#058 躾
東名高速道路の下り線、日曜日のサービスエリアは空いていた。
歩道と車道を隔てた縁石に腰をおろした僕は、足を投げ出し、意味もなく遠くの空を眺めていた。
年が明け、季節は春になっていた。
しかし時折微かに吹く風はまだ冷たく、しかも花粉混じりのようで僕の鼻をムズ痒くさせている。
熊沢にコキ使われる日々も、間もなく一年になろうとしていた。
去年は試運転ばかりだったが、今年に入ってからは熊沢の細かすぎる指導の下、メカニックらしい仕事を与えられるようになった。
だからといって毎朝の掃除や試運転から解放されたというわけではない。単純に僕の仕事が増えたというだけ。
それでも僕にとってはようやく本来のあるべき姿に戻れたような気がしていた。
アルバイトも順調に続いている。
週に一度か二度という勤務環境も有難かったが、なにより報酬がよかった。
日払いで受け取る報酬は毎回同じというわけではなかったが、僕が考えていたものよりもずっと高額だった。
そのおかげというわけではないが、スープラも足回りを中心に手を付け始めている。コイルスプリングとショックアブソーバの組み合わせがなかなかしっくり来なくて、何度かの微調整を繰り返し現在のカタチに落ち着いたは二日前のこと。まだ僕のイメージする完成形には至っていないが、それでも順調に「自分仕様」に近付きつつあった。
そして神藤たちとの歪な関係も相変らずだった。
特にどういうわけか健吾には懐かれてしまったようで、顔を合わせるたびに焼きそばを食わされたり、コーヒーを飲まされたり、何の因果かビーフシチューの作り方を伝授したり……と。
まあ彼との距離感に戸惑うことはいまだにあるのだが、彼自体は悪い人間ではないように思えた。
そして、そんなふうに何度か顔を合わせるうち、彼らのチームが中国残留孤児を中心としたメンバーで構成されているということを知った。
いまだに全員と顔を合わせる機会はなかったが、健吾の話では「おれも一回しか会ったことがない奴がいる」というくらいだから、僕がそれを望むのは無理がある……いや、決してそれを望んでいるわけではなかったのだが。
そして……ジムカーナ競技会への本格的な参戦も始まっていた。
昨年から続くノースピアでの練習の成果もあってか、先週、僕は三戦目にして初めて表彰台の中央に上った。
それまでの二戦も表彰台には上っていたから、僕としては時間の問題なのだろうと思っていた。しかし講師陣にとってはそうでもなかったらしく、熊沢は「待たせやがってよ」と皮肉交じりに嘯き、堤と伊豆見は「思ってたより早かった」とそれぞれ違う感想を漏らした。
そんな彼らが口をそろえて驚いていたのが富井の急成長と、伸び悩んでいる祐二の走りだった。
練習量では一番少ない富井だが、ココまでの三戦ですべて入賞と、意外なセンスの良さを見せていた。割と呑み込みが早いらしく、いつか箱根でみたときとは次元の違う走りをするようになっている。
逆に深刻だったのが祐二の走りだった。
練習では表彰台に登れるくらいのタイムをたたき出していたのだが、本番になると別人のような走りになってしまう。
凡ミスを繰り返し、表彰台どころか入賞すらできていない有様だった。
祐二という人間のことはよく知っているつもりでいたが、こんなに本番に弱い男だとは思わなかった。
しかし、それくらいの弱点があってもいいとも思う。
僕から見た祐二は、人格的には完璧な男なんじゃないかと思う。社交的な面も含めて僕にはないものをたくさん持っている。
それなのに「走り」でも僕の上を行ってしまうようなことがあったら、たぶん僕は本気で彼を嫌いになってしまうのだろう――
「――なに呆けてるの?」
不意に耳に飛び込んできた柔らかな声。
首を回らせると、薄手のカーディガンを羽織った祐未さんがやや背を丸めて立っていた。
「べつに呆けてなんかいませんけど」
僕は鼻を鳴らした。
「そう? 一般的にはそういうのを呆けてるというんだけど」
祐未さんは言い聞かせるような口調で呟くと、僕の隣に腰を下ろした。
陽は西に傾いていた。
若干の肌寒さがあったが、西日に照らされていた左の頬だけが不自然に火照っていた。
「なんだか……また低くなったような気がするんだけど」
祐未さんは急に目を細めた。
ため息を吐いた彼女の視線の先……ソコにはスープラがあった。
彼女が気付いたとおり、車高はまた低くなっていた。
「一応、小っちゃい祐未さんが乗りやすいように、と」
気が利くでしょ――。
僕は口元を弛めて嘯いた。
すると彼女は微笑みながらも口を尖らせ、そしてコブシを僕の肩に押付けてきた。
祐未さんと僕の関係は以前よりもさらに深まってる気がしている。精神的な意味での距離が縮まった、というか。
彼女に対する僕の依存も間違いなく大きくなっている。
そして大人の彼女は拒絶することもなくソレを受け入れてくれていた。
「――さて、と」
僕は立ち上がり、ジーンズの尻を払った。
「そろそろ行きましょうか」
座ったままの彼女に手を差し出した。
「そうね」
彼女は僕の手を握りしめ、軽やかに立ち上がった。
「ちょっと寒いし……それにおなかも空いてきたし」
屈託のない笑みを浮かべた。
彼女の笑顔は優しかった。
僕は笑顔の彼女が好きだった、たぶん……ずっと昔から。
でも、あるとき気が付いた。いま僕に見せてくれる笑顔は、以前までの笑顔とは少し違うってことに。
僕に向けてくれる笑顔――。それは飾りのない無防備な笑顔だった。
口を大きく開けて屈託なく笑う彼女は、僕に対して心から気を許してくれているのだと思う。そしてそれは僕にとっても嬉しい事には違いなかったのだが……。
スープラに乗り込んだ僕は、シートベルトを締めるとイグニッションを回しエンジンを始動させた。
キュルキュルというセルの回る音に続いて、低く太い排気音が響き渡る。
エンジンの回転数を示すメーターはやや高目の位置にあったが、エンジンが冷め切ってたわけではないのですぐに正常の位置に落ち着いた。
「あ……そうだ」
走り出そうとしたとき、ふとあることを思い出した。
僕は一速に入れたギヤをニュートラルに戻すと、サイドブレーキを引いた。
「ちょっと降りてもらっていいですか」
僕は助手席を覗った。祐未さんは不思議そうな目で僕を見返してきた。
「見せたいモノがあったんですよ」
すっかり忘れてました――。
僕は口元を弛めると、ドアを開けた。
「なに? 見せたいモノって」
ルーフ越しの祐未さんは微笑を浮かべていた。
それに応えるように僕も微笑すると、何も言わずに彼女の背後を指さした。
彼女は小さく首を傾げてから後ろを振り返った。
暗くなりかけた東の空――。
そこにはいつものように富士山があった。
「結構きれいに見えるんですよ、ココ」
僕は少し誇らしげな気分で言った。
しかし……彼女の反応は芳しいモノではなかった。
「べつに……珍しくはないんじゃない?」
ウチからだって見えるし――。
彼女はそう言って首を傾げると、そそくさとクルマに乗り込んでしまった。
何か気にいらないコトを言ってしまったのか……?
僕は直近の記憶をたぐり寄せてみたが、彼女を不機嫌にさせた原因に行き着く予感はなかった。
少し遅れて運転席に乗り込むと、祐未さんは既にシートベルトを締め、出発の準備は万端といった感じだった。
しかしその視線は助手席の窓を通り越し、遙か遠くの……僕の目には映らない何かに向けられているようだ。
なんてこった……。
僕は気付かれないように小さくため息を吐くと、クラッチを切り、ギヤを一速に入れた。
そしてサイドブレーキを下ろしたとき、不意に彼女が口を開いた。
「ココにはよく来たの?」
彼女の言葉の意図が読み取れなかった。
取りあえずサイドブレーキを引き、ギヤをニュートラルに戻した。
「以前に付き合ってた人とよく来たのかな、と思って」
彼女は視線を遠くに伸ばしたまま言った。
「ああ……」
僕は薄笑いを浮かべた。
「由佳里を連れてきたことはありますけ――」
「私の知ってる人?」
僕の咄嗟の言葉を無視した彼女は、覗き込むような視線を僕に向けてきた。
そんな彼女の瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚え、僕は僅かに目を逸らし、そして観念した
「……祐未さんの知ってる人ではないですよ」
僕は囁くような声で言った。少しだけ投げやりな雰囲気を纏って。
「……ならよかった」
彼女は微笑した。
「だからナニっていうわけじゃないんだけどネ」
呪縛から解かれたような優しい笑顔に、僕は思わずため息を吐いた。
「それにしても……ヒトって変わるものね」
ね――。
不意に祐未さんが呟いた。
しかし、いきなり「ね?」と言われても……僕は無言のまま小さく首を傾げた。
彼女は僕が「パーキングに寄っていく」と言ったことが意外だったみたいだ。
走り出したら止まらないぜ……というタイプだった僕が助手席を気遣い、休憩のためにパーキングに立ち寄るなんて、と。
しかし僕としては深い意味などなかった。
確かに昔、通るたびに寄らされた馴染みのサービスエリアではあったが、それとはあまり関係がなかった。
寧ろ熊沢の影響の方が大きいかもしれない。あの人は本当に便所にばかり行ってるし――
「そんな気遣いができる子じゃなかったのにね?」
祐未さんは肩を竦めて微笑した。
しかし、彼女が言うほど周りが見えてなかったわけではないと思うし、少なくとも僕にその自覚はない。
「気が利かない男の方がよかったですか?」
僕は皮肉を込めて呟くと鼻で笑った。
「そういうわけじゃないけど……でも、他人に躾けられたワンちゃんには興味ないかも」
彼女はそう言って舌を出した。
「躾けって……」
僕は言いかけて言葉を飲み込んだ。そして……代わりにこぼれ出たのは苦笑いだった。
祐未さんの笑顔が僕は好きだった。
だけど、その笑顔をみるたびに僕の心に過ぎっていた微かな嫉妬。いま、僕だけに見せてくれる無防備な笑顔は、以前は僕以外の誰かに向けられていたはずで、そのことが僕の胸中に複雑な陰を落としていた。
でも……過去に嫉妬していたのは僕だけではなかったみたいだ。
それがわかっただけで僕は幸せな気持ちになれた。これでようやく「過去」と向き合うことができるのかもしれない。お互いの会話にそれぞれの過去を持ち出せる日も近いのかもしれない……。
そんな予感に包まれながら、僕はそっとサイドブレーキを下ろした。
「それより――」
走り出してすぐに祐未さんが呟いた。
「期待しちゃってるんだけど……大丈夫よね?」
それはさっきまでとは違ってどことなく戯けた声にも聞こえた。
「何がです?」
「鰻よ。ウ・ナ・ギ! こんな遠くにまで連れてこられたんだから……相当美味しくないと満足できないわよ?」
助手席を覗うと、彼女は悪戯っぽく笑っていた。
こんな遠くにまで――。
いつか誰かにも言われたことのある台詞。いつか同じシチュエーションで聴かされた懐かしいフレーズ。
だけどそれに感情を揺さぶられることも、誰かの顔を思い浮かべることもいまはない。
「まあ心配ないか。聖志の行きつけだし」
祐未さんは一人で納得したように頷いた。
しかし僕は彼女の顔を覗うと口元を弛めた。そして「どうですかね」と他人事のように呟いた。
「どうですかねって」
彼女は不満そうに口を尖らせたが、それには気付かないふりで「本当にわかんないんですよ」とわざとらしく首を捻った。僕の舌に対する高評価には些か照れるが、今日ばかりは何とも言えない。
「わかんないって――」
「だって行ったことない店なんですもん」
僕はそう言うとミラーを覗き込み、アクセルを踏み込んだ。
まだ誰とも行ったことのない場所へ――。
そんな殊勝なことを考えたのは気まぐれ以外のナニモノでもなかった。
さっきまではいつもと同じ鰻屋に行くつもりだった。というより違う店に行こうなんて思いつきもしなかった。
もともと食べることに関しては「冒険」をする性質ではなかったし、浜名湖まで行って「ハズレ」を引いたら目も当てられない。それにわざわざ連れて行く以上、男としてはそれだけは避けたいトコロでもある。だけど……。
「捕まっちゃうわよ――」
不意に助手席から聞こえてきた祐未さんの声。
アクセルを強く踏み込む僕を窘めるような声に、僕は下唇を突きだすようにして渋々頷くと右足のチカラを緩める。
速度を落としたスープラは、後ろからきたクルマに追いつかれそうになり、僕としては不本意ながら左車線へと逃れた。
いつもなら甲高い排気音を響かせるマフラーも今日はドコか抑え気味で、おかげでスピーカーから流れる音楽がクリアに聞こえる。もっとも僕の知らない曲だったのだが。
僕らしくないな――。
頭に過ぎったのはそんな言葉だった。
何もかもが僕らしくないような気がする。可笑しくなるくらいに。
彼女ふうに言えば、コレが「躾け」ってことなのかもしれないが……まあ、それはそれで悪くないような気がした。




