおそらく千鳥ヶ淵か北の丸……いずれにしてもだいぶ後ろの方にいるのは間違いない。


「もう少しペース上げろや。これじゃいつまで経っても追いつかねえぞ」

 熊沢の声に僕は頷いた。

 確かにこのペースでは天使との距離は縮まるだけで追いつくことはできそうもない。

 霞ヶ関トンネルを出た僕は左車線に移り、アクセルを踏み込んだ。

 前方にワンボックスカーが走っているのが見えた。

 ブレーキペダルをつま先で叩くと、ギヤを落として右車線に入った。

 そして再びアクセルを踏み込んでワンボックスカーを躱すと、谷町から合流してくる車を横目に左車線へと戻った。


「右のままでいいだろ」

 熊沢が言った。

 僕は意味がわからず「なにがです」と感情のこもらない声で言った。

「右車線のままでいいじゃねえかよ。なんでわざわざ――」

「ああ、キープレフト、ですよ。基本中の基本ですね」

 僕は少し戯けて言ったが、熊沢は何も言葉を返してはくれなかった。


 間もなく一の橋ジャンクションがあらわれた。

 僕はいったん右車線に移ると、大外からコーナーへ進入し、内側の壁を掠めて外へと走り抜けた。

 スピードが乗っていたぶん、さっきの江戸橋よりさらにタイトなコーナーリングになった。

 しかしスープラは意外なほど軽やかに出口に向かって頭を向けてくれた。そのあまりの手応えのなさには戸惑いを覚えるほどだった。


「……八十八点」

 また熊沢が言った。

 さっきよりはずいぶんと高得点ではあったが……僕の手応えとしては満点に近かった。

「九十五は行ったと思うんだけどな」

 僕は独り言のように呟いた。

「それに芸術性も加味してくれないと――」

「芸術性で判断したらせいぜい七十点だ」

 熊沢は僕の言葉を遮り鼻で笑った。

 僕は下唇を突きだし、「辛いなぁ……」とため息混じりに微笑した。

 すると熊沢は「あせるな小僧。まだまだサキは長いぞ」と仙人みたいな台詞を吐いた。


 そして左手には東京タワーが現れた。

 煌煌と照らされた赤い電波塔が夜空を突き刺すようにそびえ立っていた。


「――行ったことあるか?」

 声に振り向くと熊沢が窓の外を親指でさしていた。

「ありますよ。東京タワーなら」

 僕が答えると、熊沢は満足そうに頷いてから「やっぱいいもんだな、東京タワーはよ」と呟いた。


「そうですか?」

 助手席を一瞥すると、僕は小さく首を傾げた。

 すると熊沢はワザとらしくため息を吐き、首を横に振った。

「ばかやろう。東京タワーってのは東京ソノモノなんだよ。おれみたいな地方から出てきた奴にとっちゃな」

 ま、おまえにはわからんだろうが――。


 僕は何も答えず、助手席の窓の向こうにある赤い塔を横目で見上げた。



//――こちらカッシーニ――//



 スピーカーから樫井の声が聞こえてきた。



//――いま北の丸……ガガッ……けたところですけど……ガッ……ピアッツァ、意外と速いスね、ついていくのがやっとです――//


//――マーベ……ガガッ……です! ホントに速いですね、一気に抜かれました――//



 樫井たちの声はピアッツァの速さに対する驚きであふれていた。

 そしてその声に混じったザラザラとしたノイズが、彼らの心中を如実に表しているようにも聞こえた。



//――こちら紅丸。予定を変更して江戸橋から内回りに入りました。天使は後ろですかね――//



 今度は堤だった。

 それは樫井と祐二の話なんてまるで耳に入っていないような呑気な声に聞こえた。



//――ピグモンです。いま銀座を通過しました……ガガッ……ココと紅丸さんのあいだにいるんじゃないですかね――//


//――了解です! スピード落として待ってますね――//



「もう無理だな」

 無線のやり取りを聞いていた熊沢が口を開いた。

 確かに堤と天使が接触するのは時間の問題だった。

 彼らが出会えばペースは一気に上がり、もう僕が追いつくことはできないということはあまり考えなくてもわかる。

 だけど僕はスピードを弛めなかった。

「ホント……天邪鬼だな、おまえは」

 もう追いつかねえって――。

 熊沢はやれやれと言った感じで呟いた。


「べつに……ただ速く走りたいだけです」

 僕は言った。

「それに天使に会うことだけが目的じゃないですから」

 誰かとは違って――。

 そう言って微笑すると、熊沢は「勝手にしろ」と鼻で笑った。


 やがて浜崎橋ジャンクションが現れた。ちょうど環状線を一周してきたことになる。

 僕はアクセルを軽く煽ると、ジャンクションのカーブに飛び込んだ。



//――ガガッ……コチラ……ガガッ……モンです――//



 コーナーへの突入と同時にスピーカーが騒ぎだした。

 途切れ途切れではあったが吉井の声に間違いなかった。



//――京橋付近で天使を捕捉しました。これから追跡します――//


//――了~解――//



 天使を射程に捉えた――。

 吉井の報告とそれに対する堤の短い応え。

 その反応の静けさがこれから始まるバトルが壮絶なものになることを予感させていた。


「ついにはじまるかぁ」

 熊沢が呑気な声を出した。

「今日こそ勝ってくれるといいんだけどな」

 ちなみに今のは八十五点な――。

「そうですね……ちなみに自己採点では九十点ですけどね」

 僕はそう嘯くと、さっきと同じように勾配を駆け下り汐留トンネルへと飛び込んだ。



//――江戸橋を通過しました! 紅丸さん、あとはよろしく――//


//――了解――//



 天使とのバトルは吉井から堤へと引き継がれたようだ。

 堤がどのあたりにいるのかわからなかったが、竹橋から霞が関までのトンネルとカーブが断続して現れる区間が彼らのバトルの舞台になるのだろう。



//――コチラカッシーニ……ガガッ……現在、谷町を通過……ガガッ……ピアッツァとマーベリックが並走してます――//



 今度は樫井だった。

 そっちはそっちで盛り上がってるようだ。


「おいおい、何なんだよ――」

 熊沢がふてくされたように声を上げた。

「あっちこっちでバトルが勃発してるっつうのに……おれらだけは平和じゃねえか」

「そうですね」

 僕は適当な相槌を打つと、頭の中で位置関係を整理した。


 現在、僕らは銀座を通過したところだった。

 その遥か前方の江戸橋付近に吉井、その前には天使、そしてその先には堤。

 そこからしばらく先に進んで、谷町のあたりに樫井、富井、祐二とピアッツァ……だいたいこんな感じか。

 いずれにしても、僕だけがドコにも絡んでいなくて少しさびしい。


 切通しの直線を走り抜けるあいだ、樫井からの実況が時折スピーカーから漏れてくるだけで、堤と天使の情報は一切入ってこなかった。

 僕はスピードに強弱を付けながら橋げたをくぐり、合流してくる一般車をひたすら躱し続けた。張り合う相手もいない静かな走りではあったが、僕は確かな手応えを感じながら一人きりのドライブを楽しんだ。

 そして今日二度目となる江戸橋ジャンクションが近付いてきた――。





***


 僕らは大井をおりたところの駐車場にきていた。

 時計は三時を指している。

 陽が出るにはまだ早いが、僕らを包む空気はというよりのいろに変わっている気がした。


「――ま……また次に頑張れよ」

 熊沢は缶コーヒーを片手にそう言ったが、縁石に腰を下ろした堤は項垂れたまま小さく首を横に振った。


 堤は今日も勝てなかった。天使との連敗記録をまたひとつ伸ばしていた。

 竹橋ジャンクションの手前で天使を迎えた堤は、そこから一の橋ジャンクションまで壮絶なバトルを繰り広げたらしい。

 もっともその間ずっとケンメリのテールを見せつけられ、結局前に出ることはなかった。

 そして芝公園付近のストレートで完全に振り切られ、そのまま見失ったらしい。


 完敗だった――。

 そう呟いた堤は、クラウンのフェンダーを優しく撫でた。

 そのもの悲しい仕草が、彼をずいぶんと年寄りにしてしまったように見えた。

 そして完敗といえばもうひとり――。



「あんまり気にすんなよ~」

 樫井が困ったような顔をして呟いた。

 彼の視線の先には祐二がいた。祐二は堤と同様、項垂れたまま首を横に振っていた。


 祐二もピアッツァと追いつ追われつのバトルを展開していたらしい。

 しかし汐留トンネルのあたり……あそこの勾配を利用して一気に仕掛けたピアッツァに、祐二のRX-7はあっさりと振り切られたんだそうだ。

 まあ、今回はピアッツァの方が首都高速を知り尽くしていたという――


「――なんかあったの?」

 不意に掛けられた声に振り返ると、ソコには富井が立っていた。

 僕は首を傾げ「なにが?」と醒めた声で尋ねた。

「いや、なんだか珍しく・・・楽しそうだからさ」

 富井はにっこりと笑った。


 珍しくってなんだよ……。

 相変わらずやんわりと失礼なコトを言う奴だと思ったが、それほど腹は立たなかった。

 そして「楽しそうだ」というのはあながち外れてはいなかった。

 誰かと張り合うこともなく一人で走っていた僕だったが、見えない天使の背中を追ううちに気付いたことがあった。

 僕の走りは変わっていた。

 幾つかのコーナーを駆け抜けながら、自分自身の走りが進化していることを体感していた。

 ノースピアでの特訓がもたらしてくれたものは、競技会での順位なんかではなく、僕にとって未知の領域へ足を踏み入れるためのチケットだったのかもしれない。

 前を行く誰かに引っ張られた走りではなく、自分自身でペースを作り、ラップを刻んでいく――。

 そんな当たり前のことがどうして今までできなかったのか……まあ、理由については思い当たる節はいくつかある。

 ただ、ようやく僕は「誰かの幻影」を振り払えたような気がしていた。

 そしてそのことが僕の気持ちをこの上なく軽いモノにしてくれていた。


 やがて僕らは解散した。

 熊沢は「明日は(厳密には今日だが)絶対に遅刻するなよ」と何度も僕に言い聞かせた。

 それはさっき自分が遅刻したことなどもう忘れてしまったかのような物言いだった。

 しかしそれを笑って聞き流せるくらい、いまの僕は穏やかな充実感に包まれていた。




***


 大井から乗った首都高速を新山下で下りると、いつものように見晴トンネルへと向かった。

 もっと走り回りたいという衝動に駆られていたが、それを堪えて家路を急いだ。

 ガス山通りを駆け上がる頃になっても僕の興奮は収まる気配がなかった。


 新しいバーボンを開けよう――。

 ふとそんなことを思った。

 時間的には早く眠ったほうがいいに決まっているが、いまは簡単には寝付けそうな気がしない。

 だから一杯だけ酒を飲もうと思った。きっとその方が寝付きもいいような気がする。


 家の前にたどり着くと、近所迷惑も顧みずに勢いをつけてシャッターを開け、スープラをガレージに収めて階段を駆け上がった。


「ん……?」

 階段を上りきったとき、ダイニングにある電話機が点滅しているのが目に入った。

 滅多に使うことのない留守番電話機能――。たまに由佳里の半ギレの声が吹き込まれているくらいだった。だいたいココの電話番号を知っている人はあまりいない。

 ま、どちらにしても大した用件があるとは思えない。


 取りあえず僕はキッチンの洗いカゴからお気に入りのロックグラスを取りだした。

 それを布巾で丁寧に磨くと、ワインラックの片隅からアーリータイムスを引っ張り出した。

 アーリータイムスは埃を被っていた。

 僕は水道でボトルを洗い流すと、グラスを磨いた布巾でボトルの水滴を拭った。

 そして冷凍庫からロックアイスを二、三個掴んでグラスに落とすと、キッチンの横の小窓を開け、窓際のスツールに腰掛けた。


――ふぅぅ……。

 意味もなく大きなため息を吐いた。

 そしてアーリータイムスをグラスに注ぐと、ぴしぴしという氷の割れる音に急かされるように、僕はグラスに口を付けた。


 相変わらず電話機の小さな赤いランプが点滅していた。

 実家から……というより由佳里からの様子見の電話に決まってる。ある意味それは「定時連絡」のようなものだった。

 僕は左手にグラスを持ったまま、右手の指先を電話機に伸ばした。

 用件にはまったく興味がないが、いつまでも続く赤い点滅が目障りだった。


 指先が再生ボタンに触れると、録音件数を知らせる無機質な音声が流れ、録音テープが巻き戻った音がした。

 僕は再生される音声に耳を傾けるでもなく、グラスをそっと煽っ――


 もしもし――。


 僕は跳ね上がるように振り返った。

 電話機から聞こえてきた予想外の声……それは祐未さんの声だった。

 彼女の声は微かに震えていた。

 僕は胸騒ぎを抱えながらも彼女の声に聞き入った。



 祐未さんが残したメッセージ――。

 それは僕らにとってあまり歓迎したくないニュースだった。



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