#060 Response
昼休み、僕はスープラを駆り出し海へと向かった。
途中のコンビニでサンドウィッチと烏龍茶、そしてレモン味の飴を買い、有明の少し先にある埠頭までやって来た。
今日は天気が良かった。
じっとしていても汗ばむくらいに日差しが強かった。
こんな日は外に出なけりゃもったいない――。
午前中、工場で作業をしているときにそんなことを考えた。まったく呆れるくらいに僕らしくない健康的な考えだ。
だけど、地面と車体に挟まれた窮屈な視界の向こうに見つけた陽だまり。
それは寝板に寝そべってクルマの下に潜り込んでいた僕にとっては途轍もなく魅力的なモノに映った。
工場に流れるラジオの時報が正午を告げると、僕は寝板を滑らせ、クルマの下を這いだした。
そして軍手を脱ぎ捨てると、熊沢からの誘いも軽くいなして職場を飛び出した。
おそらくそれは「出動要請された消防隊員」なみの手際の良さだったはずだ。
クルマ通りの少ない路上にスープラを止めると、コンビニの袋をぶら下げて海が見える場所まで移動した。
視界に広がる凪いだ海。そして波間をゆく水上バス。
深く濃い藍色の上に描く白い航跡がなんだか涼しげだ。
しかし、陽射しに照らされた僕はまったく涼しくなかった。
不意に額を拭うと、掌には滴るほどの汗……。
この暑さの原因のひとつに「ツナギ」があった。生地の厚い長袖の作業着はそろそろ時期的に合わないようだ。
僕はツナギのファスナーをヘソの辺りまで下ろすと袖から腕を抜いた。
微かに吹く海風がTシャツの裾を揺らしたとき、ようやく初夏の清涼感が僕にも訪れたような気がした。
海が見える堤防の上に腰を下ろした僕は、左手に嵌めた時計を外して堤防の上に置くと、袋から取りだした缶を開け、口を付けた。
そしてサンドウィッチを掴み出し、ビニールの包みを丁寧に剥がした。
タマゴサンドを食べるのは久しぶりだった。
中学生のときに食あたりを起こしてからは自ら進んで食べることはしていない。
もっとも食べられないわけでもないし、嫌いなわけでもないから「あれば食べるけど」という軽いスタンス……まあ、今日はたまたまこれしかなかったから買ってみた。
久しぶりといえば、一人で昼飯を食べるというのも最近ではないことだった。
普段は熊沢と一緒のことが多いし、休みの日には祐未さんと一緒のことがほとんど。
その祐未さんとは晩飯が一緒というのも少なくない。
いまの僕は「一人でメシを食う」ということがあまりなくなった。以前までは当たり前すぎるくらいに当たり前だったのだが。
多忙過ぎる上に家庭を顧みない父を持ったお陰で、僕には子供の頃から「家族で食卓を囲んだ」という記憶がほとんどない。
しかも興味もない習い事をさせられていた関係もあって、小さい頃から「一人メシ」となることも珍しくはなかった。
だから一人で過ごすことにまったく抵抗がなかったし、疑うことなくソレが普通なんだと思っていたのだが……。
それはともかくとして、最近は熊沢のマークがあまりきつくない。
以前までだったら「一人で職場を抜け出す」なんて考えられなかった、たとえそれが昼休みだったとしてもだ。
いま、熊沢は機嫌がいい。ちょっと気味が悪いくらいに。
もっとも理由は明らかだ。本人はソレを言葉にすることはないが、それでも顔を見ていれば明解すぎるほどに伝わってくる。
ここまで三戦して優勝一回、三位一回、そして入賞は延べ六回――。
コレが僕ら『チーム・クマザワ』の団体としての成績だった。
本格参戦一年目としては悪くはない戦績だ。そしてこのことが熊沢を上機嫌にしている。
同業の仲間たちとの電話でも「自慢したくて仕方がない」というのが窺える。優勝した当日はあんまり喜んでいる様子はなかったのに……ホントに素直じゃない人だ。
しかし僕らが参加している競技会はJMRCが主催する公式な大会ではなかった。
あくまで草レースに毛が生えたような競技会で、しかもシード制限がある。つまり、モータースポーツという点では底辺中の底辺とも言える大会だった。
そのあたりについては、僕と富井そして祐二の認識は一致していた。だから誰一人として浮かれている様子はない……もっとも祐二が浮かれる理由はなにもなかったのだが。
ただ、いずれにしても『チーム・クマザワ』の名前を周囲に認知させるには十分なインパクトがあったようだ。
そして将来的に「本格的にモータースポーツに進出する」という熊沢のどうでもいい野望の足掛かりにもなったようで、それが僕の就業環境にもいい影響を与えてくれているのは疑いようがなかった――。
僕は腕時計を手に取ると、時間を確認してから左手に戻した。
そろそろ戻らないといけない時間だった。
僕はタマゴサンドの最後の一かけらを口に放り込むと、立ち上がって烏龍茶を一気に飲み干した。
***
昼休みが終わる一〇分前には職場に戻ってきた僕……。
すっかり熊沢に躾けられてしまったかのようで、気分的に少し萎える。
山田と吉岡の姿はまだなかった。
僕は午後の作業に備え、事務所を素通りして誰もいない工場に足を踏み入れた。
……ん?
僕は工場の片隅に目を留めた。
あまり広くない工場の一角を占拠した黒い塊。出かける前にはなかったタイヤがそこに積んであった。
新品のタイヤが全部で六セット。
仕事柄この場所にタイヤがあることは珍しくはないが、いま目の前にあるタイヤは「本来あるはずのモノではない」ということは発注を担当させられている僕にはわかっていた。
「――なんだ、帰ってきてたのか」
声に振り返ると、熊沢が立っていた。
折りたたんだ新聞を片手に持った彼は、出かける前に会ったときと同じように「彼には似つかわしくない」柔らかい笑みを口元に浮かべていた。
「いま戻ってきたところです」
愛想のない挨拶を口にした僕は、彼から視線を外して工場の片隅に目を戻した。
「なんですか、これ」
僕はタイヤを指さした。
「なにって、タイヤ以外になにがある?」
熊沢は鼻で笑った。
その小馬鹿にしたような態度に、僕は顔を背けてそっとため息を吐いた。
タイヤなのは見ればわかるよ――。
僕は心の中で呟いた。
しかし熊沢はそんな僕の心を逆撫でするように近づいてくると、意味ありげに笑った。
「このあいだの主催者が是非とも履いてもらいたいんだと」
熊沢は言った。
「……主催者?」
「ああ。プレゼントだってよ、おまえと富井君に」
そう言って僕の目の前を素通りした熊沢は、タイヤの山を前にして口元を弛めた。
「へえ……」
「はあ? へーじゃねえだろ? まだ非売のタイヤなんだぞ?」
感動の薄い奴だな、まったく――。
熊沢はそう言って眉間に皺を寄せたが、それでも目は笑っていた。どうやら優勝の神通力はまだ落ちていないらしい。
それはともかくとして……。
僕は山積みのタイヤを見つめた。
このあいだのジムカーナ大会、つまり僕が優勝した競技会はたまたま某タイヤメーカーが主催したものだった。
参加者のほとんどがソコの社員の推薦……つまり営業的な意味合いの強い大会だった。
それでタイヤが贈られてきたということは何となく理解できるのだが……今度こそ祐二が拗ねるかもしれない。
「……ん?」
不意に乾いた排気音が聞こえてきた。
僕の位置からは見えなかったが、来客用の駐車場に誰かが入ってきたみたいだった。
熊沢はエビのように身体を反らして駐車場を覗き込んだが、「来訪者」に興味を持つことも出迎える様子もなかった。そのことで「来訪者」がイワユル「客」の類ではないということを僕も悟った。
「ちわ~っす!」
やがて工場に顔を出したのは樫井だった。
人懐っこい笑みを浮かべながら近付いてきた彼は、僕に向かって「久しぶり!」とあまり久しぶりではないかのような態度で言った。
僕はそれに応えるように右手を軽く掲げたが、樫井はそれを無視して僕と熊沢のあいだに割り込んでくると、そのままタイヤの山を前に立ち尽くした。
「なんスか、これ?」
樫井はタイヤをぺたぺたと叩いた。
「なにって……タイヤ以外になにがある?」
熊沢は言った。
さっき聞かされたモノとまったく同じ言い回し……。
この人も語彙のレパートリーが圧倒的に少ないみたいだ。
***
そして……その日の日付が変わる頃、僕は芝浦パーキングにいた。
昼間に会社にやってきた樫井に誘われ、久しぶりの走行会に顔を出していた。
とは言ってもココには樫井と僕しかいない。熊沢には「十一時半集合。時間厳守」と告げられたような気がするのだが……その小姑・熊沢もまだ姿を見せていなかった。
「でも久しぶりだよな――」
樫井は昼間と同じ台詞を口にした。
僕は「そうかもな」と他人事のように呟くと、車止めに腰を下ろした。
あの事故の後も首都高速には何度か来ていたが、誰かと一緒に走るのは久しぶりだった。
丸蓮宝燈のメンバーでは、最近では祐二と富井……あとゴク稀に松井に会うくらいで、それ以外の奴らとは疎遠になっている。
しかしそれは他の奴らも同じらしく、あれだけいたメンバーが揃うことはいまではまずないらしい。
「でもすげえよなあ、優勝だろ?」
樫井は思い出したように呟いた。
彼は昼間、熊沢に捉まってジムカーナの話を延々と聞かされていた。
あの拙い説明で何が伝わったのかは不明だったが、彼は「スゴイ」という言葉を繰り返し使った。
「……ま、とは言ってもレベルがアレだからな」
僕は自嘲気味に呟くと、居心地の悪さに苦笑いを浮かべた。
そして「富井が入賞するくらいなんだから」と言って肩を竦めた。
しかし樫井は「いや――」と首を横に振った。
「レベルがどうとかじゃなく、やっぱり入賞するってのはすげえコトなんだよ」
樫井はいつになくマジメな表情でそう言った。
その「らしくない」表情に僕は目を逸らした。そして照れ隠しに小さく首を傾げた。
「きっと樫井だって優勝できたさ」
僕は独り言のように呟いてみたが、彼からはなんの応えも返っては来なかった。
パーキングには、おそらく僕らと同じ目的であろうと思われるクルマが集まりだしていた。
爆音を響かせながら集まってきた奴ら……彼らが僕らに向ける視線はあまり好意的とは言えないモノだった。
威嚇というよりドコか見下されているようにも感じる。
おそらくそれは、僕らのクルマが彼らのソレに比べて外見的に大人しいからということなんだろうが……まあ、そう言う意味では彼らのレベルの低さも窺い知れる――
「――あ、来た」
樫井が声を上げて立ち上がった。
地鳴りのような排気音を引き連れてパーキングに現れたのはガンメタのGS131――。堤のクラウン・スーパーチャージャーだった。
堤は僕らに気付いたようで、真っ直ぐにこちらに向かってきた。
「あれ……」
運転席から顔を出した堤は、あたりを見回して首を傾げた。
「二人しか来てないのか?」
「……みたいですね」
僕は肩を竦めた。
「クマさんが遅刻なんて珍しいな」
「……ですね」
確かに熊沢は人一倍時間にうるさい男だった。だから遅刻とも無縁な男だった。
僕としてはあの熊沢が、どんな顔をしてこの場に現れるのだろうというべつの興味も湧いていたが、それをこの場で口にすることはしなかった。
それはともかく、堤の登場でパーキングの空気は一変していた。
さっきまで好戦的な視線を向けてきていた斜向かいの奴らも、明らかに落ち着かない態度でヒソヒソと話し込んだりして……その視線の先には間違いなく堤のクラウンがあった。
堤という人はこの首都高では「かなり知られた人間」なのだと樫井に聞かされたコトがある。
クラウンという決して走りに適しているとは思えないクルマで、数多の走り屋たちのプライドをズタズタに引き裂いてきたという。
いまでは彼のクラウンが現れるとみんなが道を譲るほどだったが、彼を知らないオノボリサンがたまに現れては勝負を挑み、散々煽られて泣きながらクニへと帰るのだ、と樫井は情感たっぷりに話してくれた。
ただ、そんな堤でも「天使」にだけはいまだに勝てないままでいる。
水曜日の環状線に現れる天使は、追い縋る堤をあざ笑うように振り切り、やがて忽然と姿を消してしまうのだという。
以前までの僕なら、そんな天使にまつわる話なんて本気にはしていなかったと思う。忽然と姿を消すなんてあるワケがない、と。
だけど僕が目の当たりにした天使の走りは想像以上だった。
彼女の神がかり的な走りの前に、僕はコーナーごとに引き離され、いいようのない屈辱を味わった。本当に忽然と消えてしまった。
しかし……そんな天使でも完璧なわけではなかった。
彼女でもミスをすることはあるし、僕はそのミスを間近で見ることがあったわけだし――。
惜しいことをしたかもしれないな……。
僕は苦笑いした。
あんなチャンスはもう訪れることはないのかもしれない。
だけど、もう一度チャンスが訪れたとしたら、今度は躊躇なくアクセルを踏み込める自信があった。彼女のミスに付けこむ覚悟がいまの僕にはあるように思えた。
そんなことを考えてるうちに祐二と富井が連なってやってきた。
続いて熊沢たちが到着した。
熊沢はいつものように吉井の助手席でふんぞり返っている……なんだか感じが悪い。
重厚な排気音を響かせた吉井のZが僕らの目の前で停まると、ほぼ同時に助手席のドアが開き、熊沢が下りてきた。
「いやあ~、悪い!」
熊沢はそう言って顔の前で手刀をきった。
言葉とは裏腹の笑顔に、僕は一言「遅かったですね」とささやかな苦言を呈した。
しかし熊沢は動じる様子もなく「まったく、この馬鹿が遅刻しやがってよ――」と吉井の背中をバシバシと叩いた。ちょうど自来也(※1)の顔があるあたりを……。
熊沢と吉井の関係はいまだによくわからないが、薄笑いを浮かべたまま無抵抗の吉井を見るかぎり、彼らの主従関係は筋金入りだというコトなんだろう。
そしてそんな彼らの登場でパーキングの空気がまた変わっていた。
さっきまでコチラを覗いながらヒソヒソと話し込んでいた奴らも姿が見えなくなっている。というより脱兎のごとくパーキングから退散していった。
つまり、熊沢と吉井もまたココではかなりの有名人だというコトなのだろう……もちろん堤とは違う意味でだと思うが。
「――じゃ、堤と吉井は外回りな。おれら若い連中は内回りでいくからよ」
熊沢がそう言うと、堤と吉井は顔を見合わせて苦笑いした。
しかしそんなことはお構いなしの熊沢は、平然と僕のクルマに乗り込んだ。
若い連中って……一番年寄りのクセに――。
僕は心の中で呟くと、小さくため息を吐いた。
※1 割と有名な和彫りの柄です。




