#056 turbo-A
「思ったよりいいクルマじゃないか」
熊沢は独り言のように呟くと、納車されたばかりのスープラのフェンダーに手を乗せた。
「ああ。これだけ程度のいいターボAはまず出て来ねえだろな」
宇野は満足そうに目を細めた。
神藤から紹介されたバイトをはじめてまもなく、僕のもとにスープラがやってきた。
トヨタ・スープラ3000GTターボA。
7M-GTEエンジンにターボAタービンを搭載した、僕にとっては二台目の所有となるこのクルマは、ノーマルでも270psをたたき出すグループA仕様の限定車だった。
外観は想像していたよりきれいだった。いまさらだったが、写真を見ただけで決めてしまったから現物を見るのは今日が初めてだ。
点検整備記録はなく、メーターも交換した形跡があって正確な走行距離は不明。しかし「事故歴がない」ということは宇野のお墨付きで、僕が見た限りでもそれらしき痕跡は窺えなかった。
「よお、さっそく試運転に行ってみようぜ」
熊沢はそう言うと、宇野を後部座席に押し込め、自分も助手席におさまった。
僕はこれ以上ないくらいの大きなため息を吐くと、納車されたばかりのスープラの運転席に乗りこんだ。
「じゃあよ、大井まで行ってみようか」
熊沢の声に小さく頷くと、バックギヤに入れて通りへと出た。
そしてギヤを一速に入れると、LSDを利かせながらゆっくりと走り出した。
塩浜から首都高速に乗ると、僕は感触を確かめるようにアクセルを踏み込んだ。
アクセルペダルはやや重く感じる。
しかしスープラのレスポンスは悪くなかった。
7M-GTEエンジンは軽快に吹け上がり、海を目指して加速した。
「意外と大人しい走りをするんだな」
後部座席にいた宇野が身を乗り出してきた。
「そうなんだよな」助手席の熊沢が呟いた。
「コイツの走りには若々しさってものがねえんだ、な?」
熊沢は言ったが、僕は何も応えずにドアミラーを覗った。
彼らが顔を見合わせているのが気配でわかったが、僕は敢えて聞こえないふりを押し通した。
大人しい走り――。
以前にも熊沢に言われたことがある。しかしそれがどういう意味なのかはいまだによくわからない。
運転に関しては、よくいろいろな人に「乱暴だ」とか「荒っぽい」と言われ続けてきた。しかしそれは「速い」ということとイコールなんだと理解している。
僕が他人より速く走ることができるのは疑いようがないことだった。
それは単車に乗り始めた頃から気付いていたから、もしかしたら生まれついてのものなのかもしれない。
走りのスタイルに関しては誰かの真似だと言えなくはなかったが、速さに関しては純粋に自分だけの特性なんだろうと自負している。
他人よりも優れた「怖さ」に対しての耐性。それが僕の速さの源泉であり、その感覚が麻痺しているからこそ極限までアクセルを踏み込めるのだ……と。
だから熊沢の言葉の意味が僕には理解できないでいた。
熊沢は以前、僕について「速い」と語っていたこともある。
大人しさと速さ――。
その二つが僕には矛盾するものに思えて仕方がなかった。
辰巳ジャンクションに差しかかった。
Rの大きいカーブを速度を抑え目に走り抜ける。
湾岸線の直線に入ると同時にそれまで溜めていた鬱憤を晴らすようにアクセルを強く踏み込む。
加速したスープラは、周囲を走っていた車を置き去りにし、瞬く間にスピードメーターを振り切った。
「ほお。さすがはグループAのホモロゲだな」
熊沢の間の抜けた声に、僕も小さく頷いた。
これまでにも同じエンジンのクルマには乗っているが、このスープラはそれらとはベツモノだった。
確かにノーマルでこの状態なら文句はないのだが……。
13号地出口の看板が見えてきた。
前方には僕の走路を塞ぐように並走する二台の一般車の姿があった。右車線を走るコロナと、左車線を行くパジェロ――。
僕はアクセルを弛めた。
速度が落ちるにつれて、窓を流れる景色の輪郭がはっきりとしてきた。
やがて前方の車に接近すると、並走しているように見えた二台の車は、若干前後にずれてクランクを形成していることに気付いた。
僕はアクセルを弛めたまま左車線に移ると、手前側を走っていた右車線のコロナをかわした。
そして再び右車線に戻るとアクセルを踏み込んでパジェロをかわし、加速しながら東京港トンネルへと飛び込んだ。
リトラクタブルヘッドライトが照らすトンネル内に、スープラの重厚な排気音が響き渡る。
僕はさらにアクセルを踏み込み、それに呼応するようにスープラは加速していく――。
トンネルの出口が近付いてきたところで左にウインカーを灯した。
そしてシフトダウンして一気に速度を落とす。大井の出口は間もなくだった。
大井を出ていつもの公園の駐車場にスープラを乗り入れた。
そして熊沢はいつものように小走りで便所に向かい、戻ってきたときには缶コーヒーを手にしていた。
ただでさえ便所ばっかり行ってるんだからそんな利尿作用の高いモノ飲まなきゃいいのにと思うのだが……。
「ほらよ、無糖」
熊沢はそう言って缶を放り投げてきた。
僕は左手を伸ばしてそれをキャッチすると、礼を言ってからプルタブを引き起こした。
缶は温かかった。
いつのまにかそんな季節になっていることにいまさらながら気付かされる。
「どうよ。実際に走らせてみた感触は」
熊沢はスープラを一瞥すると僕を振り返った。
「思ってたよりパワーはあるみたいですけど……」
「ん……なんだ? 気になることでもあったか?」
熊沢が食いついてきた。宇野も怪訝そうな表情で僕を覗っている。
「いえ、べつに」
僕は首を捻ると、コーヒーの缶に口を付けた。
思っていたよりブレーキの感触はよくない気がした。
まあ、慣れれば問題のない範疇の違和感だと言えるのかもしれなかったのだが……それでもブレーキには手を入れる必要がありそうだ。
スープラを買うことを決めたときから、僕の中でチューニングのイメージが出来上がっていた。
ブレーキについても当然考えているものがあったのだが、今回の試運転で若干の方針の転換が必要だということもわかった。
そして気付いたことと言えばもうひとつ――。
「ま、取りあえずは……いじり甲斐がありそうないいクルマだろ」
宇野はそう言って熊沢と僕を交互に覗った。
しかし熊沢は下唇を突出し「この潔癖症のお兄ちゃんはエンジンに触られるのが嫌いなんだと」と僕の方をアゴでしゃくった。
「べつに潔癖症ってわけじゃないですよ」
僕は誰とも視線を合わせずに言い返した。
「……ちょっと、便所に行ってきます」
僕はそう告げると、熊沢と宇野が手にしている缶を指さした。
熊沢はまだ飲みかけだったようだが、宇野は空になった缶を差し出してきた。
僕はそれを受け取ると、ゆっくりと歩き出した。
エンジンに手を入れる――。
それにはやっぱり抵抗があった。それはいまでも変わらない。
だけど今日の試運転で気付いたことがあった。
スープラに搭載された7M-GTEは僕にとっては馴染みのあるエンジンだったが、専用タービンと大容量のインタクーラーが走りをさらにパワフルなモノに変えていた。
しかしそれでもドコか物足りなさを感じた瞬間があって……。
僕は息を吐いた。
物足りないと感じた理由について僕には心当たりがあった。
心当たりと言うよりも明確に気付いていた。まあ、僕には受け入れたくない理由ではあったのだが……。
僕は目を閉じると首を傾げた。
その瞬間にこぼれ出た大きなため息を、僕は抑えることができなかった。
***
仕事を終え、第一京浜を横浜方面へと向かった。
いつもと同じ家路ではあったのだが、クルマが替わっただけで気分が随分と違った。
このまま走りに行きたいような気持ちになったが、今日は辞めておくことにした。
バイトを始めてから、神藤と顔を会わす機会が増えていた。
あれから何度となく新山下のバーに顔を出している。そこで何があるというわけではないのだが、店の一角を借りて、神藤とバイトのスケジュール調整のようなモノをさせてもらっている。
バイトの責任者だという人とは一度だけ会った。しかしその後は神藤を通して連絡を取っているので、まるで神藤が僕の上司なんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
仮にそうだったとしても、彼は良い部類の上司のようだった。
バイトの日程については僕の予定を最大限に考慮してくれているので、はじめに思っていたほど時間の窮屈さは感じていない。
それでも熊沢たちとの「ジムカーナ」から解放されているわけではなかったから、突発的に慌ただしくなる可能性もなくはなかったのだが。
ガス山通りを駆け上り狭い路地を入ると、僕の部屋に灯りが点っているのが確認できた。
思ってたとおり、今夜は祐未さんが来ていた。
シャッターを開けてスープラをバックでガレージ内に収めると、普段なら下りてくることのない祐未さんが階段を下りてきた。おそらくいつもとは違う排気音に気付いたのだろう。
「ただいま……帰りました」
クルマを降りた僕は、照れ隠しに敬礼をしてみた。
しかし彼女は「はあ……どうも」と気のない返事をしただけで、いつもと違うクルマの存在など気にも留めていない様子だった。
「買っちゃいました……これ」
僕はスープラを指さした。
「一応、リクエストにお応えしてみたんですけど……」
僕は続けて言った。しかし彼女の反応は期待していたモノではなかった。スープラを一瞥しただけで素っ気なく頷くと、「ゴハンできてるけど」といつもと変わらない言葉を返してきた。
晩飯を食べ始めても、祐未さんはあまり興味がないのか、敢えて触れないようにしているのか、不自然なくらいにその話題が出ることもなかった。
僕としては、肩すかしを食ったような寂しい気分だった。クルマが新しくなったことに対するナニガシかの反応が当然あるものだと思っていて、それに対する答えも複数用意していた。しかし本当にその話題を避けようとしているんじゃないかと思うくらい、彼女はべつの話題ばかりを持ち出した。
そして、とうとうスープラの「ス」の字も出ないまま、晩飯の時間は終わった。
僕はいつもと変わらない様子で食器を洗い始めた彼女の背中を見つめた。そして視線を落とし、小さくため息を吐いた。
考えてみれば仕方のないことなのかもしれない。
クルマに興味のない彼女にしてみれば、道楽以外のナニモノでもないのだろうし。
一応「買う」ということは話してあったが、そんなことは忘れてしまっている可能性もある。スープラが彼女のリクエストでもあったということでさえも。
なのに浮かれた顔で帰ってきた僕を、彼女がどういう気持ちで見ていたんだろうと考えると背筋が冷たくなる。たぶん「経済観念の乏しい愚かな男だ」とかそんなふうに思って――
「……?」
顔を上げると、いつの間にか祐未さんが目の前に立っていた。
無表情に僕を見下ろした彼女は、右手の人差し指をクイクイッと動かした。
僕はその指に促されるように立ち上がった。すると彼女は僕の手を引き、階段を下りはじめた。
「……なんですか?」
僕は尋ねたが、彼女はそれに応えることもなく、ガレージに停まったスープラをなめるように見回しはじめた。
そしてコチラに向き直ると、僕に向かって真っすぐに腕を伸ばし、掌を広げた。
「――鍵」
祐未さんは無表情のまま呟いた。
「え……」
「カ・ギ・か・し・て」
虚をつかれて一瞬言葉に詰まった僕に、彼女はもう一度ゆっくり、そしてはっきりと言った。
「あ……ああ、付けっぱなし――」
「そ」
彼女は僕が言い終えるよりも先に短く応えると、助手席のドアハンドルに手を掛けた。
そして徐にドアを開け、流れるように自然な動きで助手席に乗り込んだ。
……何なんだ、何がしたいんだ?
今日の祐未さんの動きは予測不能だった。
ガラス越しの彼女はコンソールボックスを開けたり、サンバイザーを下ろしたりと車内を物色しているようだった。当然アヤシイものなんて何ひとつないが――。
「……?」
ガラス越しの祐未さんが僕に向かって手招きをした。
僕が首を傾げると、彼女は肩を竦めて何かを言った。そして僕と運転席を交互に指さした。
僕はもう一度首を傾げた。
すると彼女はドアを開け、首を伸ばした。
そして「ドコかに連れて行ってくれるんじゃないの?」と悪戯っぽく微笑んだ。




