#053 Alternatives
瑞穂埠頭を出て、高島を経由して家に帰ったのは午前三時を過ぎた頃だった。
週末ではあったが、深夜だったためか東急東横線沿いの直線道路は見事なくらいにクルマが走っていなかった。
いまの僕は練習のおかげでスピードの感覚が麻痺していた。警察の姿はなかったが、速度超過にはいつも以上に注意を払う必要がありそうだった。
そして、さっきから若干の空腹を覚えている。晩飯を食べてからずいぶん時間が経っているから仕方のないことだったが、この時間に何かを食べるのは何となく気が引けた。
僕は途中のコンビニに立ち寄り、普段なら飲まないような甘いコーヒーを買い、それで腹を満たすことにした。
五時間にも及ぶノースピアでの練習は、時間的な長さだけではなく、その中身も非常に濃いものだった。
何しろいっさい邪魔が入らない。一般車両はいないし、警察がやってくることもない。僕らはただ「走ることだけ」に集中していればいい。
そんな環境はめったにない。
自分の腕を磨くのに、こんないい場所はなかなか無いはずだ。
家に着くと、ご近所に配慮してシャッターを開けることは断念し、カローラFXはシャッターの前に頭から突っ込んで停めた。
そしてダッシュボードから何も入っていないシガーケースを取り出すと、無造作に胸のポケットに押し込んだ。
番号錠を解除して玄関ドアを開けると、階段の照明が点いたままになっていた。
僕は足音を立てないようにして階段を上りきると、静かにドアを開けて寝室を覗いた。
やっぱりな――。
ベッドには祐未さんがいた。僕が帰ってきたことに気付かないらしく、身じろぎもせずに静かな寝息を立てている。
僕は小さく息を吐くと、そっとドアを閉めた。
今日、彼女が来るという約束はなかった。だけどなんとなくそんな予感がずっと僕につきまとっていた。
僕はバスルームへと向かった。
さっきまではこのまま寝てしまおうかと思っていたが、やっぱりシャワーを浴びることにした。潮風に晒されていた髪の毛が磯臭いような気がしたのだ。
湯温をやや熱めに設定したシャワーを立ったまま頭から浴びる。
立ちこめる湯気のなか、肌を刺すような飛沫に身を固くした。
それほど寒さを感じていたわけではなかったが、気付かないうちにカラダは冷えていたようで、急に血流を取り戻した指先がじんじんと痺れた。
僕は目を閉じたまま小さく息を吐いた。
祐未さんは何時くらいに来たんだろう――。
そんなことを考えてはみたが手掛かりはなかった。待ちくたびれて……いや、ダイニングのテーブルには「書置き」らしきメモは見当たらなかったから、怒って眠ってしまったという可能性も否定できない。
熊沢との練習は今日……いや、厳密に言えば昨日決まった。
仕事の帰り際に「今晩十時集合」と何かの呪文かと勘違いするくらいに抑揚のない声で告げられた。
彼はいつもそうだった。
何の前触れもなく、当日になって突然告げられる。そして基本的に僕には拒否権が与えられていない。
考えてみれば一弥君にもそういうところがあった。
彼からの誘いはいつでも「いますぐに」ということが多く、いきなり家に迎えに来られたりということが多かった。
中学の頃などは、家に帰ると既に一弥君がリビングでくつろいでいたなんてコトもあった。
当時の母は、そんな一弥君の「無邪気な図々しさ」に対しても悪いイメージは持っていなかったみたいだったが、父は僕が一弥君と連むことを快く思っていなかったフシがある。
まあ確かに成績優秀で優等生だった僕が、彼と遊び回るようになってからは成績は下降の一途をたどり、目も当てられないことになってしまった。
挙げ句にエスカレーター式の進学校への道も蹴って、神奈川の工業高校に進んでしまったのだから父の気持ちもわからないでもない。
ただ、僕はそんな生活が楽しかった。
彼に振り回されながら過ごした十代は、僕にとっては充実しすぎる毎日で――。
「……」
僕はきつく目を閉じた。
なんでいまさらそんなことを思い出すのか……首を傾げるしかない。あの頃の自分とは決別すると誓ったはずなのに。
ずいぶん中途半端な覚悟だったんだな――。
僕は自問すると、不意に込みあげてきた笑みを噛み殺した。
バスルームを出た僕はダイニングに向かった。
冷蔵庫を開け、水の入ったペットボトルを取り出すとそのまま口を付ける。喉を伝っていく冷たい感触が妙に心地いい。
「……?」
テーブルの下に雑誌を見つけた。
夜景の見えるレストラン特集――。
雑誌にはそんな文字があった。僕が買ったモノではないから、たぶん祐未さんが持ってきたのだろう。
僕はテーブルの脇に腰を下ろすと雑誌を手に取った。そして濡れた髪の毛をタオルで乾かしながらページをめくった。
見開きの写真は大黒埠頭の方から見上げたベイブリッジだった。
取り上げられている店のなかには、僕の知る名前もいくつかあった。そして北条興産グループのレストランも二つ掲載されていた。
この雑誌がココにある意味……僕はそれについて考えてみた。
祐未さんはこれを「僕に見せるため」に持ってきたのか、それとも「僕が家にいない」ことを予想して時間をつぶすために持ってきたのか。
その答えによっては彼女を雑誌に載ってるどこかに連れて行くべきなのか、それともそろそろテレビでも買った方がいいのかという二つの選択肢があって――
「――おかえり」
心もち冷ややかな声がした。
振り返ると祐未さんが立っていた。彼女は寝室のドアにしなだれかかるようにして、僕を見下ろしていた。
「遅かったね」
歩み寄ってきた彼女は、そう言って僕の隣に腰を下ろした。
「すみません。なるべく静かにしてたつもりなんですけど」
そんな言い訳をしながら僕は雑誌を閉じた。
「……ドコに行ってたの?」
彼女は拗ねたような視線を僕に向けてきた。
僕は不意に湧きあがってきた「抱きしめたい」という衝動を抑えて「アメリカです」と小さな声で言った。
「アメリカ……?」
祐未さんは目を瞬かせながら僕の言葉を反芻した。
「はい……とは言っても車で行けるんですけど――」
そう言って微笑すると、祐未さんは意味が分からないといった表情で小さく首を傾げた。
そんな彼女の些細な仕草に安らぎを覚えながら、僕はさっきまでいた「瑞穂埠頭にあるアメリカ」のコトを話しはじめた――。
――ん……?
気が付くと僕はベッドにいた。
背中を丸めて、特に寒かったわけではないが、毛布にくるまっていた。
まだ醒め切らない頭を回らすと、ブラインドの隙間から差し込む細い光が僕の顔を横切った。
どのくらい眠っていたのかは知らないが、もう夜が明けていることだけは間違いがないみたいだった。
「あ、起きた?」
声に反応すると、まだ焦点の定まらない僕の目には寝室のドアを開けて入ってきた祐未さんの姿が映った。
「……おはよう、ございます」
僕はなんとなくバツの悪い思いを抱えながら頭を掻いた。
昨夜、というか明け方に帰ってきてシャワーを浴びて、起きてきた祐未さんと少し話をして……その後の記憶はない。
自力でベッドにたどり着いたのかということさえ定かではなかった。
「本当は起こさないつもりだったのに」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。
「まだ寝てたら。今日は何もないんでしょ?」
ゆっくりと僕に近付いてきた彼女はベッドの縁に腰を下ろした。
仄かにパフュームの香りがした。そして祐未さんが既に身支度を整えていることに気付いた。
「え……もう帰っちゃうんですか」
起き抜けの僕の声はかすれていた。
彼女は何も言わず曖昧に頷いた。その刹那、彼女の視線が僅かに振れたのを僕は見逃さなかった。
「……ドコにいくんですか」
上擦りそうになる声を抑えて僕は言った。
彼女は何も答えなかった。だけどそれこそが答えのようにも思えて、僕は黙り込んだ。
病院――。
彼女は少しの間をおいてから、短く抑揚のない声でそう言った。
そして「カズ、寂しがってるんじゃないかなと思って……」と遠慮がちに俯いた。
僕はため息を吐いた。
聞くまでもない事だった。いつか言い出すだろうと思っていた。彼女が寝たきりの一弥君をそのままにしておけるはずがなかった。
もっとも僕はそんな彼女の優しさが好きだった。
一弥君をとっとと放り出すような人だったら、きっと僕はこれほどまでに惹かれることもなかったはずだし。
だけど……それを「いってらっしゃい」と笑顔で見送れるほど、僕は人間ができてはいなかった。
いまさら彼女が一弥君のところに行ったからといって、僕らの関係に変化が訪れることなどないだろう。
意識のない一弥君と二人でいて何かが起こる事もないのだろうけど、僕のいない場所で彼らが会うということが許せなかった。
彼女の優しさが僕以外の誰かに向く――。
それが僕には許せなかった。そのことが僕を激しく嫉妬させた。
次の瞬間、僕は腕を伸ばして祐未さんの細い手首を掴んでいた。
彼女は竦んだように微かに身体を固くした。しかし構わずベッドに引き込むと、強く抱きしめ、乱暴に唇を押し付けた。
彼女は抵抗することもなかった。
ただ一瞬だけ悲しげに目を伏せただけだった。
***
翌日、宇野が会社にやってきた。
午後の試運転から帰ってきた僕を待っていた彼は、バッグから一枚の紙を取り出し、僕に向かって差し出してきた。
二つ折りになった紙を広げると、ソコにはスープラの写真が印刷されていた。
フロントバンパーに開いた三連ダクト……そこにあったのは紛れもなく、僕が探していたターボAだった。




