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#052 橋の向こうのアメリカ


 僕の嫌な予感は的中した。

 あの試運転以来、週二回のペースで瑞穂埠頭にある「米海軍ノースピア」に来ている。

 横暴なオヤジたちに引っ張り出され、やりたくもないジムカーナの練習をさせられるために――。




 埠頭へと続く道にクルマを停めた僕は、缶コーヒーに口を付けながら時折ミラーを覗っていた。

 車内の時計はもうすぐ一〇時になるあたりを示している。

 夜の埠頭はコンビナートに灯る明かりが水面に揺れ、昼間の風景とは全く異質の空間を作り出していた。

 僕は窓を少し下げ、外の空気を取り込んでみた。

 埠頭に吹く風は、潮の香りと油が混じったようなにおいがした。

 海に近いとは言えない場所で生まれ育った僕だが、このにおいにはどこか懐かしさを感じる。


 そのとき、ミラーの中にヘッドライトの灯りが揺れた。

 僕は目を細めてミラーを覗き込んでみた。車種を限定することまではできなかったが、それが僕の仲間・・であることは間違いないような気がした。

 やがてヘッドライトが消え、その車は僕の背後にぴたりとつけて停まった。

 後ろのクルマのドアが開くのを確認してから僕もドアを開けた。

 クルマはCR-X……運転していたのは熊沢だった。

「珍しく早いな」

 熊沢は言った。しかし僕は無言のまま首を小さく傾げた。そんな嫌味に付き合うつもりはない。

「あれ? 城戸君は来てないのか?」

 熊沢の眉間に深い皺が浮かんだが、僕は「いつものことですよ」と努めて醒めた声を出して言った。

 祐二の遅刻癖は相変わらずだった。

 この場所での待ち合わせは五回目になるが、奴が僕より先に到着していたことは一度もない。というより待ち合わせ時間に間に合ったことがないはずだ。

 しかし熊沢は祐二に対しては厳しいことをあまり言わない。

 先日そのことを堤に話したら、「そんなことないだろ」と笑い飛ばされたが、間違いなくそんなことあるはずだ。

 そう言えば今日はまだ堤が来てない。それに吉井や伊豆見の姿もないが……。

「今日は熊沢さん一人なんですか?」

 僕は尋ねた。

「おう。なにか不満――」

「いえ、べつに」

 熊沢の舌が滑り出す前に、僕は間髪入れずにそう言った。


 ココでの練習には熊沢の他に、堤、吉井、伊豆見の三人のうちの誰かが参加していた。つまり彼らが講師役というわけだ。

 伊豆見は自分でも言うだけあって巧かった。さすがに地方大会での入賞経験があるというのはウソではないみたいだ。

 そして意外だったのが熊沢だった。

 僕は彼が運転するところはほとんど見たことがない。いつでも助手席でふんぞり返っているイメージしかない。

 しかし、CR-Xを自在に操る彼の腕は本物だった。少なくとも僕にはそう映っていた。


 祐二がRX-7で現れたのは、それから五分ほど経った頃だった。

 奴は本当に申し訳なさそうな顔で僕と熊沢に頭を下げてきたが、いつものことだから多分それほど反省はしていないんじゃないかと思う。

 しかし熊沢は祐二を窘めることもなく「じゃ、オレのあとについてこい」というと、僕のカローラFXを追い越して鉄橋を渡った。


 橋を渡りきったところにあるゲートの前には青いシビックが停まっていた。その傍らには背の高い外国人が立っていた。ココで働くブラッドリーという男だった。

 男は英語で熊沢に何かを言ったが、熊沢は「悪いな、遅くなっちまって」と流暢すぎる日本語で応えた。


 ブラッドリーは背が高く、短い金髪の白人だった。軍の関係者にふさわしく筋肉質でガタイのいいイカツイ男ではあったが、陽気でよく喋る男だった。

 今日は姿が見えないが、もう一人トーマスという男がいた。

 彼もブラッドリーと似たような背格好ではあったが、性格的にはブラッドリーとは対照的なようで、いつでもイラついたように口元を歪めていた。

 そして米軍施設であるココから先には彼らのエスコートなしには入ることができない――。堤がそんなことを言っていたような気がする。



 ブラッドリーに導かれて向かったジムカーナ場では既に誰かがクルマを走らせていた。

 派手なスキール音をまき散らしているのはAE86レビンだった。

 レビンは急発進と急制動を繰り返しながら、疎らに散らばったパイロンをひとつひとつクリアしていく――。

 シビックから降り立ったブラッドリーはレビンに向って手を掲げた。

 テールを振ってコチラにアタマを向けたレビンは、それに気付いたようでゆっくりとこちらに向かってきた。


 赤黒ツートンのレビンから降りてきた外人……見たことのない顔だった。

 彼はブラッドリーと早口で言葉を交わすと、熊沢に向かって笑顔で何かを話しかけた。

 熊沢は「今日はいねえ」と呟いた。するとその外人は小さく頷いてレビンに乗り込み、そのままジムカーナ場を立ち去った。

 僕は小さく首を傾げた。熊沢が英語を話すところは聞いたことがない。ブラッドリーたちも日本語を話すようすはない。しかし彼らのなかで会話が成立しているらしい……理由はわからないが。


 レビンが走り去り、埠頭にあるジムカーナ場には静寂が訪れていた。

 遠くに首都高の灯りが連なっているのが見えるが、米軍が管轄するこの場所は紛れもなく外国……パスポートのいらない、地続きのアメリカだった。

 とは言っても異国情緒を感じることなんか――


 ふと、パイロンを並べ直すブラッドリーの姿が視界に入った。

 まあ、強いて言うなら彼らの存在のみが、ココが異国であることを思い出させてくれているのかもしれない。


「――じゃ、取りあえず、おまえ」

 熊沢は僕に向かってそう言うと、親指でCR-Xをさした。

 僕は祐二を振り返り「お先に」と無感動に呟くと、熊沢がCR-Xの運転席に乗り込むのを確認してから助手席に乗り込んだ。

 スパルコのフルバケットシートに身体を沈め、サベルトの四点式シートベルトでガッチリと固定する。

「準備はいいか?」

 赤いレーシンググローブをはめた熊沢は、ギヤを1速に入れてアクセルを煽った。

「いいです――」

「舌噛むなよ」

 熊沢は僕が言い終えるより先にそう言うと、いきなりクラッチをつないだ。

 同時に身体がシートに強く押し付けられる。窮屈さに抗いながら、僕はステアリングを握る熊沢を横目で盗み見た。

 熊沢は嬉々としていた。その表情は興奮を抑えられないとでもいうような笑顔だった。

 何がそんなに嬉しいのか……と思う間もなく今度はシートベルトが身体に食い込んできた。まるで強い力で僕をバケットシートから引き剥がそうとするかのように――。

 熊沢はサイドブレーキを引いた。今度は車体が横に流れる。

 身体が左右に引っ張られ、暗闇を引き裂くヘッドライトが映しだした「フロントガラスの景色」が目まぐるしく移り変わる。

 遠くに見えた首都高の灯りが、かろうじて僕がいま向いている方向を教えてくれた。

 またシートに押し付けられる。と思う間もなく、シートベルトが身体に食い込み、また視界が回る――。


 熊沢は無言だった。 

 暴れるCR-Xを宥めるようすもなく、寧ろさらに煽り立てるかのような熊沢の走りには凄味があった。

 そして安心感があった。

 猛スピードで暴れまわるロデオのような走りではあったが、絶対的な安心感のようなものが熊沢の走りにはあった。

 その安心感のある走りは、僕のよく知る誰かに似ているような気がして――。

 僕は朧げに浮かんだ名前を、心の奥へと押し込めた。


 やがてCR-Xは速度を落とした。

 体中の血液をかき回すような過激なアトラクションは終わりを告げ、祐二とブラッドリーが待つスタート地点へと戻った。

 熊沢がサイドブレーキを引き、ギヤをニュートラルに入れるのを確認すると、僕は四点式のシートベルトのバックルに手を伸ばした。

 手元が少し震えていることに気付いたが、それを熊沢には悟られないようにそそくさとベルトを解いた。


 ありがとうございました――。

 僕は囁くような声でそう言うとドアを開けた。目の前には「お預けを食らった犬」のような顔をした祐二が立っていた。

 僕と入れ替わるようにして祐二が乗り込むと、CR-Xは再び唸りを上げて走り出した。

 ブラッドリーは急発進したCR-Xを指さして何かを言った。

 しかし排気音に打ち消されて聞き取れなかった僕は、口元を弛めただけで何も言葉を返さなかった。


 弾かれたように加速していったCR-Xは、ブレーキランプを激しく灯し、右方向にテールを流した。

 暗闇の中、ヘッドライトとテールを激しく振り回している。

 けたたましいスキール音をまき散らしながら不規則な動きを繰り返すCR-X。

 僕は流れるテールに目を奪われていた。


 不意に埠頭に吹く風が鼻をくすぐった。

 そして……同時に鼻腔を刺激する懐かしさの正体に、いまになってようやく気がついた。

 油臭い海風、灼けたゴムの匂い、そして目の前で狂ったように暴れまわるテールランプ……その何もかもに見覚えがあった。

 この場所にはじめて来たときからあった既視感のようなものの正体。

 ココは以前一弥君に連れられて行った突堤に似ていた。

 高校生の頃、一弥君のKPの助手席に乗って走りに行った本牧の突堤。

 あのときの僕も、こうして海風に吹かれながら目の前を流れるテールランプを目で追っていたはずだった。

 痺れるようなスリルと不思議な昂揚感、そして漠然とした不安を抱えながら――。



 

 埠頭に立ち込める灼けたゴムの匂いを海から吹く風が散らしていく。

 その刹那、響き渡るスキール音が少しだけ遠ざかったような気がした。

 吹き抜ける風に身を晒しながら、僕は何故か落ち着かない気持ちに包まれていた。


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