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#057 参戦の準備


 祐未さんに促されるままにクルマを出した僕は、ガス山通りを下り、本牧通りを根岸方面に向かった。

 そして間門の交差点で産業道路と合流すると、そのまま国道十六号線を南へとクルマを走らせた。

 行き先は決めていなかった。ただなんとなく気の向くままにステアリングを切り、アクセルを踏み込んだ。


 助手席の祐未さんはといえば、さっきから車内を見渡しては「ふ~ん」とか「へー」とか、言葉とは言えないような言葉を口にしている。

 つい一時間くらいまえまでの「無関心」が嘘だったかのようだ。

 そんな彼女が一番興味を示したのはオーディオだった。

 このクルマにはどういうわけかCDが付いていた。そしてそのことが祐未さんのテンションを少しだけ嵩上げしたようだ。

 だけど僕にしてみれば、このクルマにCDが付いている理由がよくわからなかった。

 黒で統一された無骨なインパネまわりの中で、シルバーに輝くALPINEのオーディオは明らかに浮いていた。それにこの狭い室内にリモコンがある理由も全く解せない。

 ただ、「ターボAを買う人」が必ずしも「走りだけを追求する人種」ってわけじゃないことを知った。少なくとも前のオーナーはそうではないらしい。

 そして僕もまた、CDはこのまま残しておこうと思った。

 さっきまでは取り外してしまうつもりでいたのだが、意味もなくオーディオのリモコンを弄ぶ祐未さんの表情が、何となく僕をそんな気持ちにさせていた。


「――ところで……ドコに向かってるわけ?」

 窓の外を眺めていた祐未さんが振り返った。

「さあ……ドコですかね」

 僕は首を傾げた。

 いつの間にか横須賀市内に入っていた。

 適当に走り続けてはきたものの、僕はこのあたりの地理には詳しくなかった。ま……鳩なみの帰巣本能を持つ僕だから、そんなことは全く問題にならなかったのだが。

「海にでも行こうかな、と思ってはいたんですけど」

 僕は言いながらステアリングを右に切った。

 交差点を右折すると間もなく駅があるのが見えた。横須賀中央駅……そう書いてあったが、僕の知らない駅だった。

 駅を過ぎると勾配のキツイ坂を駆け上った。

「あの……海から離れていってませんか?」

 助手席から聞こえてきたのはヨソヨソしい問いかけだった。

 彼女に言われるまでもなく、だんだん海の気配とは遠くなっているのは間違いがないみたいだった。僕の勘では絶対にショートカットできるという根拠のない自信があったのだが。

「……大丈夫ですよ」

 そう答えてはみたものの、我ながら自信なさげな声に聞こえた。


 やがて横浜横須賀道路の案内板が出てきた。

 ソコには「衣笠」とあった。名前は聞いたことがあったが、頭の中で広げた地図にその場所が示される気配はなかった。





***



「なんだ。さっきからアクビばっかりしやがって」

 助手席の熊沢が醒めた視線を向けてきた。 

「あ……走りに行ったんだろ? 新しいクルマが来たもんだから――」

 熊沢はそう言って口元を弛めたが、僕はそれに答えることもなく曖昧に首を傾げると、運転席のウインドウを少しおろした。


 僕と熊沢は埼玉に向かっていた。

 いつもの試運転ではなく、熊沢のマスターエースに乗って、彼の友人の経営するショップに向かっていた。

 熊沢の指示通り、渋滞する首都高速を避け、明治通りから国道四号線に抜けたのだが……やっぱり渋滞を避けることはできなかった。寝不足のときにこの渋滞はちょっとキツイ。


 結局、昨夜はほとんど寝られなかった。

 さんざん道に迷った挙句、家に着いたのは午前五時になる少し前だった。

 もともと夜型の生活が馴染んでいる僕にとって、その時間までクルマを走らすことなどそれほどの苦はない。しかし、道に迷いながら不安な気持ちで走っていたから、なんとなく肩に力が入っていたのかもしれない。いまの僕は眠気と同時に肩甲骨のあたりに凝りを感じている。特に午後になってからはそれが徐々に効いてきていて――


「……何だよ。今度は突然笑いだしやがって」

 気持ち悪い奴だな――。

 熊沢はそう言って怪訝そうに眉を顰めた。


 僕は祐未さんのコトを思い浮かべていた。

 彼女もいまごろウトウトしながらデスクに向かっているのかもしれない。

 僕と違って一日中机に向かっている仕事のハズだから、きっと眠気も僕の比ではないのだろう。そう考えると気の毒になってくるが。


 それにしても――。

 僕は小さく息を吐いた。

 まさか眠気を我慢しなければいけない日が来るなんて思いもしなかった。

 ちょっと前までの僕は眠れなくて苦労していた。あの頃はクスリに頼らなければならないほどだった。

 寝たいのに眠れなかった以前までと、眠いのに寝られない今……どちらがいいのかと訊かれても答えようがないが、いまの方がより人間らしいような気もする。メシを食った後に眠くなるのは生理的なものだと思うし。

 ただひとつ言えることは、祐未さんと付き合うようになってからたぶん僕は変わった。もしかしたら「変わった」というより、それ以前の自分に戻ったという方が正しいのかも知れないが。

 日々の暮らしの中で「なんとなく笑ってる」ことが多いような気がする。

 そして笑うということは結構疲れることなんだと気付いた。だけどその疲労感は不思議な心地よさを僕の胸にもたらしていた。



 荒川に架かる橋を渡り、環七の立体交差を過ぎると、クルマの流れもいくぶんスムーズになってきた。

 しかしそれも束の間で、埼玉県に入ると国道四号線・草加バイパスはダラダラとした渋滞を形成していた。


「ケッコウ混んでるな……」

 まずいな――。

 熊沢の独り言が聞こえた。

 助手席を覗うと、熊沢は腕を組んで顔を顰めていた。

 確かにそろそろ目的地である春日部に到着していてもいい時間だった。だけどまだ埼玉県内に入ったばかり……なにしろ店を出てからずっと渋滞区間をハシゴしてきたようなカンジだったし。

「時間……何時に約束してたんですか」

 僕は遠慮気味に呟いた。

 熊沢は無言だった。眉間に皺を寄せたままで何も言葉を発しなかった。だけど……口にはしなくてもその理由がわかってしまった。


 僕は口元を弛めると渋滞の先に視線を伸ばした。

 しかしソコには僕の目当てのモノは見つからなかった。もう少し先にはあるのかもしれないが、この渋滞を抜けるにはもう少し時間を要しそうだ。

 そのとき、左手に細い路地があるのが目に入った。

 この道がドコに続いているのかは不明だが、取りあえずこの渋滞を避けることはできそうで……まあ、行き止まりとかじゃなければ、だったのだが。

 僕はミラーを確認すると、左にウインカーを灯し、ステアリングを切った。


「お、おい――」

 熊沢が何かを言いかけたが、僕は構わずアクセルを踏み込んだ。

 思ったよりも道路の状態が悪くてサスペンションが軋むほどに跳ねたが、熊沢の口を塞ぐには寧ろ好都合だった。

 やがて……少し広めの道に出た。

 僕は勘を頼りに右を選んだ。昨夜はまるであてにならなかった僕の勘。

 しかし今日は冴えてるみたいだった。コンビニはすぐに見つかった。


 僕は左にウインカーを灯すと、迷わず駐車場へと乗り入れた。

 停止するのと同時に熊沢がドアを開けた。

 彼はクルマから飛び降りると、僕を振り返り親指を立てた。切羽詰っていた彼の表情がその瞬間だけ弛んだようにも見えた。

 そして彼は僕に背を向け、小走りで店内へと入っていった。


 店員と何某かの言葉を交わした熊沢が店の奥の小部屋に消えたのを確認すると、少しだけシートを倒した。

 ふと、僕の目に留まったのはオーディオだった。マスターエースに据え付けられたのはKENWOODのCDプレイヤーだった。

 僕は指を伸ばし、電源を入れてみた。

 液晶画面に数字が浮かび上がり、やや遅れてスピーカーから聞いたことのある曲が流れてきた。


「なんだ。演歌か――」

 そう呟くと、僕はオーディオの電源を落とした。

 熊沢の音楽の趣味なんて確認したことがなかったが、スピーカーから流れてきたS.Kitajimaの歌声は熊沢のイメージを壊さないモノに思えた。


 やがて熊沢が戻ってきた。

 いつものように左手には缶を二本持っている。


「いや~危ねえところだったぜ――」

 熊沢はそう言って僕に缶を差し出してきた。

 僕は手渡された缶と、熊沢の手に残った缶を見比べた。

 彼のは微糖、僕のは無糖。どちらもいつもとは違う銘柄だったがコーヒーには違いない……ホントに学習しない人だ。

「……やめといた方がいいんじゃないですか」

 僕は遠慮気味に缶を指さした。

 しかし熊沢は口から缶を離すと「なんでよ」と怪訝そうな目を僕に向けてきた。

「……いや、べつにいいんですけど」

 僕は目を逸らした。

 そんなこと僕が心配することではなかった。



 コンビニの駐車場を出たマスターエースは、越谷のあたりで国道四号線に合流した。

 春日部駅を過ぎ、国道十六号線の交差点が近付いてきた。こんなところにまで国道十六号線が走っていることに若干の違和感を抱く。

 そして交差点を通過して間もなく、目的地である店にたどり着いた。




「――相変わらずヒマそうな店だな」

 熊沢は不躾な視線を店内に這わせた。そして「お前の人相が悪いからじゃねえのか?」と鼻で笑った。


「お前にだけは言われたくねえな」

 まあ座れや――。

 店内にいた男はそう言って接客席を指さした。


 目の前の男は門田と言った。

 春日部市内にあるレーシングショップ「KSガレージ」。ココのオーナー兼チーフメカニックだった。

 背はそれほど高くないがガッシリとした体格の男で、ぶっきら棒な雰囲気は職人然としていた。

 しかしその顔……全てのパーツが角ばった印象を受けるその顔は、熊沢の言葉をなぞるまでもなく人相が悪い。確かに一見の客は入りにくいような気がする。


「きみも大変だな、熊沢にコキ使われてよ」

 門田は僕を一瞥して呟いた。

「そんなことねえよ。な?」

 素早く反応した熊沢がコチラを覗ってきたが、僕は肩を竦めて小さく首を傾げた。


「そういや、最近は瑞穂で走ってるんだってな」

 門田はそう言って煙草をくわえると、両手でポケットを探りはじめた。

「……堤に聞いたのか?」

 熊沢は否定も肯定もせずに、ポケットから取り出したライターを門田に向かって放り投げた。

 お、サンキュ――。

 門田はライターを受け取ると、煙草の先に火をつけた。そして目を細めて煙を吸い込んだ。

「あそこは走りにくくないか?」

 煙を細く吐き出した門田は、徐にライターを懐にしまった。

「"ガス屋の庭"よりマシだ」

「ガス……? ああ、東京ベイサイドか。確かにアソコの路面は悪すぎ――」

「それよりライター返せよ」

 そう言って熊沢が掌を突き出すと、門田はバツが悪そうにライターを取り出してその掌に乗せた。


 僕は二人のやり取りを眺めていた。

 熊沢と門田は古い付き合いのようだった。堤の名前が出てきたということは、伊豆見のことも知っているのだろう。そしてたぶん吉井のことも……だとしたらあまり関わりたくない。


「あ……門田おまえも来るか?」

 熊沢が声を上げた。

「……ドコへよ?」

「瑞穂埠頭だ。今夜も走りに行くんだが……伊豆見も来るぞ」

「ほお。伊豆見も一緒なのか――」


 そう言って門田が目を細めたとき、僕は思わずため息を吐いた。そして頭の中でスケジュールを確認した。


「ん……なんだ。ナンか用でもあるのか、今夜?」

 熊沢が不満げな視線を僕に向けてきた。

「いえ、べつに……」

 僕は目を伏せた。

 予定は何もなかったが、熊沢が組み込む用事はいつでも唐突過ぎた。そして強引だった。


「ま、今日からは富井くんも参加するからよ」

「富井……ですか?」

「ああ。祐二君からはもう連絡がいってるはずだ」


 意外な名前だった。

 そして久しぶりに聞く名前だった。いまひとつ心を許す気になれない男ではあったが。


「なんだかズイブン熱心じゃねえかよ」

 門田は煙を吐き出すと、茶化すように言った。

 しかし熊沢は意に介する様子もなく「まあな」と微笑した。


「来年からは本格的に参戦するからよ」

 熊沢は低い声で言った。独り言のようでもあった。

「本格的って……ジムカーナに、か?」


 煙草くれ――。

 熊沢はその問いには答えず、掌を広げた。

 門田は微かに不満そうな表情を浮かべた。しかし黙ったまま胸のポケットからセブンスターのパッケージを取り出すと、テーブルに放り投げた。

 熊沢は手刀を切ると、パッケージに手を伸ばして一本を引き抜いた。

 そして穏やかな笑みを浮かべたまま一頻り弄ぶと、くわえて火をつけた。


「ま、取りあえず準備期間は終わり……つうことさ」

 熊沢は目を細めると、天井に向かって煙を吐き出した。




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