#051 Yellow, black and the Star-Spangled Banner
ふぁぁぁぁ……。
なんだかさっきからアクビが止まらない。
パドックに停めたCR-Xに寄りかかった僕は、足下から長く延びる影を眺めながらアクビを繰り返していた。
左手に目をやると、時計の針は三時四十分を少し回ったところを指していた。
まだ陽が暮れる気配はなかったが、こうして潮風に身を晒していると少しだけ肌寒さを感じる。
さっきから断続的に疎らな拍手が聞こえてくる。
ココからは見えなかったが、おそらく表彰式が始まっているのだろう。
このパドックには僕以外には誰もいなかった。主催者側にいた熊沢たちはともかく、祐二が律儀にソコに参加している意味がよくわからない。
そんなことより、僕は家に残してきてしまった祐未さんのことが気になっていた。
せっかく家に来てくれた彼女よりも、ジムカーナを優先してしまった自分……いま考えるとちょっと理解ができない。
そんなことを考えながらため息を吐くと、CR-Xに貼り付けてあったゼッケンを爪で剥がした。
ま……いつまでもコレを貼っておく必要も感じなかったし――。
***
昼飯を食べて会社に戻ると、見覚えのあるガンメタのクラウンが店先に停まっていた。
GS131クラウン2.0ロイヤルサルーン・スーパーチャージャー……堤のクルマに違いなかった。しかし今はあまり顔を合わせたくない気分だった。
僕は店の入口を素通りし工場に回り、そっと事務所のドアを開いたが――
「お、帰ってきたか――」
熊沢の声に思わず舌打ちしそうになった。
渋々振り向くと、熊沢は接客テーブルを挟んで座っている堤と談笑していた。
「いま、丁度おまえの話をしてたんだよ、な?」
熊沢は堤に向かっていった。
「ああ、入賞逃したんだってな?」
堤は僕と顔をあわせるなりそう言った。
「で、祐二は黒旗だって? 散々だったな――」
苦笑いを浮かべて言った堤に対し、僕はあごを突き出すようにして頷くしかなかった。
昨日の競技会は、僕が過去に参加したモノのなかでも最悪の内容だった。
僕自身は入賞経験がないから、今回入賞できなかったことに関してはまったく気にしてない。
だけど走りの内容が悪すぎた。祐二に関しては途中棄権だったし。
「コイツらは何か勘違いしてるんだよ」
黙って聞いていた熊沢がニヤついた顔で呟いた。
「ジムカーナは単独で走る競技だから自分のキャパがわからない奴は勝てねえって何回も言ってたのによ」
コイツらは自分に負けたのさ――。
熊沢は呆れたように言ったが、僕は何も言い返すことができなかった。
「とくにコイツ。二回もパイロンに接触しやがってよ。それで一〇秒のロスよ」
タイムだけなら入賞できたのによ――。
熊沢は僕を指さし、大げさに首を傾げた。
確かに僕は、二本目の競技走行中にパイロンに接触するという初歩的なミスを犯した。しかも二度も。
一個目は単純にコーナーへの進入角度が拙かっただけ。二回目の接触は一回目の接触でガラにもなく動揺してしまった。
一本目のタイムがよかっただけにもったいないミスだった。熊沢の言うとおり、一本目だけなら全体で三位につけていたはずだったし。
それでも祐二よりはマシだった。あいつはコースを完全には憶えられずにテンパった状態で一本目の競技臨み、あえなく撃沈した。完走すらできなかったのだ。
走行中止を示す黒旗……競技会に参加したのは三度目だが、ミスコースで黒旗が揚がるのを見たことはある。しかし一つ目のパイロンを華麗に「スルー」して黒旗が揚がるのは初めて見た。
ま……結局のトコロ、僕と祐二はジムカーナには向いていないということなんだろう。
午後になり、僕はいつものように試運転に出掛けた。
午前中に仕上げたF31レパードを駆り、湾岸線を往復するだけの単調な作業だ。
珍しく熊沢は同行しなかった。
彼は決算の関係で税理士が来るからと言って事務所でデスクに向かっていた。
そして代わりと言うわけではなかったが、堤が同行することになった。とは言っても運転するのが堤で、僕は助手席に座っているだけだったのだが。
堤が運転するレパードは、辰巳ジャンクションのカーブを抜けて湾岸線に合流した。
直線道路に入ると、大井方面に向かって滑るように加速していった。
「――人使いが荒いだろ?」
不意に堤が呟いた。
その横顔には笑みが浮かんでいた。
「熊沢さん、ですか?」
そう尋ねると、堤は「ああ」と小さく頷いた。
「――荒いですね」
僕は鼻で笑った。
「それに細かいんですよ、ハンパじゃなく。この間だって――」
ひとつため息を吐くと、一気に捲くし立てた。
すると堤は声を上げて笑った。物静かな彼のイメージとはかけ離れた高らかな笑い声だった。
「まあな~。クマさんは昔からそう言うところがあったからな――」
一頻り笑ったようすの堤は、何かを思い出したかのようにそう言った。その左手にはあの黄色い文字盤の時計があった。
「堤さんって……空自のパイロットかなんかですか」
僕は運転席を覗った。
堤は前を見たまま微かに口元を弛めると「なんでそう思う」と僕の言葉の意味を測るようにゆっくりとした口調で呟いた。
「エマージェンシー、ですよね? それ」
僕は彼の左手に嵌った時計を指さした。
「ああ、これか――」
彼は一瞬だけこちらに目を向けると「つまんないこと知ってるな、おまえも」と静かに笑った。
ブライトリングのエマージェンシー。
国際救難信号発信機能が付いたこの時計は「航空従事者」そして「無線従事者」、その二つの要件を満たさなければ持つことが許されない時計だった。
そのどちらの資格もない僕には当然持つことができない代物……つまり、絶対に手にすることができないモノだった。
そして以前、熊沢から「堤はお国を守る公務員」だと聞いていた。そこから連想できる職業……僕のなかにはそれほど選択肢はなかった。
湾岸線を走るレパードは折り返し予定地点の大井出口を通過した。
ステアリングを握る堤は「もう少し先まで行ってみよう」と僕の同意を求める風ではない言葉を投げかけてきた。
「さっきの話だが……だいたいは合ってるな」
堤は口元に笑みを浮かべてそう言った。
「だが残念ながら、いまは飛行機乗りじゃないけどな」
残念ながら――。その言葉とは裏腹に、まったく残念そうには聞こえない声だった。
「そんなことより……もう行ってないのか、首都高には」
堤は言った。
いえ――。僕は首を振った。
「復活しました。つい最近ですけど」
「そうなのか?」
「はい。たまにですけど、走ってます」
そうか――。
堤はこちらを振り向くことなくそう言った。
「そういや、カッシーニたちとは会ってないのか?」
「ああ、しばらく会ってないですね」
堤の口から出た懐かしい名前に思わず口元が弛んだ。
「気まぐれで走ってるんで……いつも一人なんですよ」
「なるほど。一人、か――」
堤は前方を凝視したまま僕の言葉を反芻した。
しかしその行為には意味がなく、僕にはただのオウム返しのように聞こえた。
「元々は峠だったんだよな」
堤が僕の方を覗った。
「ドコ?」
「は……?」
「ドコの峠?」
「ああ……大垂水です、たまに箱根にも行きましたけど」
大垂水か――。
堤はそう言うと、何かを考え込むように眉間に皺を寄せた。そしてしばらくして微かに首を傾げると、「行ったことないな。ソコには」と独り言のように呟いた。
レパードは大師の橋を渡り、神奈川県に入った。
しかし堤はアクセルを緩める様子もなく南に向かって走り続けた。
ドコに向かっているのか見当がつかなかったが、特に急ぎの仕事を抱えていない僕にとってはどうでもいいことだった。
「誰かに教わったのか?」
また堤が口を開いたが……僕は首を傾げた。
「運転だよ、クルマの」
「ああ……」
僕は堤の言葉を頭のなかで反芻すると口元を弛め、「教習所ですよ」と運転席を覗った。
「おお~奇遇だな。おれも同じだ――」
堤は大袈裟に声を上げた。しかしそれっきり黙り込んだ。そして一度だけ確認するように横目で僕の方に視線を向けると、その顔には何かを含んだような笑みが広がっていった。
「……なんですか?」
僕は訝る気持ちを抑えて言った。
「ん? ああ……」
堤は笑みを浮かべたまま僕を一瞥した。
「おまえでも冗談を言うことがあるんだな、と思ってよ」
なんだか安心したよ――。
そう言うと小さく息を吐いた。
「もう一回訊くが……あの走りは誰かに教わったのか?」
堤は穏やかな表情で言った。
「いえ」
僕は首を振った。
記憶の限りでは「誰かに教わった」ということはなかった。
僕の走りは真似ではあったが、教えてもらったことは一度もないはずだった。
「じゃ、自己流か?」
堤が怪訝そうに言った。
「そうですね。いつも一人でしたから」
僕は淀みなく嘘を吐いた。
「なるほどな……じゃ、天才なんだな、きっと」
堤はそう言うと鼻で笑った。
レパードは鶴見川に架かる橋を通過した。
そして、やがて現れた生麦の分岐を金港方面へと向かった。堤は相変わらずドコに向かってるのか教えてはくれなかった。あえて僕も訊くことはしなかったが。
ただ、堤があてもなくクルマを走らせている訳ではないだろうということは何となく感じ取ることができた。
「堤さんははじめから首都高なんですよね」
僕は運転席を覗い、平坦な声で尋ねた。
ああ――。
運転席から返ってきたのは僕以上に感情のこもらない応えだった。
「天使を追いかけてるんですよね」
僕はまた運転席を覗ったが、堤からは何も応えがなかった。
堤が天使を追う理由――。
以前、熊沢にも尋ねたことがあったが、彼は「本人に訊けよ」と人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべただけで、その理由を教えてはくれなかった。
「なんで天使を追ってるんですか?」
僕は構わずに重ねて尋ねた。
堤は一瞬怪訝そうな視線を僕の方に向けてきた。
しかし前方に目を戻したときには微かに口元を綻ばせていた。
「ま、春になったら教えてやるよ」
春になったらな――。
堤は何かを含んだような笑みを浮かべると、ウインカーを灯して左車線に移った。
そしてレパードはそのまま東神奈川で首都高を下りた。
一般道に突き当たる出口の信号は青だった。堤は左にウインカーを出すと、ゆっくりとステアリングを左に切った。
しかし……僕はそっと首を傾げた。
右に行けば国道が走っているが、左には埠頭があるだけでなにもない。しかも行き止まりだったような気がするのだが……。
倉庫街を抜け、目の前には白い鉄橋が現れた。すると堤は急に速度を落とし、鉄橋に差しかかる手前で左に寄せて停まった。
「到~着」
堤はシフトをパーキングに入れるとサイドブレーキを引いた。
僕は辺りを見渡した。
フロントガラスの先、橋の入口には「一般車両立ち入り禁止」の看板がある。看板に添え書きされた文字は英語だった。
「到着って……ココですか?」
僕は看板を指さした。
「ああ。米海軍ノースピア、さ」
堤はまるで鼻歌を歌うかのように言った。
「ノースピア?」
「ああ。アメリカ海軍の施設なんだが……この中にジムカーナの練習場があってな――」
堤は口元に笑みをこびりつかせたまま僕に目を向けた。
その刹那、とてつもなく嫌な予感が僕の背筋を走り抜けていった。




